◻️13『岡山の今昔』古代の人々はどのように暮らしたのか

2021-10-01 22:03:16 | Weblog
13『岡山の今昔』古代の人々はどのように暮らしたのか

 747年(天平19年、聖武天皇の治世)の日本では、西日本において、飢饉が発生していたと伝わる。具体的には、大養徳国、河内国、摂津国、近江国、伊勢国、志摩国、丹波国、出雲国、播磨国、美作国、備前国、備中国、紀伊国、淡路国、讃岐国に飢饉があったといわれており、ならば今日の吉備の全体が生存の危機に陥っていたことになろう。
 それから50年余りを経た799年(延暦18年)には、桓武天皇の治世)に目をやると、その年の2月 には和気清麻呂が死去(67歳)、私出挙を許可し利息を10分の3に定める。4月には、渤海使の来貢を6年に1度と定める。そして迎えた6月には、その頃も続いていた飢饉のため、美作など11か国の租税が免除される。
 およそこのような経緯を垣間見ることによっても、王公貴族(天皇とその家族、親族を含む)ではない、一般の人々にとっては、文字通り、生きることに必死な毎日であったのだろう。

 また、当時のこの辺りの、押し並べての社会状況ということでは、多分に推測を交えてであろうが、例えば美作の場合では、次のように記されている。
 「美作の国は近国のなでは、備前の国に次ぐ耕地の面積があった。しかし、人々は大部分が班田制により土地を割り与えられた農民であり、彼らは租・庸・調・雑徭(ぞうよう)・兵役、そして、都まで税を運ぶ仕事などを課せられていた。
 美作の国では、租として米、庸として白木唐櫃(しらきからひつ、衣装などを入れるのに使う)・綿・米を、また調としては、絹製品や鍬(くわ)や鉄を納めていた。それらの税は、農業の発達していなかった当時の農民を大きく圧迫するものだった。さらに、美作の国では、749年に飢饉が発生するなどして農民の暮らしは決して楽ではなかった。
 さて、この時代の重要な生産物として鉄をあげることができる。美作における鉄生産は、市内沼の弥生住居跡から発掘された鉄製「やりがんな」にその例が見られるように、弥生時代にさかのぼることができるが、古墳時代になって大きく発展したらしい。
 奈良時代に入ると大庭(おおば)・真島(まじま)の二郡が、庸米のかわりに鉄を納めることを要求するという記録に見られるように、この地域での鉄生産が著しく盛んになったことが認められる。」(津山市中学校社会科協議会・津山市学校教育研究所編「郷土津山ー中学校社会科(歴史)資料集」1981)」

(続く)

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◻️555『岡山の今昔』岡山人(20世紀、横溝正史)

2021-10-01 06:45:44 | Weblog
555『岡山の今昔』岡山人(20世紀、横溝正史)
 
 横溝正史(よこみぞせいし、1902~1981)は、推理作家だ。神戸市の生まれ。薬種業を営む父親の故郷は、浅口郡船穂町柳井原(現在の倉敷市船穂町柳井原)であり、岡山とつながる。
 中学生時代から推理小説、中でも探偵物に興味を抱き、読みふける。創作も試みていたのかもしれない。
 1921年(大正10年)には、雑誌「新青年」の懸賞に、「恐ろしき四月馬鹿(エイプリル・フール)」にて応募し、めでたく入選する。
 その後、大阪薬学専門学校(現在の大阪大学薬学部)に進学する、まずは食べていかねばならないと考えたのではないだろうか。卒業後は、実家の薬種業に従事する傍ら、探偵小説の執筆に精を出す。
 そのうちに江戸川乱歩に才能を見出され、その勧めで1926年(昭和元年)に上京して、出版社「博文館」に入社する。会社では、「新青年」の編集を担当したという。おりしも暗い時代の足音が繁く、1933年(昭和8年)から1939年(昭和14年)まで、長野県にて療養して暮らす。そのことで、戦争に召集されないでいた。
 それでもひるまず、戦時中は当局からの探偵小説に対する圧迫で捕物帳を発表する。1945年(昭和20年)には、東京から総社へ、さらに岡田村桜(現在の倉敷市真備町)へ疎開する。終戦直後から「トリックの鬼」と化す。1948年(昭和23年)に東京へ戻るまでの間、金田一耕助初登場の「本陣殺人事件」を始め、以降、次々と新作をものにしていく。

 それらの作品中での名台詞としては、沢山ありすぎて選ぶのに困るのだが、しいていうなら「犬神家の一族」の中での「思えば、たとえ善意に発したことでも、いったん処置をあやまるならば、どのような大惨事を惹起させぬでもないという、これがひとつのよい教訓になるであろう」あたりだろうか。

(続く)

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◻️559『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、水野晴郎)

2021-10-01 06:36:08 | Weblog

559『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、水野晴郎)

 水野晴郎(みずの はるお、1931~-2008)は、映画評論家、映画監督、タレント、それに倉敷芸術科学大学教授、大阪芸術大学客員教授と、かなり多くの肩書きをもつ。高梁市の生まれ。本名は水野和夫(みずのかずお)という。

 大学卒業後は郵便局に就職するのだが、映画の魅力に魅かれていたのご増進したのであろうか、上京して、あの淀川長治さんの「映画の友」友の会に参加したりで、映画の世界を目指す。

 仕事については、アルバイトを経て、20世紀フォックス映画の映画宣伝部を振り出しに、やがて日本ユナイテッドに引き抜かれて宣伝総支配人に。その間に、数々の洋画の邦題を考案したというから、よほど実力が養われていったのだろう。

 1972年(昭和47年)には、ユナイテッドを退社して独立する。そのうちに、「水曜ロードショー」(後には「金曜ロードショー」)の解説者としてテレビに登場。加えるに、映画雑誌に映画評を執筆するとともに、テレビの映画解説から映画雑誌にいたるまで、映画愛好者の馴染みとなる。
 容貌としては、暖かみのある、ふっくらした顔にして、ちょび髭、それでいて、さわやかな口調、その独特のキャラクターが受けてタレントや俳優としても活躍、映画「シベリア超特急」シリーズの監督もする。
 しかして、語り口での締め台詞の「いやぁ、映画って本当にいいもんですねぇ~」とかなんとか云々は有名で、大いに親しまれる。

 そんなテレビで映画を放送する際の解説コーナーは、いつの頃からか、なくてはならぬ脇役から退き、簡単なナレーターのみとなっていき、さらに今では主画面から消えてリモコン操作でやっとあらすじを読む程度となりはてている。なんだか、寂しいと感じる人も多いのではないだろうか。

(続く)

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