◻️267『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、河野磐)

2019-09-26 20:19:07 | Weblog
267『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、河野磐)

 河野磐(こうのいわお、1920~2011)は、教育家にして画家、演劇家でもある。
1937年(昭和12年) には、津山中学校(現在の津山高等学校)を卒業する。それから京都に出て、1941年(昭和16年) には、国立京都高等工芸学校(現在京都工芸繊維学校)を卒業する。
 その翌年には、 美作高等女学校、津山女子商業高校での教職を得る。
やがて軍に召集される。「北支山西省から河北省へ。万里の長城で終戦を知る。蒙古自治政府宣北省延慶縣察哈爾省八達嶺の警備を終え、その年の暮れ津山に帰着」というのが、本人の述懐。
 1948年(昭和23年)の学制改革により、岡山県美作高等学校、岡山県美作中学校の教諭。1951年(昭和26年)には、退職し、東京移住。友人に救われ、東京チャペル・センターで働く。
 それからかなりたっての1968年(昭和43年) には、帰郷して、美作女子大学と美作短期大学の教授に就任する。
 そしての1990年に同大学を 定年退職し、画業などの創作活動に専念する。それからも、自宅には、連日のような賑わいがあったのであろう。
 それというのも、河野の偉大さというのは、画家の枠をはみ出したかのような明るさにあったに違いあるまい。中でも、演劇部活動の座長役さえも厭わず、同大学の教え子はおろか、津山高専生なども、椿高下の自宅に招き入れ、演劇を教える、まるで相手が友達であるかのような接しようであったから、皆が慕うのは不思議ではなかろう。
 その温かな人柄にも似た絵や手作りの西洋人形などには、鮮やかな色彩美がつとに感じられよう。没後2年を経て開催された個展では、「描いた風景は暖かくて心が和むものでした。また、存在感のある映画のポスターや演劇のポスターなどが並んでいる」という賛辞が寄せられる。

(続く)

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