◻️232の5『岡山の今昔』岡山人(20世紀、本田文輔) 

2019-09-19 10:07:45 | Weblog

232の5『岡山の今昔』岡山人(20世紀、本田文輔)

 本田文輔(1910~1936)をご存知だろうか、彼は、大学生にして、共産党の活動家てあった。その後半は、日本が侵略戦争にのめり込んでいく中での、劇的な人生であった。
 生まれは、英田郡江見村が原籍なのだが、小学校教師の父親の任地との関係を考えると、断定は難しいようだ(大林秀弥「本田文輔のこと」)。
 1927年(昭和2年)には、第一岡山中学校を卒業し、第六高等学校の理科甲類に入学する。そこを1930年(昭和5年)に卒業後は、京都大学の文学部哲学科へとすすむ。と、ここまでは当時の若者の中では、相当に恵まれた境遇であったのであろう。それに、秀才ということでも地方での誉れが高かったようだ。
 そんな本田が、学生生活2学年を迎える頃には、マルクス的立場から、社会問題に大きく立ち入るまでになっていた。なお、マルクスをどれだけ読んでいたのかは、わからない。それというのも、1932年(昭和7年)9月7日には、内務省管轄の特別高等警察に検挙されたという。
 はたして、当時の世相はといえば、「きな臭さ」を増しつつあった。何らかの政治活動が理由なのであろうか、もしくは、そのような「危険」思想を抱いているか、国策に反対する政党に関係しているのではないか、などでの嫌疑がかかっては、簡単に連行される時代であった。ましてや本田は、もういっぱしの活動家(日本共産同盟京都都市委員会委員長)となっていたのだから、仲間とともにこの日一斉検挙に連座して逮捕される。
 そのまま12月には、治安維持法により起訴される。さしあたりの量刑は、「懲役六年又は七年」(大林、前掲書)であったという。それから数年だった1936年(昭和11年)5月8日(推定)には、彼の岡山刑務所内での死亡が伝えられている。そのことから、「非転向」のため、たんなる刑務所暮らしではなくて、拷問をふくむ尋問が続いていたのであろう。この点につき、刑務所の記録は、刑務所内での「自殺」とされているようなのだが、この時期での他の例と同様に信用するに足らない。

(続く)

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