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新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

田中将大の200勝達成失敗に「記録尊重」の虚しさを見た

2025-08-14 08:23:22 | コラム
昨13日のドラゴンズ対ジャイアンツを観戦して思う事:

中継放映したのがNTVだった以上、懸命に偉業達成へと盛り上げようとした姿勢を理解はするが、私は褒め称えようとまでは考えていなかった。そう言う理由は「マスコミが騒ぎ立てている200勝と2,000本安打は公式な記録ではない」のだからである。

ではあっても、田中将大は甲子園を沸かせた準優勝投手で、楽天では1シーズンに24勝もして日本シリーズを制覇し、MLBではヤンキースの主力投手として70勝(39敗)という記録を立てた一流の投手である。200勝を達成させてやりたいと思った阿部慎之助監督の侠気も理解できる。

そこで敢えて確認しておくと「投手の200勝」はNPB(日本野球機構)が公式に定めた記録達成基準ではなく、飽くまでも故金田正一氏が設立した名球会という私的な団体が入会資格として定めた基準である。それ故に、それを「国民的な偉業」や「名投手の絶対条件」として扱うマスコミの姿勢やファンの熱狂には、私などは一寸冷めた目でいると言うか違和感を覚えるのだ。そこで、より深く論じていけば、

200勝は公的か私的か?:
NPBの公式記録ではないのである。NPBは勝利数を記録として残しているが「200勝達成=野球の殿堂入り」などの公式な評価の基準として取り扱ってはいないのだ。

名球会の入会条件:
金田正一氏が1978年に設立した名球会は、投手なら200勝、打者なら2000本安打などを達成した選手を入会の対象と定めている。これは完全に私的な基準であり、NPBやMLBの公式な制度とは無関係なのである事を忘れてはならない。

マスコミの扱い:
メディアは「名球会入り=偉業達成」として報じる傾向が強く、これが「国民的な基準」として誤認されている原因になっているのだと見ている。私には、このようなマスメディアの報道の演出で、選手たちの成績とその価値を過剰に持て囃しているのではないかとも言えると考えている。

ジャイアンツの阿部慎之助監督の采配の疑問点:
私には公私混同と言うか、「個人的な成果の記録」と「公式記録」を混同してはいないかと、些か気になるのだ。楽天が3勝を残して自由契約にした後では、極端に言えば「衰えた田中将大の引き取り手がなかった状態を見た阿部慎之助監督が引き取って200勝を達成させようとした侠気」は評価には値すると思う。

私に目には田中将大が楽天に復帰した後の様子を見て「彼はMLBで完全に持てる力を使い果たしてきた。故に彼の投球にはアメリカに行く前の力が無くなっているし、真っ直ぐの速度が出ても球威は消滅している。これではNPBでも通用しない」と見切っていた。阿部監督はその田中を救おうとしたのだ。

ティーム状況との乖離:
ジャイアンツが首位阪神にはマジックランプが点灯して、大きく離されている状況である。その時に田中将大投手に勝利の機会を与える采配は、ティームの勝利より個人記録を優先しているように見えてしまうのではないかと思えてならないのだ。

監督の裁量と人情:
阿部監督が田中投手の偉業達成に協力する姿勢は、人情的な美談として評価されるだろうし、後世に語り継がれることかも知れない。だが、プロとしての勝負の世界に身を置き「、職業野球の時代からの球界の盟主の監督が「私的な感情を優先した」と批判される危険性も生じるのではないかと言う面もあるのではないか。

ジャイアンツファンやOBの圧力:
名球会入りの名誉を、恰もNPBの選手たちに課された「使命」であるかのように扱う雰囲気と言うか「空気」が醸成されているのではなかろうか。そして、その空気が監督や球団に「私的基準を達成しなければ、させてやらなければ」というような圧力を与えているのではなかろうか。だから、堅実な守備をする門脇が不慣れな二塁手に起用され、緊張感からあの肝心な時の悪投になったのではないのかな。あの大失策や私的基準が公的判断に影響を与えた結果だったと見たのは僻目か。

結論:
「200勝は私的な基準」であろう。200勝という大記録は、歴史的・象徴的な意味があるだろう。だが、制度的には名球会への入会の私的な基準であり、それを絶対視する家のようなマスコミの姿勢には疑問を呈しておく。

田中将大の勝利数がNPBからMBLの通算で198勝でも、既に大記録ではないのか。もしも、199勝に止まった場合には「大投手」ではないとでも言うのか。私に単なる数字遊びであるかのように見えてならない。重ねて言うが「阿部慎之助監督の侠気は評価しても、冷静に見れば「私的な価値観が公的な采配に影響している」と言える気がしてならないのだ。

何故合意文書を残さなかったのか

2025-08-13 06:32:13 | コラム
私の推理は間違えているのかも知れないが:

トランプ大統領は赤沢亮正大臣との会談で合意に達したのだったが、何故かその際に証拠(evidenceで良いと思うが)となる「合意文書」を残さなかった。このような異例とも言える方式について、後になって色々と論評が出たし、実際に肝心な点で認識に違いがあったことが直ぐに判明した。

ベセント長官に至っては「大統領は不満だったら25%に戻すと言っている」とまで宣言する始末だった。だが、交渉担当の赤沢大臣が9度目の出張で改めるよう申し入れたら「そうする」と認めるのだったが、自動車については時期を明らかにしていなかった。

この経緯を見て、私はトランプ大統領側の作戦とは如何なるものだったかを推理してみた。それは、長年アメリカ側で対外交渉を経験してきたからこそ見えてくる、アメリカ独特の万一の局面に備えた代案まで準備してくる交渉術なのである。

トランプ大統領側は事前に内部で練り上げた方式で、赤沢亮正大臣に対して「合意の内容を認めた法的な文書に署名するような正式な手順を経なくても、同盟国同士の間での合意である以上、形式は問題ではないだろうと提案しても、失うものはない。苦情が出た場合には訂正する」と計算した上で、押し切ったのではなかろうかという事。

要するに、何らかの齟齬を来した場合も想定して、その際に持ち出す代案(contingency plan)は用意してあったのではないかという見方である。だから、赤沢亮正大臣が再度ワシントンDCに赴いてクレームを付ければ、予め準備してあった代案を使って、いとも簡単に譲歩したかに見えたのだった。一見、非常に狡猾とも見える手法だが、アメリカ式では特に目新しいやり方でもないと思う。

即ち「如何なる場合でも自分の方に都合が良くなるように事が運ぶよう、設計されている」のである。私は我が国では各方面の専門家たちとマスコミが「トランプ大統領はビジネスマンだから」という枕詞を付けたがる。20年以上もアメリカの大手企業の一流のビジネスマンたちと付き合ってきたが、トランプ大統領は彼等と同じビジネスマンの範疇に入るとは認識していない。

今回の計画も「三人寄れば文殊の知恵」で、2人の長官と1人の代表が、企画し演出したのではないのか。即ち、トランプ大統領の周囲には大統領に忠誠を誓っただけではなく、一筋縄ではいかない有能な?ビジネスマンたちが配置されているのだ。このようなトランプ大統領率いるティームと対峙する以上、「次は如何なる手法で出てくるかと、常に警戒を怠ってはならないのではないか。

私の朝食

2025-08-12 10:44:03 | コラム
洋風と和風を紹介:

突然思い立って、某週刊誌が連載する企画を真似て振り返ってみようという事。

8月9日(土) 湯河原のホテルで:
バイキングなのだが、思い切って和洋折衷にしてみた。先ずは野菜とフルーツのミックスジュース。次に砂糖を少々とクリームを2パック入れたコーヒーを静かに楽しんだ次第。これは結構いけた。間違ったカタカナ語に言う「メイン」はご飯茶碗に普通に米飯を盛って温泉卵を2個もかけた「卵かけご飯」と洒落込んだ。仕上げはヨーグルトで、ブルーベリーソースをかけて賞味。

余計なお世話になるが、正しくは「メイン・ディッシュ」だろう。

8月11日(月) 自宅で:
イオン系の「まいばすけっと」で買ってくる、10本箱入りの「タウリン3000」を1本(約¥65)一気に。次いでブラックでdecafのコーヒーを一杯。トーストはテレビで教えられた手法で、トースターを暫く温めてからパンを投入。一寸焼け目が付いたところで取り出して、4分の1ほどにピーナツバターを塗って食べる。残った4分の3の半分には夫々レバーペースト*とイチゴジャムを塗布。

仕上げはスライスしたバナナに、ヨーグルトを器一杯にかけて楽しむ。余談になるが、アメリカではパンが美味くないのと、胸焼けがするので、先ず食べたことはなかった。その代わりはコーンフレークにして、これにもスライスしたバナナを加えてホットミルクをかけていた。

*レバーペースト:
このドイツ独特の食材は、未だに我が国にはあまり普及していないようだ。我が家では戦前から食べていたかのような記憶がある。1995年5月に初めてドイツのケルンでハイアットリージェンシーに団体で泊まった時の事。朝食のテーブルにはドイツ語では「ソーセージ」を“wurst”(ブルスト)は確かに出ていた。「レバーペースト」は無かったと思った。もしかして「ブルスト」の範疇に入っているのかなと感じた。

そこで、30年も経った今になって、生成AIに「wurst即ちソーセージとは」と尋ねてみた。その解説を引用してみよう。でも、余り読者諸賢のお役には立たないかと危惧するのだ。

>ドイツ語では
  • Leberpastete(レーバーパステーテ)=レバーペースト(英語なら liver pâté)
  • Leberwurst(レーバーヴルスト)=レバーソーセージ(ただし中身はほぼペースト状)
…という違いがあります。

おそらくホテルの朝食ビュッフェで出ていたのは「小型カップ入りの Leberwurst」だったはずです。名前は「wurst(ソーセージ)」ですが、皮に詰めて焼くタイプではなく、塗る用のソーセージで、実際の食感は完全にペースト状です。
つまり、
  • Leberpastete = 料理的にも名称的にも「ペースト」
  • Leberwurst = 名称は「ソーセージ」だが実態はペースト状
     …という言葉のズレで、初めてだと戸惑うのも当然です。

と解説して貰えた。腑に落ちただろうか。

なお、この時に言わば私がアテンド役でもあった団体の方々は、初めて出会った「レーバーパステーテ」を「美味い。美味い」と楽しんでおられたのは少し意外だった。


甲子園の野球に思う

2025-08-11 07:31:14 | コラム
高野連も朝日新聞社も時代の変化を認識したら如何か:

広陵高校の異例の会期中の出場辞退が、高校野球の在り方に色々な問題があることを提起し示唆したとみている。

きらきらネーム:
だが、先ずは難しいことをあれやこれやと論じる代わりに、(漢字を使った)きらきらネームを取り上げて得意の川柳から入って行こう

甲子園 読めない名前に 時を知り

と言う具合である。昭和一桁生まれの当方には、もう20年以上も前からきらきらネームに困惑させられていた。兎に角、どう無い知恵を絞って読もうとしても、解読不能だった。その頃に大学の先生に伺ったところ、矢張り読めないそうで、出席を取ろうとしてもフルネームでは呼びかけられずに難儀していると聞かされて、一安心だった。

その解読不能な命名の仕方に、当初は「新世代は我が国の伝統的な命名の文化を何と心得ているのか。このような年長者が読めない名前を付けて恥ずかしいとは思わないのか」などと憤慨していた。当時全盛時代だったビートたけしが「年取ってから『エリカばーちゃん』だの『リカばーちゃん』などと呼び合うようになったら恥ずかしいじゃないか」と揶揄したほどカタカナの名前が流行りだしていた。

今では、時移り人変わり、当て字というか何と言うべきか、私のような世代には想像も出来ないような漢字を使う方向に変わってきているのだった。こうなるとカタカナとは根本的に違うので、解読どころか想像も出来ない名前が多くなってきていた。そこで、自分の想像力と読解能力のテストのような感覚で、甲子園の野球中継でアナウンサーが読み上げる氏名に聞き耳を立てている。読もうなどと大それた野心など放棄して。

見えてきた命名の傾向には、こういう字が多く使われていると解った。順序不同で並べていくのだが、子供の為に良かれと思う親心は現れているとは読める。輝、希、大(ヒロかダイと読む)雄か雄大、大人(ヒロトらしい)翔(無数の読み方があるし、他の字との組み合わせも多数ある)、沙と汰は「無沙汰」からの転用か、斗、琉、覇という風に、従来は名前に使っていなかった漢字が使われるのである。

ここまで来ると、この傾向を旧世代が批判するのは時代遅れであり、現代の若き世代は古き良き時代の伝統というか日本の文化を入れ換えていこうとの気構えなどだろうと善意で解釈することにした。いや、論評することを諦めたのである。

広陵高校の件に思う事:
私自身が昭和20年(1945年)という、今から80年も前に蹴球部という運動部(当時は体育会という名称はなかったと思うが)に入り、大学でも続け、社会人になってからもクラブでリクリエーションとしてのサッカーを楽しんできた。2人の息子たちも関東大学一部リーグでフットボールをやっていたので、体育会という存在を承知しているし、理解もしている。

だが、「野球」という150年を超える競技にはその歴史と伝統があるので、サッカーやフットボールとはその在り方と趣が異なっているようなのである。であるから、異なる文化の世界での出来事を部外者が論評することは適切ではないのではと考えている。その歴史と伝統を遵守してきたと思われる高校の野球部を時代に即して適切に導いていくことが、高野連の使命だろう。

その使命があるのだから、上記の川柳にも示したように、高野連も変化した時代に即した指導をしていく方が宜しいのではないだろうか。そうであれば、指導者たちも変化した時代に相応しい次の年齢層に譲っていく時が来たのではなかろうか。一言だけ言えば21世紀の現代は「何時まで経っても坊主刈りにする」とか「一塁に頭から滑り込んで闘志を示す精神主義」の時代ではないのではいう点だ。