英語教育の至らなさがカタカナ語を乱造するのだ:
これまでに繰り返してカタカナ語を批判し続けてきたが、私はその氾濫を生じさせている大きな原因が「我が国の至らざる英語教育」にあると思っている。そこで、今回はあらためて「我が国に於いて、それほど英語による自分の意志を思うままに表現できるようになる必要があるのか」と「我が国の英語教育の問題点」を論じてみようと思うのだ。そういう議論の前提には「私自身が英語を思うままに操れて自分の意志を表現できることが最低限の条件であるアメリカの会社という世界で20年以上過ごしてきた経験」があるのだ。
*小学校の低学年から英語を教える必要などない:
もう10数年前になるが、ある財界人や学識経験者が参加しておられる勉強会で、通産省の局長だった教育審議会(?)の委員として「小学校低学年から英語を教えることになった」と報告されたことがあった。私の年来の持論は「無意味なこと」だったのだが、敢えて批判もせず反論もせずに承っていた。ところが、帰路にエレベーターで一緒になった新日本製鐵(当時)の副社長だったKK氏が「万人に強制すべき事ではないですな」と言われたので、勿論賛成したのは言うまでもないこと。
我が国は世界でも珍しい「英語を介さなくても如何なる学問も学べるし、研究開発が出来る国」なのである。それにも拘わらず、この世には「『国際化』や『グローバリゼイション』の時代にあっては国際語となっている英語で自由にコミュニケーションができるような国際人を養成せねばならない」という尤もらしい説を流しては、英語教育の充実を叫ぶ輩が誠に多いのである。その為には「頭が柔軟な10歳前の児童たちに英語を学ばせておくことが良いのだ」などと(敢えて戯言と言うが)いう説を唱える者が、国会にも官庁にも増えてきたのだった。
私が何故我が国の学校教育に於ける英語が宜しくないと言うのには、根拠があるのだ。第一には、20年以上もアメリカの企業のマネージャーとして我が国の需要家や総合商社の方たちと折衝してきたが、アメリカの支配階層にいる者たちを完膚なきまでに論破するとか、議論を組み立てて説得できる方は、失礼を顧みずに言えば、極めて希だったのだ。私は「そのような不十分な英語能力はその方々の責任ではなく、我が国の至らざる英語教育がその責めを負うべきことである」と申し上げてきた。
その点を見事に表していたことが1990年頃にあった。それは、テレビの討論会に出ておられた女性の高校の英語教師の方が、中学から高校・大学と何年も英語を勉強しても一向に話せるようにならないのが問題だ」という指摘に対して「見当違いである。我々の目的は教科の一つして英語を教え、その成績によって生徒たちを5段階で評価する所にあるので、最初から話せるようにすることなどと考慮していない」と堂々と述べたのだった。見事だと感心して聞いた。換言すれば「科学として英語を教えている以上、会話能力などは目標にはない」なのだ。
*万人に強制することではない:
この点を改めて強調しておけば「1億2,600万人が皆英語をペラペラになる必要があるのか」ということだ。私が永年指摘して来たことは「私のようにアメリカの大手企業に彼らの一員として勤務するような者には、ある程度以上の英語力は最低の必要条件であり評価の対象にもならない」のである。また、こういう職(job)にあれば、アメリカの誇り高き支配階層にある者たちと日常的に接触するので、そこに通用するような格式も求められる。だが、一般人がそういう連中と接して高度な会話を楽しめるような次元に達する英語を習得する必要があるとは思えない。
または、多くのノーベル賞を獲得された学者や研究者の方々のように、アメリカで活動されるのであれば、native speaker並みの英語力は必須だろうが、一般人がそういう必要性に迫られることなど先ずあり得ないと思う。故に、私はそこまでの英語力を養うのではなく、飽くまでも趣味として高度な読解力を身につけておくことなどは大変結構なことだと考えている。我が国の学校で良く勉強された方には、私などが遠く及ばない読解力を備えた方は沢山おられるが、その能力と“How to express myself in English.”とは結びついていない。
また、時々「外国人に街中で道を訊かれて答えられずに恥ずかしい思いをした」のような言うなれば自虐的なことを言われて反省する方もおられる。この事も敢えて言うが、見当違いなのである。英語で道案内することは寧ろ非常に難物な会話なのだ。特に東京のように道路が碁盤目にはなっていない街では、日本語で説明するのだって容易ではないのだ。実は、私は数年前に「有り余る英語力を抱えていても、リタイア後の20年間に都内で道を訊かれたことは3回しかない。私は余程英語が解らないようなか顔付きに見られたか」と慨嘆したことがあった。
ここまでを纏めてみれば、「英語を必要とする仕事を選ばれたのならば、我が国の英語教育を忘れて、そこまでの能力を養えるような勉強法を探る必要があるだろう」と「海外に出てビジネスの分野で活動するか、大学や研究機関に身を置かれるのならば、自分の思うことを表現する能力と読解力を向上させておるべきだろう」となる。学校の英語では習得できない能力だ。
更に言えば「英語の能力の他に、我が国とアメリカとの文化(言語・風俗・習慣・思考体系等)の違いを十分に認識しておくこと」は絶対に必要なのだ。私は我が国の英語教育の欠陥として長い間指摘して来たことが「単語の知識などという無益なことを重要視しているが、肝腎の文化比較論を何処まで行っても教えていないこと」を指摘して来た。アメリカ側だってここまでの教育はしていないので、屡々政府や民間での重要な交渉事などで齟齬を来している。
言いたくはないが「私はアメリカの会社で10年も過ごしてから、漸くその見えない壁の実態に気が付いて、そこを如何にして乗り越えるかを懸命に考えた」のだった。この文化比較論も重要だが、その先にある見えない壁が宗教なのだ。彼等アメリカ人の多くは一神教であるキリスト教の信者であるから、物事の考え方の基本に「神の存在を信じるか否か」がある。論旨を飛躍させるが、そこにあるのが「二進法的思考体系」なのである。思うままに英語で自己表現をしようと思えば、この2点を知っておくべきなのだ。だが、学校では教えていないだろう。
やや飛躍してしまうが、このような不十分な英語の教え方をしたので、単語の知識だけが豊富になって、無闇矢鱈にカタカナ語を製造してしまうのだと考えている。その辺りはまた別の機会に詳しく述べていこうと思う。
これまでに繰り返してカタカナ語を批判し続けてきたが、私はその氾濫を生じさせている大きな原因が「我が国の至らざる英語教育」にあると思っている。そこで、今回はあらためて「我が国に於いて、それほど英語による自分の意志を思うままに表現できるようになる必要があるのか」と「我が国の英語教育の問題点」を論じてみようと思うのだ。そういう議論の前提には「私自身が英語を思うままに操れて自分の意志を表現できることが最低限の条件であるアメリカの会社という世界で20年以上過ごしてきた経験」があるのだ。
*小学校の低学年から英語を教える必要などない:
もう10数年前になるが、ある財界人や学識経験者が参加しておられる勉強会で、通産省の局長だった教育審議会(?)の委員として「小学校低学年から英語を教えることになった」と報告されたことがあった。私の年来の持論は「無意味なこと」だったのだが、敢えて批判もせず反論もせずに承っていた。ところが、帰路にエレベーターで一緒になった新日本製鐵(当時)の副社長だったKK氏が「万人に強制すべき事ではないですな」と言われたので、勿論賛成したのは言うまでもないこと。
我が国は世界でも珍しい「英語を介さなくても如何なる学問も学べるし、研究開発が出来る国」なのである。それにも拘わらず、この世には「『国際化』や『グローバリゼイション』の時代にあっては国際語となっている英語で自由にコミュニケーションができるような国際人を養成せねばならない」という尤もらしい説を流しては、英語教育の充実を叫ぶ輩が誠に多いのである。その為には「頭が柔軟な10歳前の児童たちに英語を学ばせておくことが良いのだ」などと(敢えて戯言と言うが)いう説を唱える者が、国会にも官庁にも増えてきたのだった。
私が何故我が国の学校教育に於ける英語が宜しくないと言うのには、根拠があるのだ。第一には、20年以上もアメリカの企業のマネージャーとして我が国の需要家や総合商社の方たちと折衝してきたが、アメリカの支配階層にいる者たちを完膚なきまでに論破するとか、議論を組み立てて説得できる方は、失礼を顧みずに言えば、極めて希だったのだ。私は「そのような不十分な英語能力はその方々の責任ではなく、我が国の至らざる英語教育がその責めを負うべきことである」と申し上げてきた。
その点を見事に表していたことが1990年頃にあった。それは、テレビの討論会に出ておられた女性の高校の英語教師の方が、中学から高校・大学と何年も英語を勉強しても一向に話せるようにならないのが問題だ」という指摘に対して「見当違いである。我々の目的は教科の一つして英語を教え、その成績によって生徒たちを5段階で評価する所にあるので、最初から話せるようにすることなどと考慮していない」と堂々と述べたのだった。見事だと感心して聞いた。換言すれば「科学として英語を教えている以上、会話能力などは目標にはない」なのだ。
*万人に強制することではない:
この点を改めて強調しておけば「1億2,600万人が皆英語をペラペラになる必要があるのか」ということだ。私が永年指摘して来たことは「私のようにアメリカの大手企業に彼らの一員として勤務するような者には、ある程度以上の英語力は最低の必要条件であり評価の対象にもならない」のである。また、こういう職(job)にあれば、アメリカの誇り高き支配階層にある者たちと日常的に接触するので、そこに通用するような格式も求められる。だが、一般人がそういう連中と接して高度な会話を楽しめるような次元に達する英語を習得する必要があるとは思えない。
または、多くのノーベル賞を獲得された学者や研究者の方々のように、アメリカで活動されるのであれば、native speaker並みの英語力は必須だろうが、一般人がそういう必要性に迫られることなど先ずあり得ないと思う。故に、私はそこまでの英語力を養うのではなく、飽くまでも趣味として高度な読解力を身につけておくことなどは大変結構なことだと考えている。我が国の学校で良く勉強された方には、私などが遠く及ばない読解力を備えた方は沢山おられるが、その能力と“How to express myself in English.”とは結びついていない。
また、時々「外国人に街中で道を訊かれて答えられずに恥ずかしい思いをした」のような言うなれば自虐的なことを言われて反省する方もおられる。この事も敢えて言うが、見当違いなのである。英語で道案内することは寧ろ非常に難物な会話なのだ。特に東京のように道路が碁盤目にはなっていない街では、日本語で説明するのだって容易ではないのだ。実は、私は数年前に「有り余る英語力を抱えていても、リタイア後の20年間に都内で道を訊かれたことは3回しかない。私は余程英語が解らないようなか顔付きに見られたか」と慨嘆したことがあった。
ここまでを纏めてみれば、「英語を必要とする仕事を選ばれたのならば、我が国の英語教育を忘れて、そこまでの能力を養えるような勉強法を探る必要があるだろう」と「海外に出てビジネスの分野で活動するか、大学や研究機関に身を置かれるのならば、自分の思うことを表現する能力と読解力を向上させておるべきだろう」となる。学校の英語では習得できない能力だ。
更に言えば「英語の能力の他に、我が国とアメリカとの文化(言語・風俗・習慣・思考体系等)の違いを十分に認識しておくこと」は絶対に必要なのだ。私は我が国の英語教育の欠陥として長い間指摘して来たことが「単語の知識などという無益なことを重要視しているが、肝腎の文化比較論を何処まで行っても教えていないこと」を指摘して来た。アメリカ側だってここまでの教育はしていないので、屡々政府や民間での重要な交渉事などで齟齬を来している。
言いたくはないが「私はアメリカの会社で10年も過ごしてから、漸くその見えない壁の実態に気が付いて、そこを如何にして乗り越えるかを懸命に考えた」のだった。この文化比較論も重要だが、その先にある見えない壁が宗教なのだ。彼等アメリカ人の多くは一神教であるキリスト教の信者であるから、物事の考え方の基本に「神の存在を信じるか否か」がある。論旨を飛躍させるが、そこにあるのが「二進法的思考体系」なのである。思うままに英語で自己表現をしようと思えば、この2点を知っておくべきなのだ。だが、学校では教えていないだろう。
やや飛躍してしまうが、このような不十分な英語の教え方をしたので、単語の知識だけが豊富になって、無闇矢鱈にカタカナ語を製造してしまうのだと考えている。その辺りはまた別の機会に詳しく述べていこうと思う。
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