◻️211の32『岡山の今昔』岡山人(20世紀、小山冨士夫)

2019-09-16 09:21:16 | Weblog
211の32『岡山の今昔』岡山人(20世紀、小山冨士夫)

 小山富士夫(こやまふじお、1900~1975)は、陶芸家にして美術評論家。浅口郡玉島町(現在の倉敷市玉島)の生まれ。1920年には、一橋大学に入学する。家は何がしか恵まれていたのだろう。1925年には、瀬戸に行き、矢野陶々に弟子入りしたという。その翌年には、京都に出て、陶芸家の真清水蔵六に師事し、作陶を習う。
 いかにも、才能が開化したというべきか、一人前の陶芸家になると、今度は、この方面のあらゆることへの関心が増していったらしい。
 1932年には、古陶磁研究誌の編集員になる。1933年には、文部省嘱託の重要美術品等調査員となる。そうはいっても、中国では、日本の侵略が続いていた時期のことなのだ。
 そして迎えた1941年(昭和16年)には、中国に行き、古窯址の調査旅行を行う。現地の発掘で定窯古窯址を発見したと、小躍りするかのような喜びであった旨、後に書いているのだが。その資金は、どこから出たのであろうかなど、気にかかる。
 戦後になっての1946年には、日本陶磁協会が発足、理事となる。1955年、日本陶磁協会の創立10周年を記念として「宋磁名品展」を開催する、もはや陶磁器界の中心に名前を連ねていた。1959年には、文化財保護委員会事務局無形文化課文化財調査官になる。
 1961年にイギリス東洋陶磁協会名誉会員となったのには、年来の海外での陶磁器調査(イギリス隊と先を競ったのを含め)が認められたのだろう。1966年、鎌倉の自宅に「永福窯」を築く。1967年には、日本工芸会理事長に就任する。1969年には、「骨董百話」を藝術新潮に83回にわたって寄稿する。岐阜県土岐市五斗蒔に「花の木窯」を築く。  

(続く)


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211の31『岡山の今昔』岡山人(20世紀、山羽虎夫)

2019-09-14 20:53:55 | Weblog

211の31『岡山の今昔』岡山人(20世紀、山羽虎夫)

 山羽虎夫(やまわとらお、1874~1957)は、岡山の生まれ。横須賀の海軍工廠、神戸の小野浜造船所、東京の沖電気や逓信省の電気試験所を渡り歩き、電気や機械に関する知識や技術を積む。

 1874年(明治27年)には、岡山に帰る。その翌年には、岡山の街中、天瀬可真町に工場を営む。商売では、電気器具の製造、修理などをよくする。

 やがての1903年(明治36年)には、大阪で開催された第5回内国勧業博覧会に出かけ、アメリカ車の展示に刺激された岡山の資産家、森房造
が、かれに「やってくれないか」の話を持ちかけ、山羽が快諾したらしい。

 それからは、協力者と夢中で開発に没頭する。そしての翌年、最初の国産自動車で、10人乗りの蒸気自動車をつくる、日本発初の国産自動車の誕生である。それというのも、1902年(明治35年)に国産の自動車は完成していたらしいのだが、それはエンジンをドイツから輸入したものであったのだから。


(続く)

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◻️192の4『岡山の今昔』岡山人(19世紀、安原玉樹)

2019-09-14 20:11:34 | Weblog

192の4『岡山の今昔』岡山人(19世紀、安原玉樹)

 安原玉樹(やすはらたまき、1806~1876)は、歌人。彼女は、備前国岡山の森知乗尼、備前国邑久郡豆田村の松原三穂子と共に、「吉備の近世3女流歌人」として名高い。

 本名を安原ひさという。備中玉島新町東綿屋七代の中原理左衛門正徳の第三女というから、綿花などの取引で潤った新町界隈の商家の中でも、かなり上位であったのではないか。「お嬢様」として、何不自由ないようなスタートであったらしい。

 そんな中でも、13歳にしてはや和歌に長じていたというから、驚きだ。玉島(倉敷市玉島)の東綿屋中原家から、総社の醤油と油を商う角清水屋に嫁ぐ。子ども3人のすべてが、幼くして病気で亡くなる。さぞかし、気落ちしたことだろう。

 それからは、移りゆく時代の荒波を見ながら、好奇心を失うことなく、歌人として油がのっていく。

 同時に、歌人のたしなみとして、かなりの古典に通じていた由、その歌には、静寂の中でも、しなやかな旅情のような空気が漂うかに感じられる。
 「夏むしのほかげほのかに見てしよりいとどおもひやもえわたりなむ」
 さびしはいづこも同じ秋風のわきて身に沈むあまの家じま」

など多数。

(続く)

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◻️265の2『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、福田史郎)

2019-09-12 22:01:51 | Weblog
265の2『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、福田史郎)

 福田史郎(1927~2017)は、玉野市の生まれ。その海岸から3キロメートルばかり離れたところにある、直島(現在は香川県、かつて近隣の島から堀りだされる銅鉱石の製錬所があった)に、鉱山技師の父親、勘四郎の職場があったという。やがて、家族とともに津山に移り、多感な少年時代を過ごす。
 やがては津山市立西中学校の数学教師にして、だんだんに青少年カウンセラー、教育評論家ともなっていく。さらには、教育現場における実践を基礎に、「鶴山塾」(津山市が1985年に開塾)での活動など、幅広い青少年教育に献身的にたづさわったことで、この地で広く知られる。
 その事例研究には、他に追随を許さないほどの、自身の体験に裏付けられた説得力が感じられる。ここでは、そんな福田の60代の頃における報告の中から、一つを紹介しよう。
 「後進性を十分に脱した近代(文明)社会の中では、知識的、階級的な彼岸へのかけがいなき門戸という学校のイメージは、もはや成り立ちえない。そのうえ、学校がそこに根づき下から学校を支える基盤となっていた自然(地縁血縁)的な地域共同体も、近代化の帰結として解体してしまっている。この傾向に徹底的な追討ちをかけたのが、国庫補助による学校統合の嵐であったことは、記憶に生々しい。これが不登校増加をはじめ、今日の学校における失調現象(どの子にも生じうる)の本質的背景ではなかろうか。(中略)
 『風の又三郎』(宮沢賢治)のなかに、次のような一節がある。「九月一日の朝でした。『ほう、おら一等だぞ。一賞だぞ。』とかわるがわる叫びながら大悦びで門を入って来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合せてぶるぶるふるえました。というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔もしらないおかしな髪の子供がひとり一番前の机にちゃんと座っているのです。そしてその机といったら、まったくこの泣いた子の自分の机だったのです。」
 かつては『風の又三郎』であったものが、今日では「いじめ現象」として現れてくるのは、教室で子どもたちがある対象に対してなんらかの違和意識を抱いたとき、それが「不思議」や「おそれ」として体験されえず、端的に「違和」(異物)としてしか体験されない傾向が大きくなったためではなかろうか。
 そのため、今日の「いじめ現象」は、たんに支配や攻撃ではなく、「(異物)の排除」という構造を大きな特徴としてもつ。「排除」は出口なしの体験である。今の「いじめ」がときに、子どもを死にまで追いやるのはこのためにちがいない。」(福田史郎(美作部落研副会長)「事例に思う、青少年問題の背景と課題」、「問題調査、研究」1995年2月号)

 

(続く)

 

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◻️265の1『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、高畑勲)

2019-09-12 21:18:07 | Weblog

265の1『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、高畑勲)
  
 毎日新聞の2015年06月17日付け紙面に、アニメーション作家の高畑勲(たかはしいさお、1935~2018)の、岡山市内での講演の模様が載っている。 


 「いつ命を落としてもおかしくない状況で、震えが止まらなかった。」

 空襲後、自宅のあった場所に戻った時のこと、「逃げ込もうかと迷った防空壕(ごう)で、多数の人が蒸し焼きになって死んでいた。自宅の前の水路にも、水につかったまま窒息死している人が何人もいた。『これが戦争か』と思い知らされた」。

 「自分よりずっとつらい体験をした人がたくさんいるのだから。どうして悲惨な状態に追い込まれたのか、戦争が始まる時のことを知る方がずっと重要だ。」

 「戦後ずっと続いてきた平和が、政府の方針で揺らいでいることに戦後最大の危機感を覚える。さまざまな戦争の体験談を聞き、『戦争が始まったら自分はどうするのか』と想像してみてほしい。今の世の中が道を踏み外していることが分かるはずだ。」

 ここに紹介される高畑は、三重県宇治山田市(現在の伊勢市)に7人兄弟の末っ子として生まれる。1938年(昭和13年)には、津市に移る。1942年(昭和17年)になると、三重県立師範学校男子部付属国民学校に入る。それが、1943年(昭和18年)、父の転勤に伴い岡山県立師範学校男子部付属国民学校に移る。

 戦後は、岡山大学付属中学校を経て、県立朝日高校へ。1954年(昭和29年)、岡山県立朝日高校を卒業、東京大学教養部に入学する。その2年後には、同大学の文学部フランス文学科2年に進級む。1958年(昭和33年)には、東映動画の演出助手募集に応募、内定。1959年3月、東大卒業。そしての4月、東映動画に入社し、さぞかし注目されたことだろう。
 それからは、多くのアニメーション動画に関わっていく。ざっと、「安寿と厨子王丸」「鉄ものがたり」「わんぱく王子の大蛇退治」に、テレビでも放送された「狼少年ケン」。それから、「太陽の王子・ホルスの大冒険」「ひみつのアッコちゃん」 「ゲゲゲの鬼太郎」「もーれつア太郎」「アパッチ野球軍」など。
 そして迎えた1971年には、宮崎駿氏、小田部羊一氏らと共に東映動画を退社し、Aプロ(現在のシンエイ動画)へ移る。


(
続く)

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◻️129『岡山の今昔』久米郡(三咲町)

2019-09-11 22:16:41 | Weblog

129『岡山の今昔』久米郡(三咲町)

 久米郡の美咲町(みさきちょう)は、2005年3月に中央町、旭町、柵原町が合併して誕生した。この中の旧柵原町には、かつて、あの名高い柵原鉱山が稼働していた。そもそもは、1882年(明治15年)に硫化鉄鉱(黄鉄鉱ともいい、鉄と硫黄が含まれる)が発見された。その後開業し、最盛期には約80万トンの年間採掘量を誇っていた。坑道の中を進んだ切りはで、労働者の血と汗がながれていた。

 その後の1991年、鉱山は廃坑となる。片上鉄道も廃線となる。もはや、多くの労働者はこの地にふみとどまることができなくなった。新たなしごとを探さねばならない。

 さらに10年後の2002年になって、その坑道は地域住民の健康を支える、運動施設に成り代わった。ほかにも、農業に活用が可能ときく、そういうことなら、まさに、変身そして復活である。
 そんな美咲町に至るには、大まかに、南からと北からの道があるとしよう。そこで今は、そのうちの公共交通路を考えてみよう。そういえば、2018年の新聞に、こんな記事が載った。
 「津山市は4日、市と鏡野町を結ぶ「石越・奥津線」と、美咲町を結ぶ「高下線」の2線が10月から減便となることを報告した。(中略)
 ともに中鉄北部バスの路線で、石越・奥津線が1日17便、高下線は同14便を運行。10月1日から両路線とも、津山発が1便、津山着が2便減便となる。
 市経済政策課によると、両路線は自治体間を結ぶ主要路線として国の補助対象となっていたが、2017年に基準となる輸送量の算定が厳格化され、計約1千万円が受けられなくなった。このため、市や両町、運行業者で今年1月から協議し、8月にまとまった。
 一般質問ではこのほか、市内を運行するコミュニティバス「ごんごバス」のうち、利用者が減少している「東循環線」について、車両老朽化が影響しているとして、来年度から車両3台を更新する方針を表明した。(有国由花)」(山陽新聞、2018年9月5日付け)

 

(続く)

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◻️10の1『岡山の今昔』吉備の埴輪の起源

2019-09-10 22:31:40 | Weblog

10の1『岡山の今昔』吉備の埴輪の起源

  埴輪(はにわ)というのは、吉備地方(現在の岡山県と広島県東部)では、弥生時代の墳丘墓に見られる、土を焼いて作られた造形物だ。

 最も古い時代のそれは、円筒埴輪、具体的には土器の台(特殊器台)と壺のセットであって、それが起源だと考えられている。

 元はといえば、死者に供えられたり、祭りに用いられたりしていたのであろうか。それが、畿内に大形の前方後円墳が形成されていくなかで取り入れられ、円筒埴輪として発展してきたものと考えられている。 

 だが、埴輪の元がそうだというには、それが殉死する人の代わりに作られたのに違いないという意見を退けることができるかどうか。因みに、『日本書紀』の垂仁大王32年7月の条において、野見宿禰(のみのすくね)が今までの殉死にかえて、埴土(粘土)をもって代わりとした旨、事細かに書かれている。

 それというのも、垂仁大王のおじの倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなったとき、そばに仕えている人達も生きたまま墓に埋めてしまった。その部分の口語訳には、こうある。

 「死んだ大王の弟を葬る折り、近くに仕えていた人を、生きたまま墓のぐるりに埋め立てた。数日たっても死なず、昼夜となく泣き叫んだが、ついに死んで腐った。犬や鳥が集まって歯肉を食った。」(なお、当時はまだ「天皇」位はないので、「大王」とした。)

 それを聞いた大王は、これを憂えた。その後、皇后の日葉酢姫命(すばすひめのみこと)が死んだ。その時、土師(はじ)氏の祖先の野見宿禰が粘土で人や馬をつくって、これをいけにえの代わりに並べたらどうかと彼に提案し、承認をえた。それ以降、埴輪を古墳に並べるようになったというのだ。
 とはいえ、これは、あくまで伝説であって、やがて人物埴輪はつくられなくなっていく。なお、戦後の岡山大学などの発掘の過程で、「最古型式の古墳に伴う埴輪は円形形埴輪・壺形埴輪であり、人物や動物、武具・武器(楯・ゆき・甲(よろい)・冑(かぶと)等)や威儀具(きぬがさやさしば等)家などの埴輪は最古型式の古墳に伴わないことがあきらかとなった」(近藤義郎「埴輪の起源」)とし、続けてこういう。
 「まず、(1)円筒と壺、ついで(2)両者が一つに合体した朝顔形埴輪、その頃家形埴輪も現れ、(3)やがて武具・武器・威儀の埴輪が作られ、最後に、(4)人物や動物の埴輪が現れるのである。
 これらの埴輪の変遷は、一つの種類が作られなくなって次が出てくるのではなく、例えば(4)の頃には人物・馬の埴輪から武具・武器、さらに家、円筒形の埴輪まで一つの古墳に置かれることもある。
 しかし初めから終わりまで通じて作られ使われるのは円筒形埴輪である。したがって円筒形埴輪は普通的であると同時に最初に現れるという点で、埴輪の基本つまり埴輪の本来の姿を示すものである。
 ここまで述べれば、埴輪が生きている人を埋める代わりに作られたものででないことは明らかであるが、それでもなお人の代わりに円筒を作って埋めたのではないか、と考える人がいるかもしれない。」(近藤義郎・岡山大学教授「埴輪の起源」、「問題」1995年2月号)

 

(続く)

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◻️10の2『岡山の今昔』楯築墳丘墓と宮山墳丘墓  

2019-09-10 21:51:22 | Weblog

10の2『岡山の今昔』楯築墳丘墓と宮山墳丘墓

 楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ、倉敷市矢坂)については、日本でこの地が特に有名だ。はじめに、考古学者による大まかな説明から、ここでは一例を紹介してしたい。
 「出雲市西谷(にしだに)の巨大な四隅突出型の墳丘墓が出雲の王で、それに対してライバルの吉備の王の墓が、楯築(たてつき)墳丘墓だというわけです。楯築墳丘墓測量図のように、日本最大の墳丘墓です。形は円形ですが、北東と南西にそれぞれ突出部が取りついています。(中略)出土する遺物は、特殊器台で、その上に壺が載りますが、先ほどの都月坂(とつきざか)第二号墳丘墓と同じような弥生時代終末期の土器です。とくに墳墓に埋葬した祭り用の器台と壺のセットということです。」(西谷正「魏志倭人伝の考古学」2009)

 これにもあるように、
弥生時代も後期になると、墳丘墓と呼ばれる一般の墓とは隔絶した形の、「墳丘墓」と呼ばれるものが現れる。

 これの特徴としては、中央が円丘で、両サイドに突出部を持つ。墳丘上には、5個の巨石が配置され、まるで「ストーンサークル」を構成しているかのよう。それに、円丘と突出部には、整然とした石の配置がみられる。なお、両サイドの突出部の片方を取り除くと、前方後円墳の形に近くなろう。

 そして、この倉敷にある墳丘墓の発掘(岡山大学が中心、1976~1989)を行ったところ、様々な土器類が供献されていることが判明した。
 その中には、大型の壺や器台が含まれていた。それらの壺や器台は、特殊壷形土器・特殊器台形土器(略して、「特殊壷・特殊器台」とも)と呼ばれる。
 これらのうち特殊器台は、器高が70~80センチメートル程もあるものが少なくない。さらに、大型のものでは1メートルを越えるものもあるという。また、器体の胴部は文様帯と間帯からなり、文様帯には綾杉文や斜格などが刻まれている。そのかなりに、極めて精密に紋様が施されているのには、おそらくこれらが、埋葬するにあたり祭礼を行う時に用いられたのではないか。そして、そのあと一緒に埋められたのではないか、と考えられている。
 このような特珠壷・特殊器台は、一部を除いたはとんどが、吉備地方の同時期の遺跡からかなりの数が出土しており、これらの全体がこの地に特有のものであるといって差し支えない。

 次に紹介するのは、宮山墳丘墓という、総社市の山懐近くにあり、その案内板には、こうある。

「県指定史跡宮山墳墓群 昭和39年5月6日指定 
 およそ1700年前の弥生時代から古墳時代の初め頃の墳墓遺跡です。全長38メートルの墳丘墓と、箱式石棺墓・土棺墓・壺棺墓などで。、される『むらの共同墓地』です。東端に位置する墳丘墓は、盛土でつくられた径23メートル、高さ3メートルの円丘部と、削り出して作った低い方形部をもち、全体として前方後円墳状の平面形をしています。

 この墳丘墓には石が葺かれ、特殊器がたてられていました。円丘部の中央には、円礫や割石を用いた竪穴式石室があり、鏡・銅鏃・ガラス小玉・鉄剣・鉄鏃などが副葬されていました。(中略)このような埋葬施設の規模や構造、副葬品の相違は、当時の社会にすでに支配する者とされる者の差をうかがわせるもので、やがて首長が卓越した存在として村人に君臨し、巨大な古墳を造営する時代の歩みを示しています。」

 ここに「宮山墳墓群」というのは、指定史跡の名前であって、宮山弥生墳丘墓と三輪山古墳群から成る。


(続く)

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◻️24の1『岡山の今昔』備中北部からの交通の発達

2019-09-06 11:22:43 | Weblog
24の1『岡山の今昔』備中北部からの交通の発達

 古来、備中から南下の道のりは、容易でなかった。わけても、南北に長い距離をもち、その中間であるところの高梁から南に下るのには、大きな労力を必要としたことだろう。高梁の北方、「新見郷」には、あの新見荘という名前の荘園があったから、そこから「国府」へと向かうには、哲多の阿賀一の宮へ、それからは「西コース」を南下して小田、山陽道を東へ向かったことだろう。
 そこで高梁を巡る状況なのだが、この地に最初に城が構えられたのは、中世鎌倉期であった。秋庭重信が大松山に城を築く。続いての南北朝期には、備中守護・高師秀が松山城に入り、この地が備中国守護所となる。その後、守護代の秋庭氏が城主となっていたが、1509年(永正6年)になると、備中守護代として上野信孝がこの城に入城する。信孝の子・頼久は、戦乱の中で荒廃した備中安国寺(後の頼久寺)を修復・再興して寺領を寄進した話が伝わる。
    さらに、1533年( 天文2年)には、出雲の尼子氏と結んだ庄為資がこの地に入るという変遷をたどるのだが、この間、武士が力を持つようになっていったのには、交通の発達により、この地を経由しての物資の流れが大きく変化したことがあった。
 そこで、かかる交通上の変化をもう少し詳しくいうと、前述のような次第にて守護所が高梁に進出すると、上記の従来からのルートが、今度は、新見荘から吹屋、高梁と来て、そこからは舟で高梁川を下って総社へ。それからは、連島へと進んでいく。すなわち、これをもって、『高梁を中心として備前、播磨、備後の国々との間に新しい交通路が形成されだした」(竹本豊重「備中地区の中世村を訪ねて」)。
 

(続く)

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♦️905『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカと中国の通商摩擦の激化(2018~19年)

2019-09-01 21:27:05 | Weblog

905『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカと中国の通商摩擦の激化(2018~19年)

 2018年は、アメリカと中国という、世界の2大国の動向に振り回されたことで、永人々の記憶にとどめられるであろう。振り返れば、ざっとこんな調子だ。

 その第一弾は7月6日、アメリカがロボットなど818品目につき25%、金額だと340億ドル。これに対し、中国は大豆など545品目につき、同額の340億ドル。第二弾は8月23日、アメリカが半導体など270品目につき25%、金額だと160億ドル。これに対し、中国は鉄鋼製品など333品目につき、同額の160億ドル。そして第三弾は、9月24日、アメリカが家電、家具など5745品目につき10%(2019年1月以降25%)、金額だと2000億ドル。これに対し、中国は液化天然ガスなど2700品目につき5%または10%、金額だと600億ドルというもの。

 そればかりではない。年末近くに差し掛かっては、主に中国の産業育成政策やサイバー攻撃によるアメリカの技術の盗用などを言いがかりに、厳しいやり取りが展開しだす。アメリカとしては、世界第一の経済大国としての自負があるのか、その座に肉薄している中国の経済上の動きに神経をとがらせているみたいだ。

 いったい、どちらの国が経済力で上かということでは、すでに甲乙つけがたいことになっている。現行の経済統計でいうと、為替相場をベースにするとアメリカだが、購買力をベースにした比較でいうと中国の方が上回っている。そして、後者の指標が追って前者に反映されようから、今後の両国の動静に特段のことがなければ、向こう20年から30年の先には中国の経済力がアメリカをはっきり上回る展開となるのであろう。

 だが、歴史というものは、なかなかなにむずかしい。というのも、この両国は互いに大きいだけに世界経済に対する影響力も大きい。したがって、他の国々は、彼らの争いにマイナスの意味で巻き込まれ、不利益を被る恐れが大きい。また、両国ともいずれ「戦略的妥協」を強いられるであろうが、それまでの間に他の国々はどちらにつくかを迫られたり、あらぬ疑いをかけられたりすることも否定できない。古典的なことでは、これまでの歴史上、帝国主義というのがあったのだが、今度はどうなるのだろうか。同時に、この間の人類史の積み重ねが、真の発展の道筋に乗ったものであるのかどうなのかが問われることになりそうだ。

 そしてゆめゆめ、世界が2陣営に傾き、第三次世界大戦に近づいていかないように、私たちは諸力を傾けないといけないと思う。

(続く)

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◻️79の1の1『岡山の今昔』山陽道(備前焼、発祥の地)

2019-09-01 10:25:33 | Weblog
79の1の1『岡山の今昔』山陽道(備前焼、発祥の地)

 この地は、備前焼発生の地として全国に知られる。この焼き物は、「釉薬を掛けない焼き締め陶」として名高い。そもそも古代の焼き物といえば、あの怪しげな形と縄を巻き付けたような文様をした縄文土器が思い浮かんでくるではないか。たとえば、北海道南茅部町垣ノ島B遺跡より出土した漆塗り土器の製作年代は、約九千年前にも遡るとも言われる。
 幾つかの本をめくってみるのだが、備前焼の発祥は、その流れとは異なるらしい。ある解説には、こうある。
 「備前焼の古窯跡の分布は、古墳時代以降の
須恵器(すえき)の分布とは異なる。すでによく知られているように、邑久郡牛窓町から邑久町・長船町にかけては、古墳時代後半期以降の寒風古窯跡群をはじめ五○基以上の古窯跡が知られている。全国的に見ても、須恵器の一大産地であり、平安時代の『延喜式』にも、摂津・和泉・美濃・播磨・讃岐の国々と共に、須恵器を上納する国の一つにあげられている。」(伊藤晃、上西節雄「焼締古陶の雄」、「日本陶磁全集10」中央公論社、1977)

 こちらの大方には、古墳時代に朝鮮から伝わって生産されていた「須恵器(すえき)」が発展したものが最初と推定されている。それならば、初めて窯で焼かれてから千年の時が経っていることになるではないか。

 意外にも、この地域の焼物が有名になるのは、私たちの頭の中にイメージが出来上がっているあの「備前焼」としてというよりは、「瓦」(かわら)であった。1180年(治承4年)に遡る。その頃瓦づくりを行っていた地域としては、備前にとどまらず、そこから岡山にかけての地域に点在していたようである。この年、平清盛の子・平重衡(たいらのしげひら)の軍勢による「南都焼き討ち」によって焼かれた。
 この事態に、黒谷の源空(法然上人)に後白河法王より東大寺再興の院宣が下る。法然は、老齢を理由に門下の僧の俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)を推挙して、重源が再建費用を集める大勧進職(だいかんじんしき)に任命される。やがて東大寺の再建を始める。その造営費用に当てるため、備前と周防の2国を「造東大寺領」とした。
 その国税を再建費用にあてる「造営料国」(ぞうえいりょうごく)の一つとされたのだ。周防から材木を、備前と遠江から瓦を焼いて送った。屋根瓦は、東大寺領であった備前国の万富で9割以上が焼かれ、現在の備前焼産地の近くや、吉井川河口の福岡を経由して舟で奈良へと運ばれた。残りの数パーセントが渥美の伊良湖で焼かれた。そして、9年後の1193年(建久4年)から東大寺再建が成った。

 この時の窯跡が遺跡に指定されていて、その中の代表的なものが万富(まんとみ、現在の岡山市東区瀬戸町万富)の東大寺瓦窯跡(とうだいじがようせき)とされる。この遺跡は、南北方向に延びた丘陵の西側斜面にあった。遺跡そのもののあった場所は現在、高さ2メートルほどの段差をもつ2面の平坦地(へいたんち)になっている。
 万富地域は、良質の粘土を産するほか、吉井川の水運を利用して資材や出来上がった製品の運搬にも便利であったろう。1979年(昭和54年)と2001年(平成13年)~2002(平成14年)、2005年(平成17年)に磁気探査(じきたんさ)と発掘調査(はっくつちょうさ)が行われた。上の平坦地で14基の瓦窯が見つかっている。

 このほかに、工房(こうぼう)や管理棟(かんりとう)の可能性がある竪穴遺構(たてあないこう)、礎石建物跡、暗渠排水施設なども見つかっている(この発掘の報告は、岡山県教育委員会編『泉瓦窯跡・万富東大寺瓦窯跡』『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告三七、1980による。また当時の瓦窯模式図が、高橋慎一朗編『史跡で読む日本の歴史』第6巻「鎌倉の世界」吉川弘文館、2009、87ページに復元されている。)。
 はたして、私たちが今日知るところの備前焼(びぜんやき)は、古代からの「須恵器(すえき)」での製造技術が、日本で変化を遂げて初めて作り上げられていく。言い換えると、須恵器が元となり、新たな焼き物の開花期に入っていく。
 それというのも、須恵器(すえき)は、同時代に作られていた土師器(はじき)に比べると、堅ろうで割れにくい。そのため、平安時代末期になると庶民の日用品として人気を集めていく。そうして須恵器は、鎌倉時代中期には完成の度合いをつよめていく。
 しかも、室町期に入ると、このような須恵器が元となり、今度は、各地で備前焼、越前焼、信楽焼、瀬戸焼、丹波焼、常滑焼などへと発展していくのであった。
 顧みるに、室町の文化の一つの特徴は、生活様式の侘(わ)びとか寂(さ)びの境地に相通じるものであったろう。それらのなかで、備前焼については、だんだんにであろうか、その素焼きの美しさ、飾り気のない渋みを楽しみたい、風雅人に好まれ茶の湯の席にても頻繁に使われるようになっていく。 
 やがて安土桃山時代に入ると、備前焼の愛好は黄金期を迎えるのだった。さらに江戸期に入ると、備前岡山藩主の池田光政が郷土の特産品として備前焼を奨励するに至る。そのうち、朝廷や将軍家などへの献上品としても名を成していく。従来の甕や鉢、壺に加え、置物としての唐獅子や七福神、干支の動物へと広がる。高級品ばかりでなく、庶民を対象にした酒徳利や水瓶、擂鉢などにも用途が及んでいくのであった。

(続く)

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