◻️265の2『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、福田史郎)

2019-09-12 22:01:51 | Weblog
265の2『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、福田史郎)

 福田史郎(1927~2017)は、玉野市の生まれ。その海岸から3キロメートルばかり離れたところにある、直島(現在は香川県、かつて近隣の島から堀りだされる銅鉱石の製錬所があった)に、鉱山技師の父親、勘四郎の職場があったという。やがて、家族とともに津山に移り、多感な少年時代を過ごす。
 やがては津山市立西中学校の数学教師にして、だんだんに青少年カウンセラー、教育評論家ともなっていく。さらには、教育現場における実践を基礎に、「鶴山塾」(津山市が1985年に開塾)での活動など、幅広い青少年教育に献身的にたづさわったことで、この地で広く知られる。
 その事例研究には、他に追随を許さないほどの、自身の体験に裏付けられた説得力が感じられる。ここでは、そんな福田の60代の頃における報告の中から、一つを紹介しよう。
 「後進性を十分に脱した近代(文明)社会の中では、知識的、階級的な彼岸へのかけがいなき門戸という学校のイメージは、もはや成り立ちえない。そのうえ、学校がそこに根づき下から学校を支える基盤となっていた自然(地縁血縁)的な地域共同体も、近代化の帰結として解体してしまっている。この傾向に徹底的な追討ちをかけたのが、国庫補助による学校統合の嵐であったことは、記憶に生々しい。これが不登校増加をはじめ、今日の学校における失調現象(どの子にも生じうる)の本質的背景ではなかろうか。(中略)
 『風の又三郎』(宮沢賢治)のなかに、次のような一節がある。「九月一日の朝でした。『ほう、おら一等だぞ。一賞だぞ。』とかわるがわる叫びながら大悦びで門を入って来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合せてぶるぶるふるえました。というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔もしらないおかしな髪の子供がひとり一番前の机にちゃんと座っているのです。そしてその机といったら、まったくこの泣いた子の自分の机だったのです。」
 かつては『風の又三郎』であったものが、今日では「いじめ現象」として現れてくるのは、教室で子どもたちがある対象に対してなんらかの違和意識を抱いたとき、それが「不思議」や「おそれ」として体験されえず、端的に「違和」(異物)としてしか体験されない傾向が大きくなったためではなかろうか。
 そのため、今日の「いじめ現象」は、たんに支配や攻撃ではなく、「(異物)の排除」という構造を大きな特徴としてもつ。「排除」は出口なしの体験である。今の「いじめ」がときに、子どもを死にまで追いやるのはこのためにちがいない。」(福田史郎(美作部落研副会長)「事例に思う、青少年問題の背景と課題」、「問題調査、研究」1995年2月号)

 

(続く)

 

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◻️265の1『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、高畑勲)

2019-09-12 21:18:07 | Weblog

265の1『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、高畑勲)
  
 毎日新聞の2015年06月17日付け紙面に、アニメーション作家の高畑勲(たかはしいさお、1935~2018)の、岡山市内での講演の模様が載っている。 


 「いつ命を落としてもおかしくない状況で、震えが止まらなかった。」

 空襲後、自宅のあった場所に戻った時のこと、「逃げ込もうかと迷った防空壕(ごう)で、多数の人が蒸し焼きになって死んでいた。自宅の前の水路にも、水につかったまま窒息死している人が何人もいた。『これが戦争か』と思い知らされた」。

 「自分よりずっとつらい体験をした人がたくさんいるのだから。どうして悲惨な状態に追い込まれたのか、戦争が始まる時のことを知る方がずっと重要だ。」

 「戦後ずっと続いてきた平和が、政府の方針で揺らいでいることに戦後最大の危機感を覚える。さまざまな戦争の体験談を聞き、『戦争が始まったら自分はどうするのか』と想像してみてほしい。今の世の中が道を踏み外していることが分かるはずだ。」

 ここに紹介される高畑は、三重県宇治山田市(現在の伊勢市)に7人兄弟の末っ子として生まれる。1938年(昭和13年)には、津市に移る。1942年(昭和17年)になると、三重県立師範学校男子部付属国民学校に入る。それが、1943年(昭和18年)、父の転勤に伴い岡山県立師範学校男子部付属国民学校に移る。

 戦後は、岡山大学付属中学校を経て、県立朝日高校へ。1954年(昭和29年)、岡山県立朝日高校を卒業、東京大学教養部に入学する。その2年後には、同大学の文学部フランス文学科2年に進級む。1958年(昭和33年)には、東映動画の演出助手募集に応募、内定。1959年3月、東大卒業。そしての4月、東映動画に入社し、さぞかし注目されたことだろう。
 それからは、多くのアニメーション動画に関わっていく。ざっと、「安寿と厨子王丸」「鉄ものがたり」「わんぱく王子の大蛇退治」に、テレビでも放送された「狼少年ケン」。それから、「太陽の王子・ホルスの大冒険」「ひみつのアッコちゃん」 「ゲゲゲの鬼太郎」「もーれつア太郎」「アパッチ野球軍」など。
 そして迎えた1971年には、宮崎駿氏、小田部羊一氏らと共に東映動画を退社し、Aプロ(現在のシンエイ動画)へ移る。


(
続く)

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