新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

西高東低が続く大学フットボール

2013-12-15 17:10:34 | コラム
甲子園ボウルは関西学院ファイターズの三連勝:

15日にはこれで3日連続でこのアパートの朝の室温が20度を切っていたので、「外はさぞかし寒いのだろう」と無理をすることなく室内に籠もって、13時からの甲子園ボウルの中継を待っていた。今回は1990年までで甲子園ボウル制覇から遠離っている日大フェニックス対二連覇中の関西学院大学ファイターズの対戦なので、ある程度以上の期待を持って見ていた。

しかし、残念ながら1年生で身長168センチのQBを始めとして主力選手に1~2年生が多いフェニックスは、「来年以降に期待しよう」と無理矢理に敗戦を合理化せねばならないような状態で、実力差が余り得点差に表れないような形で終わった。

当方が熱心に大学フットボールを観戦していた2,000年以前には、関東勢の言うなれば力と身体能力任せの現在のような荒っぽさが目立たず、関学や京大や立命館等に代表される関西勢と対等ないしはそれ以上に戦っていたものだった。しかし、時の流れと共に関西の緻密且つ理論的に鍛えられたフットボールとの間に質の差を生じてきて西高東低になって来ていたと思って見てきた。

今年のフェニックスも評判では優秀な素材を集めて鍛え上げ良いティームに育ってきたと、風の便りには聞いていた。そこでそれなりの期待をして観戦したのだ。だが、簡単に言えば来年以降は今年の主力を為していた1~2年生の成長に期待しようと言いたくなるような形で、関学の鍛え上げられ且つフェニックスを十分に研究してきた堅守の前に試合終了間際にタッチダウンを1本記録したに止まった。

見終わって極端な表現をすれば、「日大と関学の間にこれほど歴然とした力のさがあった試合を見たのは初めてのことだった」と嘆きたくなったほど「西高東低」が歴然としていたのは、大いに残念至極だった。関西学院は「甲子園ボウルの制覇が最終の狙いではなく、2年連続で敗れた正月のライスボウルの制覇を目標にしている」と鳥内監督が勝利監督インタービューで語っていたのが印象的だった。

本田圭佑の10番に思う

2013-12-15 10:41:16 | コラム
本田圭佑がAC Milanに10番を要求したのだそうだ:

本田が10番を要求しそれにミランが応じたことをマスコミが大きく取り上げている。即ち「栄光の10番」だからだそうだ。本田は自信家だし、図太い奴だと関心もしている。余談だが、Milanとは英語名で、イタリア語のMilanoではないところが面白い。

昭和20年(=1945年)から旧制中学に入学し蹴球部に入って正式に蹴球を始めた私にとっては、背番号10はただ単に「5人のFWの中の左のインナー(LI)のポジションを示すだけ」に過ぎなかった当時の感覚から抜けきれていないので「それがどうしたの」とでも言いたくなってしまう。もしかして「時代錯誤」かも。

今は昔の物語になってしまうが、当時の蹴球の番号の付け方を一応解説しておく。あの頃は全般的に「WMフォーメーション」であって、後陣からゴールキーパー(GK)は当然1人、フルバック(FB)が2人または3人、ハーフバック(HB)が2人または3人、フォワード(FW)が5人という形だった。即ち、FWの5人がWの形に位置に最前列つき、その後ろにHB、更にFBがMの形になるようにするのだった。

背番号はGKの1に始まってFBが右側から2と3を付け、HBが4~6、FWが7~11となっていくのだ。そして、各人はそのポジション別の番号がついたユニフォームを着用して出ていくのである。極論的に言えば、「ポジションを確保出来てい正選手(一軍選手ないしは一本目のこと)だったならば、自分が何番のユニフォームを着るのか」は試合当日まで解らないし、自分のユニフォームを持っていないこともあったのだ。

また、当時は試合中のメンバーの交代はないので、交代要員(=補欠選手)は当日の試合に出ることはなく、ユニフォームも持っていなければ背番号など割り当てられていることもなかった。そして、正選手の誰かが何らかの事情で次の試合に出られない場合にのみ、その選手のユニフォームを着用して出場するのだ。換言すれば、背番号は11番までしかなかった。

この制度の下では10番はFWの中の左のインナー(LI)の番号であり、特に「栄光」でも何でもなかった。しかし、我が母校が昭和23年の国体で優勝し損なった時の10番は主将で、多くの場合に今で言う「ラストパス」を出す名手で、後にメルボルン・オリンピックの代表に選ばれた早川さんだった。我々が高校3年になった時の10番は最も強力だった者がそのポジションを占め、かく申す私は8番、即ち右のインナー(RI)だった。

であれば、10番が必ずしもそのティームで最強の者とは限っておらず、9番を付けたセンターフォワード(CF)がポイント・ゲッターとしてそのティームで最も頼りにされた最強のFWという組織になっていたティームも沢山あったので、ティームによって異なっていた。

私は仕事の都合と自分自身のサッカーへの関心が薄れた時期があったために、サッカーで選手交代が何時から認められて12番から上の背番号が付けられるようになったかすらも知らない。また、10番がかくも華々しく採り上げらルようになったかの背景も知らない。思うに、そこには往年のWMフォーメーションが古物化して、現在の「3-4-3」等のような数字で表すように変わってきたこともあるかと推察している。

何となく背番号についての高齢者の回顧談の如くになってしまったかと少し反省もするが、現在のように技術が高度に進歩・発展し、我が国の優秀な者たちが欧州に出て行く時代になってしまえば、一つのポジションに限定するかのような背番号に時代はとっくの昔に終わっていたということかと解釈している。そこで、「本田圭佑が3年経ってもACミランに10番のままでいられたら、初めて移籍お目出度う」と言ってやろうかと考えている。