アメリカ合衆国では:
定年制はない:
アメリカの文化というか習慣では「何人と雖も年齢、性別、国籍で差別されてはならない」のである。従って、企業社会においても「定年制」など無い。各自が引退したいときに「リタイア」すれば良いのである。但し、会社にはpension即ち年金制度があるので、長く在職した方が良いのだが、所属する部門の上司が長が逗留を認めてくれるかどうかは、また別の問題である。今までに経験したところでは、我が国には「アメリカの会社には定年制がないこと」は余り知られていなかったと思う。
我が社の本社機構では「年齢と勤務年数の合計が85に達すると、年金の満額が貰える」という制度があった。だが、我が国とは趣を異にする中途入社または採用の社員が多いので、85に到達するのは容易ではなかった。因みに、東京はこの制度の適用外だった。
雇用機会均等法(Equal Employment Opportunity=EEO)
「雇用機会均等法」の前に「男女」と付けた方が良いかもしれない。恐らく、多くの方はアメリカでは女性の権利が尊重されていて「男女平等」であり、“Ladies first“〔レデイーファーストは日本語で「レイデイース・ファースト」が正しい〕が徹底していると信じておられるのではなかろうか。
実態はといえば、1940年頃には女性は銀行口座すら開設できず、言うなれば亭主のみが家計費の資金を保持していたのである。その頃に流行っていたBlondyという漫画を語損じの方は少ないかと思うが、奥方のBlondyは何かにつけて亭主のDogwoodに「お金〔小切手〕を頂戴」とせがむのだった。この場面が当時の状況を表している。
そこに湧き上がったのが「男女同権。平等」であり「男女雇用機会均等」の運動だったと聞いている。そして、現代のアメリカ社会に至ったのである。だが、雇用機会均等では男女同一労働をも、もたらしたのだった。即ち、現場での深夜勤務(grave yard shift)もせねばならなくなり、現場でも如何なる危険な作業でも担当せよとなっていったのだ。我が事業部の工場では男性用のトイレしかなかったので、チャンとした鍵もなく、遂に「女性も利用するから鍵を用意せよ」との声が上がった。
「雇用機会均等と」「男女平等」というコインの裏側にはこのような事態が待っていたのだ。
Representation of the company対Representation of the customer:
「何の事か」と思われるだろうが、営業の手法のことなのだ。これも知られざる大いなる異文化の現象の一つ。前者は「会社〔事業部〕の要求通りに取引先を説得するか押し切ること」で、後者は「得意先の意見を会社に向かって代弁する」とでも訳しておこう。
アメリカの会社では上司の命令は絶対という「上意下達」の世界なので、上からの命令通りに得意先(取引先)を説得するか、押し切ってくるのが担当者の責務なのだ。反対に「この件ではA社ではこのような重大な反対意見がありましたので、再検討を」などと上司に具申すれば「君は何処から給与を貰っているのか。何で取引先の代弁をするのか」と上司に一蹴されてしまうこと請け合い。
日本の文化と言うか企業風土を知らずに、こういう姿勢で日本市場に進出した会社は上手く行かないので、「買わない日本が悪い」と捨て台詞を吐いて帰っていくのだ。そこを何とかするのが駐在員の役目なのだが・・・。
MBA(Master of Business Administration)の学歴:
最早、この修士号はある程度以上の規模の会社では、生き残れるか否かの分かれ目となる重要な資格になっている。言うなれば「学歴社会」なのである。MBAを取得する為にビジネススクールに入学する前には、新卒者(BA)は4年間実務の社会における経験が求められる他に、GMATと言う資格試験に合格せねばならない。
1980年代までは有名私立大学のMBを取得して入社すれば、所謂「スピードトラック」と呼ばれている出世街道に乗って、幹部(officerとでも言うか)への昇進を目指して行ける有効な武器だったのだ。だが、21世紀の現在ではMBAは生存する為の資格に変わってきたと聞かされている。
日本とアメリカの教育(勉強の仕方)の違い:
ここにも日本とアメリカとの間には大きな違いがある。アメリカの大学に行けば「膨大な量の宿題が出されるし、期限を厳守せねばならないリポートの提出等が求められ、平常点、出席点、試験の成績棟の成績を単純に合計し割り算して判定する採点方式であるのが日本との相違点」であろう。特に、ビジネススクールともなれば、講義を聴いて勉強するのではなく、debateが重要な評価の基準になるので、単に英語の能力だけではなく討論の論旨の組み立ての能力を磨かねばならないのだ。多くのアメリカのビジネススクールで教鞭を執っていたYM氏によれば、日本の学校教育の英語出で育ってきた場合には、英語で自由自在に討論することを得手とする人は少なかったのが難点だった由。
“文化の違いという名の凸凹道を貴方が平坦な道路だと思って歩けるように綺麗にならして上げるのが私の仕事”
私が生涯最高の上司と呼んで来た10歳年下の副社長兼事業部本部長(当時)と私自身、それに事業部がこの日本市場で成功するためには、「企業社会における文化の違いを如何にして征服して不要な摩擦を起こさずに揺るがぬ取引関係を確立するか」が、私に与えられた最大の課題の一つであると認識していた。だからこそ「文化の違いとは如何なるものか」を認識することに神経を集中した。私が語る事柄はその努力の成果であると自負すると共に、もしかすると日本とアメリカは相互に本当に理解し合う時が来ないのではなどと本気で心配している。
日本とアメリカ相互の理解・認識不足:
日本とアメリカの文化に明らかな違いがあることに対して、最早戦後80年も経っているのに、日米相互に認識不足であるのはどうしたか?圧倒的に大多数の人は「アメリカのことは解っている。何もあらためて聞かされることではない」と自負しておられるだろう。日本では未だに「アメリカとは服装がキャジュアルで、言葉遣いもスラングが多く、自由で、誰でも出自に関係なく努力さえすれば、出世も経済的な大成功も可能な国だ」と認識されているのではなかろうか。「矢張り我が国でもアメリカは知られざる国なのだ」と痛感したことが何回もあった
その背景には我が国の、英語等の外国語による「日本とは」等の情報発信量が非常に少ないだけではなく、「アメリカとは」という情報の受信も不十分だと確信している。一例を挙げれば、2007年の第一次安倍内閣の総辞職の報道はアメリカではUSA TODAY紙ではベタ記事、CNNのニュースでは一度だけの状態だった。彼等の日本に対する関心の度合いが解る扱い方。結論を言えば、日本とアメリカ政府が相互に時機を逸することなく正確で詳細な情報の発信の努力をすべきなのだが、この辺りはマスコミの責務でもあるのではないのか。
私は1990年以来、機会ある事に書き物と講演と、さらに96年からはラジオ放送で、同盟国間の相互理解と正確な認識の必要性を説いてきた。アメリカ側の対日本の理解度などはかなりお寒いものであると、22年有余の外資暮らしで十分承知していた。
日本とアメリカ相互の理解・認識不足:
日本とアメリカの文化に明らかな違いがあることに対して、最早戦後80年も経っているのに、日米相互に認識不足であるのはどうしたか?圧倒的に大多数の人は「アメリカのことは解っている。何もあらためて聞かされることではない」と自負しておられるだろう。日本では未だに「アメリカとは服装がキャジュアルで、言葉遣いもスラングが多く、自由で、誰でも出自に関係なく努力さえすれば、出世も経済的な大成功も可能な国だ」と認識されているのではなかろうか。「矢張り我が国でもアメリカは知られざる国なのだ」と痛感したことが何回もあった
その背景には我が国の、英語等の外国語による「日本とは」等の情報発信量が非常に少ないだけではなく、「アメリカとは」という情報の受信も不十分だと確信している。一例を挙げれば、2007年の第一次安倍内閣の総辞職の報道はアメリカではUSA TODAY紙ではベタ記事、CNNのニュースでは一度だけの状態だった。彼等の日本に対する関心の度合いが解る扱い方。結論を言えば、日本とアメリカ政府が相互に時機を逸することなく正確で詳細な情報の発信の努力をすべきなのだが、この辺りはマスコミの責務でもあるのではないのか。
私は1990年以来、機会ある事に書き物と講演と、さらに96年からはラジオ放送で、同盟国間の相互理解と正確な認識の必要性を説いてきた。アメリカ側の対日本の理解度などはかなりお寒いものであると、22年有余の外資暮らしで十分承知していた。
だからと言って、日本側の「アメリカとは」との理解が十分だったとも思えない。失礼を顧みずに言えば「アメリカの高校や大学に留学したとか、駐在員として何年も過ごしただけでは『お客様』として見聞きし経験しただけに止まる」と考えている。敢えて言うが「私はアメリカの一員として、彼等の文化、思考体系、仕来りに従って22年も勤務し、対日輸出の先頭に立って苦労して働いてきた危険からアメリカの会社を語っている」のだ。
そこで見えてきた事はといえば、両国間の相互不理解振りたるや「長年連れ添った夫婦間の相互理解の認識と理解不足よりも酷い状態」と、多くの大学で国際法を教えておられたTY先生が喝破された。私如きには到底思い浮かばなかったような至言であると思って拝聴した。
結び:
以上はほんの序論に過ぎず、今後も機会を捉えて昭和20年から習い覚えた英語での表現力と、アメリカの大手企業での実際の経験を活かして「日本とアメリカの文化の相違」を取り上げていこうと思っている。
ここまでの主張は昭和26年(1951年)に入学した上智大学で学んだ西欧の文化に加えて、日本とアメリカの紙パルプ・森林産業界の会社に40年も勤務した経験を基にしている。更に、1994年1月末でのリタイア後から2013年までの多くの方面から仕事を与えられた経験をも活かして申し述べてきた文化比較論であって、アメリカ礼賛でも批判でもないのだ。