新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月26日 その2 シアトル市の余談

2020-06-26 16:59:32 | コラム
西海岸1位の料理人とUW:

“Shiro-san”:
先ほどシアトルでは海鮮料理が美味いと言ったが、そこには西海岸の料理人の人気投票で第1位だったと聞く、樫葉四郎さんがいた。彼の地では“Shiro-san”で通っていた。私が70年代に彼の和食料理店の“Nikko”(=「日光」)を教えられた頃は町外れにあったが、その名声の高まりと共に市内に移転して、中々予約が取れない大人気店となっていた。特にShiro-sanの英語での巧みなギャグというか寿司を握る合間のユーモアに溢れた語りには、アメリカ人のお客も魅せられていた。勿論、駐在員の間でも圧倒的な人気があった。

だが、Nikkoは出店していたホテルとの話し合いが不調となって、四郎さんは一時はケータリングサービス、即ち、出張サービスだけの時期があった。その当時は我が事業部も日本からのお客様の接待に大いに活用して「何も日本からアメリカに来られた最初の夕食に寿司でもあるまい」などと言いつつも、太平洋で取れた新鮮なネタが大歓迎されていたのだった。その後、樫葉氏は復活されて市内に“Shiro’s”を開店されたので、2000年にも2007年にも訪れて、彼独特のユーモアを寿司と共に楽しんだのだった。

UW:
次に採り上げたいのが“UW”、即ち University of Washingtonである。現地では“UW”を「ユーダブ」と発音している。シアトル市の北部にあるワシントン大学(州立)のこと。これまでに何度か採り上げた事で、アメリカの大学の格付けではIvy Leagueに代表されるような私立大学の評価が高く、州立大学は一格下のように見られている。私が知る限りでは、UWは全アメリカでも評価は高い方である。特にフットボールでは、アメリカ中でも強豪大学の一角にランクされている。

私が採り上げたいのはそのUWの“Husky”(ハスキー犬、即ちエスキモー犬)のニックネームで有名な強豪のフットボール・テイームであり、7万人収容の“Husky Stadium”である。私が驚かされたのは、そのスタジアムの規模である。我が国に野球場は数あれど、7万人収容というのは聞いた事がない。それがアメリカに行くと州立大学のフットボール専用の球技場が7万人の能力があり、それが常に満員の観客を呼んでいるのだ。初めて連れて行かれたときには、その大きさに度肝を抜かれた。

話はそれだけでは終わらなかった。スタジアムは湖畔に建っている格好で、そこに自家用のクルーザーでやってくる観客が数多くいるのだった。「なるほど、アメリかでは何事もスケールが大きいのだ」と感心し且つ圧倒された。初めての時は、ハスキース対UCLAブルーインズという大変な人気校の対戦だった。だが、UCLAがフィールドに現れるや否や、観客全員が大ブーイングで出迎えるのだ。と言えば嘘で、スタンドの片隅にはUCLAのファンもいるのだが、それには気付かないほどに地元テイームが歓迎されるのだ。

私は2010年1月にカリフォルニア州で9万人収容のRose Bowl Stadiumでも観戦の機会を与えられたが、ここでは試合終了後に駐車場から出られるまでに30分を要した。同様に、ハスキースタジアムでも脱出までにかなりの時間を費やしたものだった。アメリカの大学ではこのような巨大なスタジアムで開催する試合が有力な収入源になっていると聞いているが、その商業主義というか何というか知らないが、規模の大きさには感じ入るだけだ。矢張り「これぞアメリカ」と思わせられるので、樫葉氏と共に採り上げた次第。



我が懐かしのシアトル市

2020-06-26 14:24:42 | コラム
My dear old Seattleを回顧する:

アメリカ全土に人種差別反対の“Black Lives Matter”のデモが広がって行ったという状態にも、私は少なからず驚かされていた。そこに我が懐かしのシアトル市に「自治区」なものが出来て、銃撃戦まで展開されたとあってはことの意外さと驚きは倍加した。私にとっては1974年から慣れ親しんできた静かで綺麗で安全なシアトルと、そういう騒擾とはどうしても結びつかないのだ。

そこで、我が懐かしのシアトル市を振り返ってみようと思うに至った。シアトル市(Seattle)はアメリカ西北部のワシントン州の海沿いにある言わば小さな都市である。私がW社に在籍していた1994年頃まではその人口が50万人で、周辺の市内への通勤区域となる都市等を加えて、「グレーター・シアトル」と呼ばれていた地域の人口が100万程度だった。しかしながら、シアトル市はその環境の良さ、安定した治安、整った教育環境、優れた住宅事情、美味な海鮮料理等々のお陰で、長い間アメリカ全土で最も住みたい街の人気投票で1位の座を維持してきていた。

事実、その治安の良さは私が知る限りのアメリカ国内でも群を抜いていて、家内に昼間では単独で中心街というか繁華街(何故か“down town”と言うが)を歩き回っても大丈夫だと許可していたほどだった。しかしながら、1990年代でもシアトル市民たちは人気投票が1位であることを迷惑がっていた。それは、その人気に惹かれて必ずしも歓迎する訳ではない人たちまでが移り住んでくる傾向が止まらなくなってきたから。実際に、私が2007年に最後に訪れたときには、グレーター・シアトルの人口は300万人に膨れ上がってしまったと聞かされたし街の風景も大きく変化していた。

即ち、語弊があるかも知れない表現になるが、1990年台までとは異なって市内には少数民族が著しく増えていたのだった。また、90年代でも既に渋滞気味だった空港から市内への交通は著しく悪化して、以前は20分もあれば到着した空港バスが1時間もかかってしまうほどになっていたのだった。2000年の4月でも既に酷い渋滞で、私は余裕を見てあった夕食の約束の時刻に遅れそうになったほどだった。

上述のように、以前は少数民族もアフリカ系アメリカ人も極めて少ない街で、そういう人口構成と治安が安定等々に加えて、ボーイング社と我が社が地域の2大雇用主(“employer”という表現になるが、“job”を提供する会社とお考え願いたい)して評価され、職が安定した働きやすい都市だったのである。当時はボーイング社は本社を構えており、我が社は市内から40 kmほど南のTacoma(現在はFederal Way)に本社を置いていた。

ところが、私として生涯最後になるだろう2007年に訪れた際に、市内を歩いて最も驚かされたことがあった。それは、街中で見かける者たちの階層が大きく広がっていた事だった。既に触れた事で、以前よりも少数民族が急増していたのだった。その為だとまでは言えないが、市内を歩く際には十分に注意せねばなるまいかと感じさせられた。また、何軒かの有名なブランド店が消えていたのも不安な材料だった。我が定宿だったFour SeasonsもFairmont Hotelに変わっていた。

住宅地にも触れておこう。市の郊外の湖畔にはビル・ゲイツ氏の数万坪の有名な豪邸があり、その湖に浮かぶMercer Islandと言う島には、有名な超高級住宅地があり、かのイチロー君も豪邸を持っていると言われている。私の元上司夫妻もここの住人だった。また、シアトル市の郊外には日本からの駐在員の方たちが多く住んでいると聞く、治安も良い高級住宅地帯もあって、とても住みやすい都市だと聞かされていた。

そのどちらかと言えば中産階級の人たちの街だという印象しかなかったシアトルで、デモが盛んになり「自治区」とやらまでが出来上がったというニュースには違和感こそあれど、私が慣れ親しんできたシアトルとはどうしても結びつかなかったのだ。アメリカ人たちがごく普通に拳銃を所持しているとは承知しているが、銃撃戦とまで報じられては「どうなってしまったのだろうか」と感じるだけだ。しかも、我が社は8代目のCEOだったジョージはパパブッシュ大統領とはYale大学で同期の親友で、バリバリの共和党支持の会社なのだ。

私には今となっては想像するしか出来ないが、古くからの市民が嘆いていた「人気投票のお陰で方々から多種多様な者たちがが移住してきて、街の雰囲気を変えたのでは・・・」くらいしか、“Black Lives Matter”のデモが行われる訳が思い当たらないのだ。因みに、ボーイング社は本社をシカゴに移してしまったし、我が社は3年前に紙パルプ事業部門を整理し有名な本社ビルをも売却して、1900年に創業した当時の木材会社に戻って、シアトル市内の貸しビルに入っているそうだ。矢張り「時代が変化した」ようなのだと痛感している。