新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

安倍総理のアメリカ議会での演説について

2015-05-11 07:23:59 | コラム
頂門の一針の読者のご要望に応えて感想を:

多少時期的には遅れましたが、「頂門の一針」の読者の一人から下記のようなお尋ねがあったので、何とか答えてみました。やや冗長ですがご一読を。

<立派に通じ米国人に感動を与えたと思いますが、英語学の泰斗、大兄の評価をお聞かせ頂ければ幸いです。>

は大いに光栄に存じます。だが、私は「英語学」については無知で、「泰斗」は過剰評価であり、あの演説を評価するには適任者ではないと本気で考えおります。私は「英語」は「学」ではなく意思伝達の手段に過ぎないと信じており、我が国の学校教育の誤りを指摘してきた者です。

さて、演説ですが、ザット読んだだけで部分的に聞いてだけでの評価は可能でも、原稿全体の評価乃至は批判はその任にあらずと思いますが。

直感的に言えることは「日本人が書いた英語である為か、所謂”big word”と”wordy”な表現と平易な表現が混在しているな」との印象があります。スタンディング・オベイションの数は(”I am afraid I could be completely wrong.”でしょうが)彼等の社交辞令の上手さを考えると・・・・という気もしますが。しかし、私の言うことは飽くまでもビジネスの世界での言葉遣いが基調にあるとお考え下さい。

それに私は子供の頃から言わば第二言語として英語で話しておりましたし、アメリカの会社に転身してからは「アメリカの大手企業内で通用する英語とは如何なるものか」を懸命に覚えただけで、政治の世界での言葉学は存じません。

更に英文の原稿を熟読し終えていない感覚で申し上げれば「美文ですが、私には使えないか使ったこともないような文語的な言葉が多く、立派だが非常に固いという印象があります。我々の間ではというか、アメリカの会社内のプリゼンテーションであるとか、社外の講演やセミナー等でも、もう少し易しい言葉でかみ砕いた表現がされていたと思います。

しかし、書き手が非常に良く文語的英語をご存じだったことは分かりますし、感心しております。特に「避ける」と言いたくて”avert”が使われ、「歴代の総理を継承する」が”uphold”だったのには驚きました。この"uphold"は最初には聞き取れず、何回目かで解って「こういう言葉があると承知していたが、実際に使うのはこういう場が相応しいのかな」と思ったのが、偽らざる感想でした。

言ってみれば、上述のように政治や外交の場では「難しく格が高そうな”big word”を並べて"wordy"(using too many words, especially formal ones と Oxford にあります)になるようなのだと思いました。結論めいた感想を言えば「原稿の書き手は矢張り我が国の学校教育で習い覚えた英語の極めて優秀な使い手なのだろうな」となって、私とは住んでいた世界が違いのかと僻みたくなりました。これは決して皮肉でも何でもありません。私は違っていて当然だと思っていますから。

総理の英語の発音の評価をお尋ねならば(短期留学と駐在のご経験がおありのようですが)日本の学校教育で学ばれた英語としては平均を遙かに超えて正確だったと思って聞きました。だが、最初のところでは多少以上の緊張があったようで、口が思うように動かず聞き取りにくい個所がありました。だが、時間が経つにつれ強調したいところでは声を張られるようにもなり、アメリカ人にも聞き取りやすくなっていったと見ておりました。立派です。

あれだけの長さのスピーチを初めてアメリカの議会でしようと意図されたこと自体は、誠にご立派で賞賛に値すると申し上げました。だから、英語自体には触れないと言ってあったのです。スタンディングオベイションの数が多かったことは、英語自体の巧拙よりもそも内容に対する拍手と理解しております。

以前にも指摘しましたが、余程リハーサル(それもドレスリハーサルまでも)を重ねておられたと見ております。我々は社内の上層部向けのプリゼンテーションでも原稿の段階から事業部の責任者かそういう能力に優れた者が目を通しておりますし、リハーサルは単独と集団で何度もやっております。総理にそういう時間が良く取れたと感心している次第です。

なお、一寸気になったこともありました。総理が壇上から降りられたところで数人の議員がスピーチのハードコピーにサインを求めていたことです。これは感心しません。我々の常識というか習慣では、あれは終わってから配付するか「お帰りの際に出口に用意してあるハードコピーをお持ち帰り下さい」と断るのです。

それは先に配ると、聴衆は読んでいて聞いていないか、聞かないでも後で読めば良いと注意散漫になる危険性があるためです。先に配ったとしたら一寸残念です。あの拍手の数はもしかすると事前に配ったので議員たちは読み終えてあったのかと、一瞬疑いました。

また、畏メル友S氏よりの情報では、あの原稿を書いたのは谷口智彦という1957年生まれの東大法卒の方で、プリンストン大学の客員研究員や日経BPの「日経ビジネス」の編集委員等を経験された多彩な経歴をお持ちで、第二次安倍内閣の内閣官房審議官だそうです。英語の原稿もこの方の手になるとか。

散漫ですが、私は上記のように見ております。谷口氏が書かれたとして、その経歴から見てもアメリカのビジネスの世界で使われる文章とは異なる点が見えるのは仕方がないかと思うのですが。




5月8日は学習の日だった

2015-05-09 08:46:14 | コラム
学習と反省の5月8日:

7日のリハビリで理学療法士に「折角此処まで来たのだから、これまで以上に積極的に出歩く方が良い」と、言わば忠告された。そこで、それならばとばかりに、昨8日は晴天と25度と予測された高温を利用すべしと、歌舞伎町の東宝ビルの7階に設けられたゴジラを間近で見て久し振りに新宿の街を彷徨うかと、午前9時半にKBバスで西口方面に向かった。

この日の装いは半袖シャツに通称「カバーオール」という言わば薄手のジャンパーに、ユニクロのチノパンというもの。これが先ず失敗だった。即ち、あの日差しと気温に対する備えが全く出来ていなかったのだ。帽子もかぶっていなかったし、飲料水の類いも持参していなかったのだから。それはそれとして、ゴジラは歌舞伎町の真ん中からは余り良く拝めず、かなり遠い場所からになった。そこには今時珍しい本当のカメラで写真を撮っている高齢者もいた。

そこから角筈通りを横切ってアルタの辺りまで来たところで、照りつける日光の眩しさと暑さで身体が思うように動かず足も重くなってきた。ここに至って気象条件に対する準備不足と、リハビリを監督される循環器科の田中医師に「これから夏が近くなれば室内外の気温の差に対する備えを十分にしないと」と注意されていたのを思い出して、少し危険だと認識し始めたのだった。

これは所謂「気象病」で、13年8月の2度目の心筋梗塞から立ち直って退院したあの猛暑の年の9月に散々苦しめられた悪夢のような室内外での温度差のことである。そこで、ゆっくりと新宿駅東口から構内に入り、改札口から最も遠い西口に近い15番線から外回りの山手線で新大久保に出て帰宅した。

実は、良くあることで昨日も歩いている間に筋肉痛か何か判然としない痛みが鳩尾の辺りを襲ってきたで、散歩の中止を決めた次第だ。帰宅して直ちに「貼るカイロ」で手当てしてから30分ほど横になって休養した。その時ほぼ正午で、やや辛い2時間半ほどの学習となってしまった。横になっている間に不思議な現象が起こり、室温は25度もあるのに、薄ら寒いのだった。家内もジムから帰ってきて長袖のシャツを着て対応する始末だった。

今週は不幸にも台風の影響で悪天候のようだが、今後は気温が高い日には似合わないという体裁を忘れて帽子を着用し、ポカリスエットでも持ち歩くべしと固く心に誓った次第だ。このような備えの無さのために昨日は食欲も不振で、折角此処安定させたばかりの腸の調子も少し狂ってきたので、反省しきりである。だが、夕食後の血圧は119/65と安定していたのは、せめてもの救いだった。

午後からはまり動かずにテレビを見るか、PCの前に座ってメールの処理をしていただけにして、6時過ぎからは巨人の4連敗を期待してDeNAとの試合を途中まで見ていた。あの広島戦でのインフィールドフライの処理を誤ったところで巨人は短期的に運に見放されたと思っていたので、5回に5対4とDeNAが1点差と迫ったところで巨人の勝ちは消えたと判断して見るのを止めて正解だった。

巨人の4連敗は良いニュースだったが、悪いものもあった。それは、例によって例の如くに韓国政府が我が国の世界遺産登録に言い掛かりを付けてきたことがその一つ。近藤元文化庁長官が「ユネスコは政治を持ち込む場ではなく、イコモスが既に登録の勧告をしたものが覆ることはない」と真っ当な正論を述べておられたのはその通りだとは思う。

だが、私の持論である「論争と対立」を怖れることなく出るべきところと言うべき相手を選んで真っ向から韓国の不当な言い掛かりを叩き潰さないで、遠吠え的な官房長官の談話や外務大臣の否定論を国内で発しているだけでは、諸外国は「日本から反論も否定もしてこないのでは韓国の主張が正しいのでは」と誤解される危険性が残ると思う。

「論争と対立」であるが、既に韓国とは十分に多くの問題でイヤと言うほど対立してしまっているので、今更論争を挑んでも現状以上の対立はあるまい。我が国は出るべき場に出ていって真っ向から論争を挑んでも、我が国がその対立でこれ以上何か貴重なものを失うことなどあるまいと信じている。「言わなくても解ってくれるだろう」という腹芸は我が国だけに通じる文化である。韓国が告げ口をした諸国には我が国の正当性を伝えるべきだ。

もう一つの不愉快なニュースは宮崎駿が原発反対の組織で資金集めの団体の責任者になることを決めたというもの。私はこの人物をマスコミがアニメがどうのと言って囃し立てる度毎に、その胡散臭さに辟易としていた。宮崎はXX婦問題についても立派な反日的立場をとっているではないか。原発についても大江健三郎や坂本龍一と同じ穴の狢である。このニュースで巨人4連敗の快感も帳消しにされてしまったのは遺憾だった。

2~3週間ほど前に週刊新潮がヤン・デンマンに「特定の分野での専門家乃至は権威者に、その持ち場を離れた問題で何かを言わせて有り難がるのは日本だけのおかしな現象だ」と批判させていた。宮崎某もアニメだけに専念していれば良かったのに、原発反対だのXX婦がどうのと言い出すのは思い上がりだと断じる。こんなことを言えば「お前さんは何の専門家か?」と言われそうなので、この辺りで終わりにする。

韓国や中国の不当な発言には真っ向から反論し否定せよ

2015-05-08 16:15:26 | コラム
論争と対立を怖れるな:

畏友尾形氏は慰安婦問題での我が国の談話について

 <「慰安婦として筆舌に尽くし難い苦労をなさった方々に心からのお詫びを申し上げます」

などというバカな言葉を繰り返してきたのです。>

と指摘しておられる。尤も至極でしょう。

このようなことを発表すれば、この問題の背景も歴史をも知らない諸外国は判断材料がないので信じてしまうでしょう。また、自らの非を隠すためにも、絶好の機会到来とばかりに我が国を非難の対象にするでしょう。何度でも言いますが、我が国以外の人たちの頭脳構造では「聞いていないことは『聞かなかったこと』だと認識する」のですから、言うべきことと反論することは絶対に表明せねばならないのです。

外国人との論争は容易ではなく、辛いし苛酷でしょうが、そこを避けて通ってはならないのです。これも繰り返しですが、官房長官が不快の念を記者会見で(日本語で!)表明したくらいでは「我が国に向かって言っているのではないような」という程度の解釈になってしまうと危惧します。韓国も中国も屡々報道官が四の五のと言いますが、それを我が国の彼等の回し者の如きメディアが大きく採り上げすぎです。

私は一度でも良いから「韓国政府の今回の声明は戯言であり、斯く斯く云々の理由で誤りである」と関係がない諸外国向けにも公式に発信して貰いたいと望んでいます。以前から言っていますが、2007年の安倍総理の辞任は"USA TODAY"ではベタ
記事でした。CNNのニュースでは私が聞いていた限りでは一度だけで終わりました。

アメリカでさえ我が国への関心の度合いはこの程度です。その他の国での関心の度合いは推して知るべしでしょう。韓国はそこを狙っているとしか思えません。そういう状況ですから、韓国よりも国際的に影響力が高い大勢力に成り上がった中国が何か言えば、事情を知らぬ諸国は「あーそうか。日本も反論しない以上は真実なのか」と受け止めるでしょう。

我が国は国内だけに通用する善意に基づいた「以心伝心」のゲームを、思考体系の異なる外国相手に何時までやれば気が済むのかと気が気ではありません。

バンガーナーかバムガーナか

2015-05-07 19:13:10 | コラム
私の意見は:

遅ればせながら、「バンガーナーかバムガーナか」について、私の意見を述べて見ます。その前に、カタカナ表記は「バムガナー」か「バンガナー」のどちらかにしたいと申し上げておきます。

極論を言えば「バmガーナ」とでもする以外に、このようなスペリングをカタカナ表記するのはかなり難しいと思っております。しかし、何れを採るのかと問われれば、「実際の発音に近いと思うNHK方式」と思います。それは、恐らくアメリカでは”Bum”にアクセントを置いて「バムガナー」となると、経験的に判断するからです。このように音節が多い単語は、最初のsyllableにアクセントを持ってくれば、後は軽く流すだけだと承知しているからです。

序でのようですが、”hamburger”は屡々”ham”にアクセントを置く「ヘンバガー」と聞こえるように言うアメリカ人が多いと思っております。「ム」はローマ字式では”mu”ですが、英語では子音の”m”だけしか発音されませんから、乱暴に言えば(自己矛盾かも知れぬ)カタカナ表記が「ン」でも「ム」でも同じかも知れません。

テレビに氾濫するおかしなカタカナ語

2015-05-07 09:21:33 | コラム
私にはテレビ局は日本語を破壊する気だとしか思えないのだが;

カタカナ語排斥派であり批判論者の私は、近頃のテレビの局アナと登場するコメンテーターだの芸人が使う日本語擬きを聞いていると、日本語の将来がどうなってしまうかと憂鬱になるとともに危機感を覚えている。私はあのカタカナ語の氾濫は、取りも直さず次世代というか現世代の若者の日本語での表現力の劣化に他ならないと思って聞いている。

こう言っただけでは、何を言いたいのか解って貰えないかと危惧するので、そのテレビが濫用するカタカナ語(ひょっとして彼等はこれが英単語だと思い込んでいるのかも知れないが、とんでもない誤認識と国語と英語の理解度の低さである)を使ってこじつけの例文を作ってみよう。これをお読み頂いてまともな日本語だったらどうなるかがお解りになる方は素晴らしいと思う。

「XX君と△△さんがコラボしてイベントをスタートさせた。会場はシンプルでコンパクトに出来ていたが連日の雨でスリッピーだった。スタッフたちはプライベートを犠牲にしてハードワークした。カジュアルな服装をしたスタッフにはジューシーでクリーミーでボリューミ-な食事がサプライされた。XXと△△の二人はイベントの期間中には何のトラブルもなく大成功で『最高』と叫んだ」

とでもなるかと思う。これを普通の日本語に書き直せば、下記のようになるだろうか。

「XX君と△△さんが共同で催し物を開催した。会場は簡素で小規模だったが、連日の雨で下が滑りやすかった。職員や従業員たちは自分たちの時間を犠牲にして懸命に働いていた。簡単な服装をした職員たちには大盛りの汁っけたっぷりで、クリーム味の食事が出されていた。XXと△△の二人は大声で『今回の催しもの期間中には何の揉め事なく、大成功だった』と叫んでいた」

上記のカタカナ語の解説は敢えて避けるが、私が気になっていることは「従業員、職員、係員、幕僚、参謀」等々の多岐にわたる使い方がある”staff”の濫用と、一口に「揉め事」と言えるかも知れない、事故、故障、諍い、苦情、心配事、品質問題等をひっくるめて「トラブル」(=”trouble”)のようにカタカナ語化して使っているのは、非常に芳しくないと思う。あれでは余りにも何を言いたい嫁の具体性に欠けている。

上記では「最高」も入れたのは、芸人のみならず普通の方々から子供までが「何か非常に優れていた」か「素晴らしかった」か「非常に美味だった」と言いたい時に「最高」と叫ぶのだ。だが、これでは何がどう良かったかの具体的な表現がないので、真意が伝わってこない。それ故に日頃から苦々しく思っていたので「表現力の劣化と不足の例」としてカタカナ語の仲間入りをさせた次第だ。

これらの言葉の使い方というか使われ方が「テレビ」という媒体を通して耳と時には目からも入って判断力に欠ける層に普及していくので、私は非常に好ましからぬことだと大変遺憾に思っている。今更テレビ局に反省と自粛を求めても手遅れだろうが、学校と家庭にも何とか是正の手段を講じて貰いとも願っている。