昨13日のドラゴンズ対ジャイアンツを観戦して思う事:
中継放映したのがNTVだった以上、懸命に偉業達成へと盛り上げようとした姿勢を理解はするが、私は褒め称えようとまでは考えていなかった。そう言う理由は「マスコミが騒ぎ立てている200勝と2,000本安打は公式な記録ではない」のだからである。
ではあっても、田中将大は甲子園を沸かせた準優勝投手で、楽天では1シーズンに24勝もして日本シリーズを制覇し、MLBではヤンキースの主力投手として70勝(39敗)という記録を立てた一流の投手である。200勝を達成させてやりたいと思った阿部慎之助監督の侠気も理解できる。
そこで敢えて確認しておくと「投手の200勝」はNPB(日本野球機構)が公式に定めた記録達成基準ではなく、飽くまでも故金田正一氏が設立した名球会という私的な団体が入会資格として定めた基準である。それ故に、それを「国民的な偉業」や「名投手の絶対条件」として扱うマスコミの姿勢やファンの熱狂には、私などは一寸冷めた目でいると言うか違和感を覚えるのだ。そこで、より深く論じていけば、
200勝は公的か私的か?:
NPBの公式記録ではないのである。NPBは勝利数を記録として残しているが「200勝達成=野球の殿堂入り」などの公式な評価の基準として取り扱ってはいないのだ。
名球会の入会条件:
金田正一氏が1978年に設立した名球会は、投手なら200勝、打者なら2000本安打などを達成した選手を入会の対象と定めている。これは完全に私的な基準であり、NPBやMLBの公式な制度とは無関係なのである事を忘れてはならない。
マスコミの扱い:
メディアは「名球会入り=偉業達成」として報じる傾向が強く、これが「国民的な基準」として誤認されている原因になっているのだと見ている。私には、このようなマスメディアの報道の演出で、選手たちの成績とその価値を過剰に持て囃しているのではないかとも言えると考えている。
ジャイアンツの阿部慎之助監督の采配の疑問点:
私には公私混同と言うか、「個人的な成果の記録」と「公式記録」を混同してはいないかと、些か気になるのだ。楽天が3勝を残して自由契約にした後では、極端に言えば「衰えた田中将大の引き取り手がなかった状態を見た阿部慎之助監督が引き取って200勝を達成させようとした侠気」は評価には値すると思う。
私に目には田中将大が楽天に復帰した後の様子を見て「彼はMLBで完全に持てる力を使い果たしてきた。故に彼の投球にはアメリカに行く前の力が無くなっているし、真っ直ぐの速度が出ても球威は消滅している。これではNPBでも通用しない」と見切っていた。阿部監督はその田中を救おうとしたのだ。
ティーム状況との乖離:
ジャイアンツが首位阪神にはマジックランプが点灯して、大きく離されている状況である。その時に田中将大投手に勝利の機会を与える采配は、ティームの勝利より個人記録を優先しているように見えてしまうのではないかと思えてならないのだ。
監督の裁量と人情:
阿部監督が田中投手の偉業達成に協力する姿勢は、人情的な美談として評価されるだろうし、後世に語り継がれることかも知れない。だが、プロとしての勝負の世界に身を置き「、職業野球の時代からの球界の盟主の監督が「私的な感情を優先した」と批判される危険性も生じるのではないかと言う面もあるのではないか。
ジャイアンツファンやOBの圧力:
名球会入りの名誉を、恰もNPBの選手たちに課された「使命」であるかのように扱う雰囲気と言うか「空気」が醸成されているのではなかろうか。そして、その空気が監督や球団に「私的基準を達成しなければ、させてやらなければ」というような圧力を与えているのではなかろうか。だから、堅実な守備をする門脇が不慣れな二塁手に起用され、緊張感からあの肝心な時の悪投になったのではないのかな。あの大失策や私的基準が公的判断に影響を与えた結果だったと見たのは僻目か。
結論:
「200勝は私的な基準」であろう。200勝という大記録は、歴史的・象徴的な意味があるだろう。だが、制度的には名球会への入会の私的な基準であり、それを絶対視する家のようなマスコミの姿勢には疑問を呈しておく。
田中将大の勝利数がNPBからMBLの通算で198勝でも、既に大記録ではないのか。もしも、199勝に止まった場合には「大投手」ではないとでも言うのか。私に単なる数字遊びであるかのように見えてならない。重ねて言うが「阿部慎之助監督の侠気は評価しても、冷静に見れば「私的な価値観が公的な采配に影響している」と言える気がしてならないのだ。