新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月8日は学習の日だった

2015-05-09 08:46:14 | コラム
学習と反省の5月8日:

7日のリハビリで理学療法士に「折角此処まで来たのだから、これまで以上に積極的に出歩く方が良い」と、言わば忠告された。そこで、それならばとばかりに、昨8日は晴天と25度と予測された高温を利用すべしと、歌舞伎町の東宝ビルの7階に設けられたゴジラを間近で見て久し振りに新宿の街を彷徨うかと、午前9時半にKBバスで西口方面に向かった。

この日の装いは半袖シャツに通称「カバーオール」という言わば薄手のジャンパーに、ユニクロのチノパンというもの。これが先ず失敗だった。即ち、あの日差しと気温に対する備えが全く出来ていなかったのだ。帽子もかぶっていなかったし、飲料水の類いも持参していなかったのだから。それはそれとして、ゴジラは歌舞伎町の真ん中からは余り良く拝めず、かなり遠い場所からになった。そこには今時珍しい本当のカメラで写真を撮っている高齢者もいた。

そこから角筈通りを横切ってアルタの辺りまで来たところで、照りつける日光の眩しさと暑さで身体が思うように動かず足も重くなってきた。ここに至って気象条件に対する準備不足と、リハビリを監督される循環器科の田中医師に「これから夏が近くなれば室内外の気温の差に対する備えを十分にしないと」と注意されていたのを思い出して、少し危険だと認識し始めたのだった。

これは所謂「気象病」で、13年8月の2度目の心筋梗塞から立ち直って退院したあの猛暑の年の9月に散々苦しめられた悪夢のような室内外での温度差のことである。そこで、ゆっくりと新宿駅東口から構内に入り、改札口から最も遠い西口に近い15番線から外回りの山手線で新大久保に出て帰宅した。

実は、良くあることで昨日も歩いている間に筋肉痛か何か判然としない痛みが鳩尾の辺りを襲ってきたで、散歩の中止を決めた次第だ。帰宅して直ちに「貼るカイロ」で手当てしてから30分ほど横になって休養した。その時ほぼ正午で、やや辛い2時間半ほどの学習となってしまった。横になっている間に不思議な現象が起こり、室温は25度もあるのに、薄ら寒いのだった。家内もジムから帰ってきて長袖のシャツを着て対応する始末だった。

今週は不幸にも台風の影響で悪天候のようだが、今後は気温が高い日には似合わないという体裁を忘れて帽子を着用し、ポカリスエットでも持ち歩くべしと固く心に誓った次第だ。このような備えの無さのために昨日は食欲も不振で、折角此処安定させたばかりの腸の調子も少し狂ってきたので、反省しきりである。だが、夕食後の血圧は119/65と安定していたのは、せめてもの救いだった。

午後からはまり動かずにテレビを見るか、PCの前に座ってメールの処理をしていただけにして、6時過ぎからは巨人の4連敗を期待してDeNAとの試合を途中まで見ていた。あの広島戦でのインフィールドフライの処理を誤ったところで巨人は短期的に運に見放されたと思っていたので、5回に5対4とDeNAが1点差と迫ったところで巨人の勝ちは消えたと判断して見るのを止めて正解だった。

巨人の4連敗は良いニュースだったが、悪いものもあった。それは、例によって例の如くに韓国政府が我が国の世界遺産登録に言い掛かりを付けてきたことがその一つ。近藤元文化庁長官が「ユネスコは政治を持ち込む場ではなく、イコモスが既に登録の勧告をしたものが覆ることはない」と真っ当な正論を述べておられたのはその通りだとは思う。

だが、私の持論である「論争と対立」を怖れることなく出るべきところと言うべき相手を選んで真っ向から韓国の不当な言い掛かりを叩き潰さないで、遠吠え的な官房長官の談話や外務大臣の否定論を国内で発しているだけでは、諸外国は「日本から反論も否定もしてこないのでは韓国の主張が正しいのでは」と誤解される危険性が残ると思う。

「論争と対立」であるが、既に韓国とは十分に多くの問題でイヤと言うほど対立してしまっているので、今更論争を挑んでも現状以上の対立はあるまい。我が国は出るべき場に出ていって真っ向から論争を挑んでも、我が国がその対立でこれ以上何か貴重なものを失うことなどあるまいと信じている。「言わなくても解ってくれるだろう」という腹芸は我が国だけに通じる文化である。韓国が告げ口をした諸国には我が国の正当性を伝えるべきだ。

もう一つの不愉快なニュースは宮崎駿が原発反対の組織で資金集めの団体の責任者になることを決めたというもの。私はこの人物をマスコミがアニメがどうのと言って囃し立てる度毎に、その胡散臭さに辟易としていた。宮崎はXX婦問題についても立派な反日的立場をとっているではないか。原発についても大江健三郎や坂本龍一と同じ穴の狢である。このニュースで巨人4連敗の快感も帳消しにされてしまったのは遺憾だった。

2~3週間ほど前に週刊新潮がヤン・デンマンに「特定の分野での専門家乃至は権威者に、その持ち場を離れた問題で何かを言わせて有り難がるのは日本だけのおかしな現象だ」と批判させていた。宮崎某もアニメだけに専念していれば良かったのに、原発反対だのXX婦がどうのと言い出すのは思い上がりだと断じる。こんなことを言えば「お前さんは何の専門家か?」と言われそうなので、この辺りで終わりにする。