□548『岡山の歴史と岡山人』岡山人(20世紀、布上喜代免)

2021-10-02 21:03:27 | Weblog

548『岡山の歴史と岡山人』岡山人(20世紀、布上喜代免)

 

 今の中国縦貫道の津山インターのあるところといったら、おわかりだろうか。河辺(かわなべ、津山市)は、戦前までは文字通り「河の辺り」の湿地帯であって、作物の栽培には大して向いていなかったようだ。ちなみに、江戸時代には、藩の命令により、いわゆる「山上がり」を促す対象になった地域を含む。
 ここに女医、布上喜代免(ぬのうえきよめ、1895~1981)は、1924年(大正13年)に、故郷に帰って布上診療所を開業した。

 それまでの彼女の足跡を辿ると、1917年(大正6年)に当時の女性としては珍しい医師免状を得てからは、大阪府庁の保健課主事として忙しく働いていた。それが、故郷が貧しく、無医村であったことに触発されたのだという。それからの彼女は戦前、戦中、戦後を通じて地域医療に力を尽くした。

 その地域にとどまって命をつないでいくしかない、当時の多くの貧しい人達を医療面からどう支え、助けていくか、それを本当に担うのは自分であるとの自覚から数十年を働き、1981年(昭和56年)、その仕事をやり終えて86歳で永眠したという(岡山女性史研究会「岡山の女性と暮らしー戦後の歩み」山陽新聞社刊、1993に詳細あり)。

 ちなみに、1959年(昭和34年)時点の厚生省調査による日本人の平均寿命は、男が65歳、女が69.6歳とされている。

 

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□506「岡山の今昔」」岡山人(20世紀、池田遙邨)

2021-10-02 20:39:34 | Weblog

506「岡山の今昔」」岡山人(20世紀、池田遙邨)

 2017年の新聞が、画家、池田遙邨(いけだようそん、1895~1988)の代表作をこう伝える。
 「関東大震災描く「災禍の跡」 岡山・倉敷市立美術館が所蔵、池田遙邨、転機の異色作/中国

「池田遙邨名作選」を担当する前野嘉之学芸員=岡山県倉敷市中央2の市立美術館で、小林一彦撮影」

 これによると、岡山県出身の日本画家・池田遙邨は、ひょうひょうとしたユーモア漂う画風で知られる。しかし、それが遙邨の創作のすべてではない。例えば、同県倉敷市中央2の市立美術館に所蔵されている「災禍の跡」(1924年)がある。こちらの作品は、1923年9月に起きた関東大震災をテーマにした屏風(びょうぶ)作品である(毎日新聞、2017年3月7日付けで紹介された)

 ここにいわれる遙邨は、この大震災の発生時には京都にいたという。連日のように画業に励んでいたという。その地震発生直後、何を思ったのか、被災地に行く。そんな中、目の当たりにした光景を後に描いたものであり、次のように説明されている。
 「地平線が画面下方に設定されているため、被災地が果てしなく続いている状況が想像できます。こうした光景は、中央にいる子どもの目の前にも広がっていたはずです。遙邨は、400枚にのぼる被災地のスケッチをしていますが、この作品は写生から始まってイメージの中で再構成することにより、現実をそのまま写す以上に、震災の恐ろしさ、悲惨さを訴えています。」(同、毎日新聞)
 この批評にもあるように、画家たるもの、眼と脳に刻んだ像のエッセンスを表現しようと格闘したものと見える。

 そんな彼は、岡山市門田屋敷(両親の当時の居住地)生まれと推察される(本籍地は浅口郡乙島村=倉敷市玉島)。幼少期から絵を描くことが好きで、1910年(明治43年)に大阪に出て、洋画家・松原三五郎の天彩画塾に入る。

 1913年(大正2年)には、福山で水彩画による、初の個展を開く。翌年の第8回文部省美術展覧会に「みなとの曇り日」を出品する。1919年(大正8年)になると、竹内栖鳳の画塾「竹杖会」に入る。そして、第一回帝国美術院展覧会(帝展)において、「南郷の八月」で入選を果たす。昭和に入ると「昭和東海道五十三次」のように清新な画風に変わる。
 戦後になると、さらに画風をリニューアルしていく。伝統や慣習にとらわれないのを理想にしたものと考えられる。


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