新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月2日 その2 石破茂論

2020-06-02 13:56:56 | コラム
6月1日のPrime Newsより:

昨1日は石破茂氏と元防衛大臣の森本敏氏の出演だった。私はこれで石破氏がジックリと語るのを聞くのが2回目だった。結論を言ってしまえば「禅譲期待」であり、かなり次期総理の目があるとか言われている岸田文雄自民党政調会長よりは、遙かに自分の信念というべきか考えているところをハッキリと言っているという点では、ずっと解りやすいし内容もあるなと思って聞いていた。別な見方をすれば、岸田氏は石橋とは対照的に腹蔵なき議論を避けていたし、独自のユーモアもなければ無味乾燥と言っても良い語り口で退屈だったのだ。

テレビの報道や新聞などの書き方によれば、石破氏は安倍総理に批判的な言動が多いと思わせられていた。だが、昨夜聞いていた限りではそう思わせるような発言もなく、政策、外交(対中国問題)、防衛等々に話題についてはごく常識的で、正統派であると思わせる発言のみだった。安倍政権に対する批判的な事は言わなかったと思う。そこまでの限りにおいては、私は岸田氏よりも頼り甲斐があるというか信頼しても良いのではないかと受けとめていた。それ以上の事はあの時間内には解らないので、何故安倍総理が避けているのかなと、単純に感じていた。

私には個性が出たのかなと思った発言が一度だけあった。それは、反町がFNNの世論調査では安倍内閣の支持率が急速に下落して30%台後半になった事について感想を求めたときのことだった。石破氏はやや気色ばんで「内閣は支持率の為に政治をやっているのではない。竹下内閣は30%を切った支持率でも消費税の課税に踏み切っていった。その上下の変動に一喜一憂する必要はない」と明快に言い切っていた。私は岸田氏からは到底出てこない台詞だろうなと思って興味を持って聞いた。

そういう点では、私には「今や官邸の何方かに覚え目出度いとか言われているという報道もある茂木外相、加藤厚労相、西村経済担当相とは明らかに異なり自分の思うところに従って行動するというような、腹が据わっている政治家かな」と思わせてくれた。もしも石破氏に何か欠点ありとすれば、あの三白眼のようになってしまう目つきが何となく陰気な人だなと思わせる辺りかも知れない。ここまでの所、批判ばかりする私が何も貶していないのは何故かと言われそうだが、僅かな時間内では全面的な評価はできないのだという事。要するに、今回は岸田氏との比較論だったのだ。

アメリカ側から見た我が国の会社

2020-06-02 10:45:35 | コラム
同じように「会社」とは言うがそこには歴然とた相違点が:

今回は新型コロナウイルスのの影響論からは離れて見よう。我が国とアメリカの企業社会における文化と思考体系の相違点を、永年アメリカ側から経験し観察してきた者として率直に述べていこうと思う。お互いに「これは如何なる事か」と驚かされたほど相互の文化には違いがあったのだった。

階級と肩書き:
先ずは、私が1990年4月に本部で行った「日本とアメリカの企業社会における文化の違い」の中で採り上げた「階級と肩書き」(=“rank and title)から入っていこう。、我が国の会社組織では本部長、部長、部長代理、課長、係長、担当者というような入社年次による(としておこう)言わば偉さの段階があると見ている。一方のアメリカの製造業の組織では(私は銀行・証券業界には別個の文化があると思っているので除外する)事業本部長の下に部員全員が横一線で並んでおり、年功序列などはないのだ。第一に全員が中途採用で、担当する仕事が違うのだ。

この相違がアメリカのビジネスマンたちを戸惑わせるのだ。それは副社長兼事業部長や営業担当部長でも取引先を訪問すれば、通常は部門担当の取締役事業部長、担当部門の部長、同じく課長、同じく係長、更に担当者が会談に出席されて名刺交換が始まる。そこで悩ましいのが、日本側の階級と肩書きを表す職位の英語訳なのだ。通常は取締役事業部長を“Director and General manager”とされるようだ。ところが、課長を“manager”か“section manager”と訳すと、その上の部長は“General manager”(GM)とする以外に選択肢がなくなるのだ。

これがアメリカの組織では“Vice president and general manager”という事業部内では1人しか存在するはずがないGMが我が国の組織では2人どころか3人も出てきておられる場合がある。これがアメリカ側にとっての最初の戸惑いとなるのだ。次が最も偉そうに見える人物の肩書きが“Director and general manager”となっている点だ。アメリカの組織では“director”という肩書きは階級ではなく、偉さで言えば精々マネージャーに毛が生えた程度のことなのだ。即ち、その人物が何でGMと称しているのかと困惑するのだ。

この場合は“Director of the board”とすれば未だ良いのだが、これとてもアメリカ側を混乱させるのだ。それはアメリカの会社組織では「取締役とは社外重役の事であり、現場にいて日常の業務の場に出てくる事なとあり得ない」のだ。簡単な例を挙げておくと、我が社のCEO、ジョージ・ウエアハウザーは当時はシアトルに本社があったボーイング社の社外役員であり、ボーイング社の会長が我が社の社外役員だったのだ。即ち、ボーイング社の会長が日本の得意先の方との会談に出席する事はないという意味。

誰が実務を担当するのか:
次の戸惑いは「アメリカ式に考えて、最も地位が高いと思わせる取締役事業部長に焦点を絞って色々と説明したり解説してみても余り乗ってこないか、思わしい反応を示さない点」なのだ。しかも、この地位が高いと思わせる人物は、良くある事で「他の約束がありますから」とか「会議があるので失礼」などと言って中座してしまうのだ。アメリカ側は毒気を抜かれる。しかも、日本側で最も実情を心得ていると思わせる、肩書きもない最も若い者(実務担当者)が多くを語り提案して、討論の主役の如くに振る舞うのも、馴れるまでは「僭越な奴だ」と不快に思うのだ。

アメリカのようにGMがあらゆる権限を掌握して、実務までも担当してというか担当者の領域と思わせるような事柄にまで踏み込んで語り、積極的に討論するのとはえらい違があるのだ。この歴然たる文化の相違は、私のような立場にある者が事前に十分に解説をしておかない事には、“Our last visit with Japan was a success.”(=「今回の日本訪問の旅は上手く行った」)とはなり難いのである。換言すれば“rank and title”の違いを解説しておかねばならないという事。

日本人は感情的:
次なる相違点は、アメリカ側が常に「日本のビジネスマンの議論は感情論である」と言って悩まされる文化の違いである。それは日本式に「相手側に失礼にならないように」とか「感情を害さないように」と細かい気配りをして、いきなりズバリと本音の討論を避けようとされる姿勢は、彼等には「時間の浪費だ」と理解され難いという点だ。従って「このように婉曲に言っても裏側を読み取って貰え、拒否していると察してくれるだろう」というような「何とかお察しを」との姿勢では「議論の核心の周りをグルグル回っているだけで、何が言いたのが理解不能だ」と苛立つのだ。

また、アメリカ式にいきなり核心に触れて「今回は市況と原料高騰の折から来月からXX%の値上げをお願いしたい」といった切り込み方をすると、屡々「そのような唐突で乱暴な値上げの申し入れをされては、御社と我が社の間に長い年月をかけて築き上げてきた美しい国際的な関係が毀損される。ここは何とかその関係の維持の為にも再考を」と促すような反論に遭うのだ。これに対してアメリカ側が会談終了後に何時も嘆いていたのは「あれも単なる感情論で、我々は現実的な問題を論じる為に来たのだ。美しい関係と取引しているのではないのにな」という点だった。

彼等にとっては、というかその値上げ交渉に来たのが副社長兼事業部長であれば「自分に命令を発して事業部の採算性を向上させようとしてきたのである以上、求めている答えは『はい、解りました。値上げを了承します』の一点」なのである。要するに「二者択一」を迫りに来たにも拘わらず、感情論で応酬されたので堪らないという事なのだ。この辺りは以前にも採り上げた事で、著名なカナダ人のオーケストラの指揮者が「日本人は感情論なのではない。彼等なとロマンテイストなのだ」といった情緒纏綿たる点がある民族だと、アメリカ側に解らせる事が肝腎なのだ。

外国交渉馴れ:
だが、私も22年以上も対日交渉を続けてきて見えてきた事は、外国交渉に馴れた論客というか「外国人を説得するべき論旨の構築と議論の進め方を心得た、アメリカ側を震え上がらせるような所謂『タフネゴシエーター』があちこちの大手企業に現れてこられた」という事実だった。中には「君たちは失敗に学ぶという事を知らないのか」と副社長を一喝された部長さんもおられたし、企業社会では「国際化」は順調に進んできているなと、頼もしく感じていただった。だから私は何度も述べてきた「外国人などは恐るるに足らずと度胸を以て、堂々と真っ向から自己主張しよう」と。