◻️10の1『岡山の今昔』吉備の埴輪の起源

2019-09-10 22:31:40 | Weblog

10の1『岡山の今昔』吉備の埴輪の起源

  埴輪(はにわ)というのは、吉備地方(現在の岡山県と広島県東部)では、弥生時代の墳丘墓に見られる、土を焼いて作られた造形物だ。

 最も古い時代のそれは、円筒埴輪、具体的には土器の台(特殊器台)と壺のセットであって、それが起源だと考えられている。

 元はといえば、死者に供えられたり、祭りに用いられたりしていたのであろうか。それが、畿内に大形の前方後円墳が形成されていくなかで取り入れられ、円筒埴輪として発展してきたものと考えられている。 

 だが、埴輪の元がそうだというには、それが殉死する人の代わりに作られたのに違いないという意見を退けることができるかどうか。因みに、『日本書紀』の垂仁大王32年7月の条において、野見宿禰(のみのすくね)が今までの殉死にかえて、埴土(粘土)をもって代わりとした旨、事細かに書かれている。

 それというのも、垂仁大王のおじの倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなったとき、そばに仕えている人達も生きたまま墓に埋めてしまった。その部分の口語訳には、こうある。

 「死んだ大王の弟を葬る折り、近くに仕えていた人を、生きたまま墓のぐるりに埋め立てた。数日たっても死なず、昼夜となく泣き叫んだが、ついに死んで腐った。犬や鳥が集まって歯肉を食った。」(なお、当時はまだ「天皇」位はないので、「大王」とした。)

 それを聞いた大王は、これを憂えた。その後、皇后の日葉酢姫命(すばすひめのみこと)が死んだ。その時、土師(はじ)氏の祖先の野見宿禰が粘土で人や馬をつくって、これをいけにえの代わりに並べたらどうかと彼に提案し、承認をえた。それ以降、埴輪を古墳に並べるようになったというのだ。
 とはいえ、これは、あくまで伝説であって、やがて人物埴輪はつくられなくなっていく。なお、戦後の岡山大学などの発掘の過程で、「最古型式の古墳に伴う埴輪は円形形埴輪・壺形埴輪であり、人物や動物、武具・武器(楯・ゆき・甲(よろい)・冑(かぶと)等)や威儀具(きぬがさやさしば等)家などの埴輪は最古型式の古墳に伴わないことがあきらかとなった」(近藤義郎「埴輪の起源」)とし、続けてこういう。
 「まず、(1)円筒と壺、ついで(2)両者が一つに合体した朝顔形埴輪、その頃家形埴輪も現れ、(3)やがて武具・武器・威儀の埴輪が作られ、最後に、(4)人物や動物の埴輪が現れるのである。
 これらの埴輪の変遷は、一つの種類が作られなくなって次が出てくるのではなく、例えば(4)の頃には人物・馬の埴輪から武具・武器、さらに家、円筒形の埴輪まで一つの古墳に置かれることもある。
 しかし初めから終わりまで通じて作られ使われるのは円筒形埴輪である。したがって円筒形埴輪は普通的であると同時に最初に現れるという点で、埴輪の基本つまり埴輪の本来の姿を示すものである。
 ここまで述べれば、埴輪が生きている人を埋める代わりに作られたものででないことは明らかであるが、それでもなお人の代わりに円筒を作って埋めたのではないか、と考える人がいるかもしれない。」(近藤義郎・岡山大学教授「埴輪の起源」、「問題」1995年2月号)

 

(続く)

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◻️10の2『岡山の今昔』楯築墳丘墓と宮山墳丘墓  

2019-09-10 21:51:22 | Weblog

10の2『岡山の今昔』楯築墳丘墓と宮山墳丘墓

 楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ、倉敷市矢坂)については、日本でこの地が特に有名だ。はじめに、考古学者による大まかな説明から、ここでは一例を紹介してしたい。
 「出雲市西谷(にしだに)の巨大な四隅突出型の墳丘墓が出雲の王で、それに対してライバルの吉備の王の墓が、楯築(たてつき)墳丘墓だというわけです。楯築墳丘墓測量図のように、日本最大の墳丘墓です。形は円形ですが、北東と南西にそれぞれ突出部が取りついています。(中略)出土する遺物は、特殊器台で、その上に壺が載りますが、先ほどの都月坂(とつきざか)第二号墳丘墓と同じような弥生時代終末期の土器です。とくに墳墓に埋葬した祭り用の器台と壺のセットということです。」(西谷正「魏志倭人伝の考古学」2009)

 これにもあるように、
弥生時代も後期になると、墳丘墓と呼ばれる一般の墓とは隔絶した形の、「墳丘墓」と呼ばれるものが現れる。

 これの特徴としては、中央が円丘で、両サイドに突出部を持つ。墳丘上には、5個の巨石が配置され、まるで「ストーンサークル」を構成しているかのよう。それに、円丘と突出部には、整然とした石の配置がみられる。なお、両サイドの突出部の片方を取り除くと、前方後円墳の形に近くなろう。

 そして、この倉敷にある墳丘墓の発掘(岡山大学が中心、1976~1989)を行ったところ、様々な土器類が供献されていることが判明した。
 その中には、大型の壺や器台が含まれていた。それらの壺や器台は、特殊壷形土器・特殊器台形土器(略して、「特殊壷・特殊器台」とも)と呼ばれる。
 これらのうち特殊器台は、器高が70~80センチメートル程もあるものが少なくない。さらに、大型のものでは1メートルを越えるものもあるという。また、器体の胴部は文様帯と間帯からなり、文様帯には綾杉文や斜格などが刻まれている。そのかなりに、極めて精密に紋様が施されているのには、おそらくこれらが、埋葬するにあたり祭礼を行う時に用いられたのではないか。そして、そのあと一緒に埋められたのではないか、と考えられている。
 このような特珠壷・特殊器台は、一部を除いたはとんどが、吉備地方の同時期の遺跡からかなりの数が出土しており、これらの全体がこの地に特有のものであるといって差し支えない。

 次に紹介するのは、宮山墳丘墓という、総社市の山懐近くにあり、その案内板には、こうある。

「県指定史跡宮山墳墓群 昭和39年5月6日指定 
 およそ1700年前の弥生時代から古墳時代の初め頃の墳墓遺跡です。全長38メートルの墳丘墓と、箱式石棺墓・土棺墓・壺棺墓などで。、される『むらの共同墓地』です。東端に位置する墳丘墓は、盛土でつくられた径23メートル、高さ3メートルの円丘部と、削り出して作った低い方形部をもち、全体として前方後円墳状の平面形をしています。

 この墳丘墓には石が葺かれ、特殊器がたてられていました。円丘部の中央には、円礫や割石を用いた竪穴式石室があり、鏡・銅鏃・ガラス小玉・鉄剣・鉄鏃などが副葬されていました。(中略)このような埋葬施設の規模や構造、副葬品の相違は、当時の社会にすでに支配する者とされる者の差をうかがわせるもので、やがて首長が卓越した存在として村人に君臨し、巨大な古墳を造営する時代の歩みを示しています。」

 ここに「宮山墳墓群」というのは、指定史跡の名前であって、宮山弥生墳丘墓と三輪山古墳群から成る。


(続く)

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