◻️10の2『岡山の今昔』楯築墳丘墓と宮山墳丘墓  

2019-09-10 21:51:22 | Weblog

10の2『岡山の今昔』楯築墳丘墓と宮山墳丘墓

 楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ、倉敷市矢坂)については、日本でこの地が特に有名だ。はじめに、考古学者による大まかな説明から、ここでは一例を紹介してしたい。
 「出雲市西谷(にしだに)の巨大な四隅突出型の墳丘墓が出雲の王で、それに対してライバルの吉備の王の墓が、楯築(たてつき)墳丘墓だというわけです。楯築墳丘墓測量図のように、日本最大の墳丘墓です。形は円形ですが、北東と南西にそれぞれ突出部が取りついています。(中略)出土する遺物は、特殊器台で、その上に壺が載りますが、先ほどの都月坂(とつきざか)第二号墳丘墓と同じような弥生時代終末期の土器です。とくに墳墓に埋葬した祭り用の器台と壺のセットということです。」(西谷正「魏志倭人伝の考古学」2009)

 これにもあるように、
弥生時代も後期になると、墳丘墓と呼ばれる一般の墓とは隔絶した形の、「墳丘墓」と呼ばれるものが現れる。

 これの特徴としては、中央が円丘で、両サイドに突出部を持つ。墳丘上には、5個の巨石が配置され、まるで「ストーンサークル」を構成しているかのよう。それに、円丘と突出部には、整然とした石の配置がみられる。なお、両サイドの突出部の片方を取り除くと、前方後円墳の形に近くなろう。

 そして、この倉敷にある墳丘墓の発掘(岡山大学が中心、1976~1989)を行ったところ、様々な土器類が供献されていることが判明した。
 その中には、大型の壺や器台が含まれていた。それらの壺や器台は、特殊壷形土器・特殊器台形土器(略して、「特殊壷・特殊器台」とも)と呼ばれる。
 これらのうち特殊器台は、器高が70~80センチメートル程もあるものが少なくない。さらに、大型のものでは1メートルを越えるものもあるという。また、器体の胴部は文様帯と間帯からなり、文様帯には綾杉文や斜格などが刻まれている。そのかなりに、極めて精密に紋様が施されているのには、おそらくこれらが、埋葬するにあたり祭礼を行う時に用いられたのではないか。そして、そのあと一緒に埋められたのではないか、と考えられている。
 このような特珠壷・特殊器台は、一部を除いたはとんどが、吉備地方の同時期の遺跡からかなりの数が出土しており、これらの全体がこの地に特有のものであるといって差し支えない。

 次に紹介するのは、宮山墳丘墓という、総社市の山懐近くにあり、その案内板には、こうある。

「県指定史跡宮山墳墓群 昭和39年5月6日指定 
 およそ1700年前の弥生時代から古墳時代の初め頃の墳墓遺跡です。全長38メートルの墳丘墓と、箱式石棺墓・土棺墓・壺棺墓などで。、される『むらの共同墓地』です。東端に位置する墳丘墓は、盛土でつくられた径23メートル、高さ3メートルの円丘部と、削り出して作った低い方形部をもち、全体として前方後円墳状の平面形をしています。

 この墳丘墓には石が葺かれ、特殊器がたてられていました。円丘部の中央には、円礫や割石を用いた竪穴式石室があり、鏡・銅鏃・ガラス小玉・鉄剣・鉄鏃などが副葬されていました。(中略)このような埋葬施設の規模や構造、副葬品の相違は、当時の社会にすでに支配する者とされる者の差をうかがわせるもので、やがて首長が卓越した存在として村人に君臨し、巨大な古墳を造営する時代の歩みを示しています。」

 ここに「宮山墳墓群」というのは、指定史跡の名前であって、宮山弥生墳丘墓と三輪山古墳群から成る。


(続く)

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