◻️266『岡山の今昔』 岡山人(20~21世紀、藤澤人牛)

2019-09-23 13:40:52 | Weblog
266『岡山の今昔』 岡山人(20~21世紀、藤澤人牛)

 藤澤人牛(ふじさわじんぎゅう、1925~2008)は、玉島黒崎出身の日本画家。本名は、樹。22歳の時に、岡山県美術展で「合同新聞社賞」を受賞する。2002年には、倉敷市文化連盟賞を受賞する。   
 後半生には、学校の美術教師を離れる。それからは、自分の画業を解き放つ試みを重ねていく。
 やがては、抽象画へ、造形、立体的なオブジェへ。さらに自然の造形を自分の頭の中で再構成して描くなど、工夫も独特のやり方であったのではないか。
 晩年になると、今度は墨を用いて、自身のその時々の心象をものにしていったみたいだ。要するに、画家ならではの気ままな生き方を追及し尽くしたの感あり。そんな自由奔放さが、また人を惹き付ける。その笑顔は、不思議な人間味を醸し出す。年来が、特別の画壇や派閥に無縁であったことも、そんな彼の生き方を支えた。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

◻️232の8『岡山の今昔』岡山人(20世紀、柚木久太)

2019-09-23 10:17:58 | Weblog
232の8『岡山の今昔』岡山人(20世紀、柚木久太)

 柚木久太(ゆずきひさた、1885~1970)は、洋画家。玉島(現在の倉敷市玉島)で生れる。父は玉邨と号す南画家であり、幼い頃から、絵の手解きを受けていたのではないか。
 県立岡山中学校(現在の朝日高校)に入る。卒業すると、明治39年満谷国四郎の門に入る。翌年から太平洋画会研究所に属す。一方では、東京美術学校の聴講生となる。
 1911年(明治44年)に開催の第5回文展に出品すると、「鞆津(ともつ)の朝」が入選する。
 同年フランスに留学、アカデミイ・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスに学ぶ。
 大正4年には、帰国する。以後、文展や帝展に出品をつづける。1927年(昭和3年)には、帝展審査員となる。戦争中の空襲により、東京・田無のアトリエが焼け、かなりの作品を失う。
 戦後の作品では、伸びやかな画風に磨きがかかる。「湖雲一帯」には、雄大な自然に流れる時間を感じさせる。その画業のかたわら、晩年は日展評議員、参与をつとめる。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

◻️232の7『岡山の今昔』岡山人(20世紀、河野進)

2019-09-23 09:13:36 | Weblog

232の7『岡山の今昔』岡山人(20世紀、河野進)

 河野進(こうのすすむ、1904~1990)は、キリスト教プロテスタントの牧師。
 和歌山県の生まれ。満州教育専門学校を経て、神戸中央神学校で学ぶ。よほどの宗教心が培われたのであろう。卒業すると、玉島教会において牧師となる。
 やがて、賀川豊彦より、岡山ハンセン病療養所での慰問伝道を勧められたらしい、それ以来長きにわたりたづさわる。
 そんな河野には、おりに触れての、素直な心情を吐露したかのような詩がある。その中から、幾つか紹介しておこう。

「ぞうきん」
「困ったときに 思い出され
用がすめば
すぐ 忘れられる
ぞうきんになりたい」
 
「一日」
「不平の百日より 感謝の一日を
憎しみの百日より 愛の一日を
失望の百日より 希望の一日を
悪口の百日より ほめる一日を
戦争の百日より 平和の一日を
罪の百日より 赦された一日を
悪魔の百日より 天使の一日を」
 
「美しさ」
「川の美しさは 清い水の一滴から
海岸の美しさは 白い砂の一粒から
木の美しさは 緑の一葉から
人の美しさは やさしい一言から」


(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆