◻️265の3『岡山の今昔』岡山人(20世紀、米川文子(初代))

2019-09-29 21:16:33 | Weblog
265の3『岡山の今昔』岡山人(20世紀、米川文子(初代))

 米川文子(よねかわふみこ、初代、1894~1995) は、明治から昭和時代にかけての地歌・箏曲(そうきょく)家。米川琴翁(きんおう)と米川正夫の妹。現在の高梁市間之町の生まれ。
 幼い頃から、芸の道を歩んだのであろうか。山脇高等女学校を中退したのだと伝わる。1905年に、東京に出る。姉の米川暉寿(てるじゅ)や小出とい、菊原琴治らにも師事したという。
 一人立ちには、時間がかかったようだ。生田流という、伝統芸に属す。1927年(昭和3年)以来、双調会を主宰する。1937年(昭和10年)には、「地唄舞」の研究会を開く。それから、地歌の普及に邁進する。
 演目の「松竹梅」などを聴くと、その調べは、なんともゆったりしている。歌いかたも、長々している。琴の中でも、先鋭化したり、独特の気風とは無縁であるかのように感じるのだが。
 1941年(昭和16年)には、人間国宝に認定される。1953年(昭和28年)には、芸術院会員、その3年後には文化功労者。「一筋の道」を描いて、次の世代にその伝統を引き渡していく。「お見事」というしかあるまい。

(続く)

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◻️239の10『岡山の今昔』岡山人(20世紀、石井直三郎)

2019-09-29 19:11:27 | Weblog
239の10『岡山の今昔』岡山人(20世紀、石井直三郎)

 石井直三郎(いしいなおさぶろう、1890~1936)は、歌人。小田郡矢掛村(現在の小田郡矢掛町)の生まれ。
 矢掛中学校から第六高等学校を経て、1914(大正3)年、東京帝国大学国文科を卒業する。
 六高在学中には、六高短歌会に加わって尾上柴舟の指導を受ける。社会にでると、万朝報の美術記者となり、見聞をひろめることができたのではないか。やがて、東京帝室博物館嘱託さらに第八高等学校教授を勤める。
 1914(大正3)年、尾上柴舟主宰の「水甕」創刊に参加する。社を自宅に置くなどして経営にも参画する。雑事にも、尽力するのをいとわない、ひたむきな性格であったようだ。 1925(大正14)年には、雑誌「青樹」を創刊するも、後に「水甕」と合併。
 歌集としては、『青樹』を発行、147首を収める。その中には、歌人のたおやかな心情が写し出される。
「山幾重夕山いくへ鳴かぬ鳥さびしき鳥のおちて入る山」
「ほたほたと青葉の雫おつるおと霧こめし月の夜半にきこゆる」
「こまやかに張れるこずえに陽をうけて芽ぶかむとする樹々のしづけさ」

(続く)

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◻️211の4『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、馬越恭平)

2019-09-29 11:15:14 | Weblog
211の4『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、馬越恭平)

 馬越恭平(まごしきょうへい、1844~1933)は、実業家。備中国後月郡(現在の井原市)の生まれ。
 どういう気持ちであったのだろうか、13歳にて、母方の叔父に当たる播磨屋仁平衛の世話にて、鴻池家で丁稚奉公して働く。二年後にその働きぶりが認められ、仁平衛は自らの養子に恭平を迎え入れる。
 その播磨屋は、徳川時代から諸大名の金銭の用達を務める商家であった。各藩が軍費を調達するのに、金銭を貸し付けていたという。
 明治維新後は、表向き公宿になったらしいのだが、当人は、何とか東京に出て新時代の経済界で飛躍したいと考える。それを養家が承知しなかったため、妻子と別れ播磨屋を去って上京する決意を固める。
 播磨屋の事業で知り合いとなっていた大阪造幣寮の益田孝(後の三井物産社長)の世話にて、井上馨(かおる)の設立した先収会社に入るのが、1873年(明治6年)であった。その後身の三井物産で横浜支店長(1876)、元締役、売買方専務を務める。
 と、トントン拍子の出世であったようなのだが、やがて三井物産を退社して日本麦酒の経営立て直しに専念する。その後には、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒の三社の合同により設立した大日本麦酒の社長になる。
 そればかりか、帝国商業銀行頭取をはじめ、100以上の企業の役員を歴任したというから、驚きだ。衆議院議員にもなり、1924年(大正13年)なには、勅撰の貴族院議員に選ばれる。
 茶人としても知られる彼にして、何かしらの安らぎを得ていたのではないか。

(続く)

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