◻️211の32『岡山の今昔』岡山人(20世紀、小山冨士夫)

2019-09-16 09:21:16 | Weblog
211の32『岡山の今昔』岡山人(20世紀、小山冨士夫)

 小山富士夫(こやまふじお、1900~1975)は、陶芸家にして美術評論家。浅口郡玉島町(現在の倉敷市玉島)の生まれ。1920年には、一橋大学に入学する。家は何がしか恵まれていたのだろう。1925年には、瀬戸に行き、矢野陶々に弟子入りしたという。その翌年には、京都に出て、陶芸家の真清水蔵六に師事し、作陶を習う。
 いかにも、才能が開化したというべきか、一人前の陶芸家になると、今度は、この方面のあらゆることへの関心が増していったらしい。
 1932年には、古陶磁研究誌の編集員になる。1933年には、文部省嘱託の重要美術品等調査員となる。そうはいっても、中国では、日本の侵略が続いていた時期のことなのだ。
 そして迎えた1941年(昭和16年)には、中国に行き、古窯址の調査旅行を行う。現地の発掘で定窯古窯址を発見したと、小躍りするかのような喜びであった旨、後に書いているのだが。その資金は、どこから出たのであろうかなど、気にかかる。
 戦後になっての1946年には、日本陶磁協会が発足、理事となる。1955年、日本陶磁協会の創立10周年を記念として「宋磁名品展」を開催する、もはや陶磁器界の中心に名前を連ねていた。1959年には、文化財保護委員会事務局無形文化課文化財調査官になる。
 1961年にイギリス東洋陶磁協会名誉会員となったのには、年来の海外での陶磁器調査(イギリス隊と先を競ったのを含め)が認められたのだろう。1966年、鎌倉の自宅に「永福窯」を築く。1967年には、日本工芸会理事長に就任する。1969年には、「骨董百話」を藝術新潮に83回にわたって寄稿する。岐阜県土岐市五斗蒔に「花の木窯」を築く。  

(続く)


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