◻️211の3『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、井手訶六 )

2019-09-22 21:51:10 | Weblog

211の3『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、井手訶六 )


 井手訶六 (いでかろく、1898~1928)は、大正から昭和時代前期にかけの小説家。
 なかなかの苦労家であり、幼児期、一家離散となり養子に行く。後に井手家に戻る。しかし、肺結核で金光中学を中退を余儀なくされる。その頃に見ていたのは、何であったのだろうか。
 1910年(明治43年)に応募の「霹靂(へきれき)」で1等をとる、またそれは、「新しき生へ」と改題することて、さらなる読者を獲得する。
 つづいての1913年(大正2年)には、谷崎潤一郎の「痴人の愛」連載中止のあとをうけて、「炬を翳す人々」を連載する。1915年には、「主婦の友」に「十字路の乙女」を連載する。長編小説へと歩行を進める。ファンらの期待も、大きく、次が期待される。しかし、年来の身体に無理があったのだろうか、流行性感冒がもとで帰らぬ人となる、まだ31歳の働き盛りであった。

(続く)

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◻️232の6「岡山の今昔」岡山人(20世紀、池田遙邨)

2019-09-22 20:59:45 | Weblog
232の6「岡山の今昔」岡山人(20世紀、池田遙邨)

 2017年の新聞が、画家、池田遙邨の代表作をこう伝える。
 「関東大震災描く「災禍の跡」 岡山・倉敷市立美術館が所蔵、池田遙邨、転機の異色作/中国
「池田遙邨名作選」を担当する前野嘉之学芸員=岡山県倉敷市中央2の市立美術館で、小林一彦撮影
 岡山県出身の日本画家で、文化勲章を受章した池田遙邨(ようそん)(1895~1988)は、ひょうひょうとしたユーモア漂う画風で知られる。しかし、それが遙邨の創作のすべてではない。例えば、同県倉敷市中央2の市立美術館に所蔵されている「災禍の跡」(24年)。1923年9月に起きた関東大震災をテーマにした屏風(びょうぶ)作品だ。(小林一彦)」(毎日新聞、2017年3月7日付け)
 ここに紹介される遙邨は、この大震災の発生時には京都にいたという。連日のように画業に励んでいたという。その地震発生直後、何を思ったのか、被災地に行く。
 そんな中、目の当たりにした光景を、後に描く。
 「地平線が画面下方に設定されているため、被災地が果てしなく続いている状況が想像できます。こうした光景は、中央にいる子どもの目の前にも広がっていたはずです。遙邨は、400枚にのぼる被災地のスケッチをしていますが、この作品は写生から始まってイメージの中で再構成することにより、現実をそのまま写す以上に、震災の恐ろしさ、悲惨さを訴えています。」(同)
 この批評にもあるように、画家たるもの、眼と脳に刻んだ像のエッセンスを表現しようと格闘したものと見える。
 そんな彼は、岡山市門田屋敷(両親の当時の居住地)生まれと推察される(本籍地は浅口郡乙島村=倉敷市玉島)。幼少期から絵を描くことが好きで、1910年(明治43年)に大阪に出て、洋画家・松原三五郎の天彩画塾に入る。

 1913年(大正2年)には、福山で水彩画による、初の個展を開く。翌年の第8回文部省美術展覧会に「みなとの曇り日」を出品する。1919年(大正8年)になると、竹内栖鳳の画塾「竹杖会」に入る。そして、第一回帝国美術院展覧会(帝展)において、「南郷の八月」で入選を果たす。昭和に入ると「昭和東海道五十三次」のように清新な画風に変わる。
 戦後になると、さらに画風をリニューアルしていく。伝統や慣習にとらわれないのを理想にしたものと考えられる。


(続く)

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◻️192の4の2『岡山の今昔』岡山人(19世紀、浮田幸吉)

2019-09-22 20:26:43 | Weblog
192の4の2『岡山の今昔』岡山人(19世紀、浮田幸吉)

 浮田幸吉(うきたこうきち、1757~1847)は、日本で初めて、空を飛ぼうとし、かつまた、そのことを本気で試みたのでしられる。鳥人幸吉、表具師幸吉、表具屋幸吉、櫻屋幸吉、備前屋幸吉、備考斎(びんこうさい)などの別名をもつ。
 備前国児島郡八浜(現在の岡山県玉野市八浜)の浮田(櫻屋)清兵衛の次男に生まれる。7歳で父を亡くし岡山の紙屋兼表具屋に奉公に出る、そこで表具を習う。
 面白いのは、日々の修行のかたわら、空を飛ぶ鳥に興味を持ち、鳥が空を飛ぶメカニズムを熱心に研究するのであった。伝承によれば、鳥の羽と胴の重さを計測しその割合を導き出す。それを「人間の体に相当する翼を作れば人間も鳥と同じように空を飛べるはずである」と考えたらしい。
 やがて表具師の技術を応用し、竹を骨組みに紙と布を張る。それをもって、柿渋を塗るなど強度を持たせたる工夫を施し、翼を製作する。
 しかし、なかなかにうまくできない。試作を繰り返すうちの1785年(天明5年)夏、旭川に架かる京橋の欄干から飛び上がる。頼みの風に乗って数メートル滑空したとも、直ぐに落下したとも言われる。
 おりしも、河原で夕涼みをしていた町民の騒ぎとなり、岡山藩から咎めを受ける。時の藩主池田治政により岡山を所払いとされてしまう。「世間を騒がし、けしからん」というのであったろう。この出来事については、同時代の漢詩人菅茶山の著書『筆のすさび』などにも取り上げられる。
 その後は、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)に移り、「備前屋幸吉」の名で郷里児島の木綿を扱う店を開く。軌道に乗ったところで兄の子に店を継がせる。さらに、自身は歯科技師「備考斎」と名乗り、晩年を、遠州見附宿(現在の静岡県磐田市)で暮らす、はしなくも「やるべきはやった」の境地であったのだろうか。

(続く)

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