近頃気になっている事柄を:
中国からの留学生の著増:
先日、ST教授との定例の懇談会で、教授が担当しておられる大学院の研究科では全員が中国人だと伺って、大袈裟に言えば慄然となった。何処かで「中国からの留学生は23年5月の統計では115,493人で、そのうち大学には80,362人とあったのを見た記憶はあった。また、最近のニュースでは東京大学には3,396人で全体の12%であり、早稲田大学には3,300人で7%であるとも報じられていた。
ここまでに増えた背景には「中国での大学進学は競争も激しく極めて困難なので、比較的入りやすく学費も経済的なので、日本の大学に向かってくるのだ」という解説もあった。単純素朴に閃いたのは「その分だけ日本の高校生が損をしているのではないのか」だった。なるほど、ここ新大久保駅と高田馬場駅周辺に中国人の青年が数多く闊歩している訳なのだ。
だが、それよりも何よりも、深く思いを巡らせば、オーストラリアの先例もあったことだし、政府は物議を醸す事を承知で「外国人へのヴィザ発給または移住を再検討すべき時期が来ているのではないか」と言いたくなった。昨日、診察を受けた医師に「雑談ですが」と断って、この中国からの急増に触れて「医学界では?」と伺ってみると「それがねー」と、一瞬表情が曇ったので、何を言われたいかは読めた。
内閣総理大臣という激務と激職:
石破首相は自ら「人付き合いが悪くケチだと言われる」と認められたそうだが、私は「問題はそんな所にはない」と思っている。「総理大臣になってみたら忙しくて疲れる」と、こぼしたと報じられたのには「打っ魂消る」思いだった。総理大臣とは一国のgeneral managerなのだから、四方八方に目も気も配った上で、1年365日を寝ずに職務を遂行するくらいの心構えと気構えが必要だろうに。
だが、今日までの半年間だったの働きぶりを見ていれば、5段階の評価の3すら怪しい気がしてならない。直近では、高額医療費問題での揺らぎと10万円の商品券配布がその典型的な「至らざる点」だろう。総理大臣たる者は「難局に直面して、考えずに閃いた手を打てば、それが最高で最善の措置だった」となるような訓練をして準備してから挑戦すべき地位だったと知らなかったようだ。
商品券問題などは事前に先例の有無を調べ上げて置いてあれば「先例があったから自分が踏襲しても良い」などと言える時期ではないことも読めなかったとは・・・と、批判したくもなろうというもの。産経新聞は「急遽アメリカに飛んでトランプ大統領と関税問題で折衝すべきではないか」と問われて「必要があれば」と言ったと書かれていた。「必要がある」と未だに認識していないとは凄すぎる。
私はアメリカの大手企業のCEOや副社長たちの仕事ぶりを間近で見ていて、頭脳も然る事ながら身体的な激務であり、休日返上ではなくて、休日はないことだろうと承知している。その結果として社業は繁栄し、離婚が増える傾向があるのも見てきた。石破首相祖そのくらいの覚悟を持って5回目の挑戦をして欲しかった。
高校野球と「下の名前」:
話の方向をグッと変えよう。先日横浜高校の優勝で終わった選抜高校野球は気が向けば見ていた。では何を見ているのかと言えば「高校生が厳しい練習を経てきた真摯敢闘振り」ではないのだ。気になるのが「名前」(何処かの間抜けが「下の名前」などと言うあれだ)である。試合開始前にアナウンサーが場内放送で聞かせてくれる「下の名前」の90%は解読不能なのは、最早嘆きではなくて、諦めである。
以前には「現代の若き親たちは意気込んで、日本古来の文化の破壊を目指しているのか」とまで指摘した事があった。要するに「命名」に新しき時代の息を吹き込もうとしているのかと、過大に評価していたのだ。今でもそうであって欲しいのだがと、密かに願っているが・・・。
我々の時代の親たちが先ず使わなかったような字が多用されるし、命名には確実に流行があるのだ。思い出せるだけの例を挙げれば、相対するティームには「翔」単独か複合体が2~3名はいるし、「大」を「ヒロ」と読ませるし、二文字目に「希」、「輝」、「斗」、「平」を使うし、「雄大」や「将大」も人気だ。中には阪神の「石井大智」が珍しいと思っていたら、今回は「大智」が確か3名もいた。
これらはまだ読もうと思えば読めるが、絶対に解読不能な当て字や、勝手な読み方をしている例が多い。また、我々の世代に名前に使われた例を知らない「無沙汰」の「汰」使って、例えば「翔汰」のようにするのも目立った。他には、普通の漢字に人偏だの草冠を付けた使い方がある。よくそんな漢字を知っていたなと感心させられている「茉」などと言う漢字は92年間で使えたこともなかったのに。
当方は古き良き「昭和一桁」の生まれで戦時中の育ちだが、命名には「その一家に年代伝わる一文字を使うとか、慎重に姓名判断などを頼りにしたものだった。現代の漫画もアニメーションの類は一つも見たことがないが、あのような新時代の「下の名前」はそういう所にヒントか先例があるのかな、などと考えている。
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