◻️24の1『岡山の今昔』備中北部からの交通の発達

2019-09-06 11:22:43 | Weblog
24の1『岡山の今昔』備中北部からの交通の発達

 古来、備中から南下の道のりは、容易でなかった。わけても、南北に長い距離をもち、その中間であるところの高梁から南に下るのには、大きな労力を必要としたことだろう。高梁の北方、「新見郷」には、あの新見荘という名前の荘園があったから、そこから「国府」へと向かうには、哲多の阿賀一の宮へ、それからは「西コース」を南下して小田、山陽道を東へ向かったことだろう。
 そこで高梁を巡る状況なのだが、この地に最初に城が構えられたのは、中世鎌倉期であった。秋庭重信が大松山に城を築く。続いての南北朝期には、備中守護・高師秀が松山城に入り、この地が備中国守護所となる。その後、守護代の秋庭氏が城主となっていたが、1509年(永正6年)になると、備中守護代として上野信孝がこの城に入城する。信孝の子・頼久は、戦乱の中で荒廃した備中安国寺(後の頼久寺)を修復・再興して寺領を寄進した話が伝わる。
    さらに、1533年( 天文2年)には、出雲の尼子氏と結んだ庄為資がこの地に入るという変遷をたどるのだが、この間、武士が力を持つようになっていったのには、交通の発達により、この地を経由しての物資の流れが大きく変化したことがあった。
 そこで、かかる交通上の変化をもう少し詳しくいうと、前述のような次第にて守護所が高梁に進出すると、上記の従来からのルートが、今度は、新見荘から吹屋、高梁と来て、そこからは舟で高梁川を下って総社へ。それからは、連島へと進んでいく。すなわち、これをもって、『高梁を中心として備前、播磨、備後の国々との間に新しい交通路が形成されだした」(竹本豊重「備中地区の中世村を訪ねて」)。
 

(続く)

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