◻️141『岡山の今昔』出雲街道(米子~津山)

2021-10-11 09:02:48 | Weblog
141『岡山の今昔』出雲街道(米子~津山)
 
 出雲街道というのは、陸路にて、松江城下~出雲郷宿~安来宿~米子城下~車尾宿~溝口宿~二部宿~根雨宿~坂井原宿~新庄宿~美甘宿-勝山城下~久世宿~坪井宿~津山城下とやって来る。そこからは、勝間田宿~土井宿~佐用宿~三日月宿~千本宿~觜崎宿~飾西宿と来て、姫路城下に入るルートだ。
 その由来としては、江戸時代に入ると五街道に順ずる街道として、1604年(慶長9年)に幕府の命により津山藩など周辺諸藩としての松江藩、広瀬藩、勝山藩、津山藩の藩主が街道を整備していく。
 中でも、これらの諸藩が参勤交代のおり、藩主の宿所となった宿場町は飛躍的に発展していく。そればかりか、江戸時代中期以降、庶民の行楽嗜好が高まり、出雲大社(島根県出雲市)や伊勢神宮(三重県伊勢市)などへの参拝者が利用したり、道の周辺などに散らばる米、鉄や木材、炭などを運ぶ便利な街道として、往来が盛んであったことはいまも語り継がれる。


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○これらのうち、新庄から美甘(みかも)、勝山への道のりについては、郷土史家を当たってみると、往時(おうじ)を彷彿とさせる解説もあったりで、興味をそそられる、幾つか紹介してみよう。

 「本陣(茶屋)を中心にしながら江戸期を通して、松江松平藩に結びついていた新庄も、明治の変革、廃藩置県で、明治4年11月23日、松江県から新庄駅・佐藤六左衛門へ本陣廃止の通達があり、江戸期200年を超える宿場本陣に、次のように終止符を打っている。
 「今般、茶屋を廃止した。茶屋守を免じ、茶屋建物などをつかわす」
 続いて明治5年1月には「旧藩以来、飛脚の世話をしていたので、毎年2両を出していたが、今後廃止する。元松江県」と通知している。」(小谷善守「出雲街道」第1巻、「松江~米子~新庄~美甘」出雲街道出版会による編集、2000)

○「美甘の町から東は、新庄川沿いの狭い峡谷になり、出雲街道も山の中腹をたどり、真庭郡内の中心、勝山町(旧真島郡高田村)まで大きい盆地はない。集落も山腹に点在している。美甘、勝山(高田)、間を元禄4年(1691)は、「2里33町(約11.6キロ)」と記しているが、街道の中でも山中路として知られている。おそらく、この山の中をたどる街道の出入り口の役割を果たしたのではあるまいか。また、岡山・鳥取(美作・伯耆(ほうき))の境から勝山(高田村)までの間で、最も広い盆地であり、物資の集散にも適していたと思われる。
 新庄宿場が国境の固めとしての役割を持ち、美甘が物資流通の宿場という性格も持っていたのではないか。新庄川南岸から町(集落)が移ったのも、北岸のほうが、鉄山(かなやま)、黒田、田口、延風、美甘の村々(現在の美甘村内)、新庄村内の物資が集まりやすい条件を持っているように思える。南岸は、備中に続いていく山間部が迫っているが、北岸は、谷々に点在している集落の受け皿のような地形を持っている。」(小谷、前掲書)

○「県境の山を貫いている国道181号線・四十曲トンネルの右側(県境に向かって)に旧国道の峠道は出てくる。新庄の町へ向かって谷が真っすぐに東へ伸びている。ゆるやかな谷。急坂の鳥取側とは一変する。谷に沿いながら現在の国道は山腹を切り、陸橋も架かっているが、旧国道は、谷を一直線にぬい、陸橋の真下に明治以後、1965年(昭和40年)初めまで往来でにぎわった跡をしのぼせている。(中略)
 むかしから多くの人は、歩いて峠越えをしていたというが、古老の記憶などから人力車が峠を通るようになったのは、1887~1896年(明治20年代)からで、ふもとの坂井原と新庄に人力車のたまり場があり、根雨、勝山方面からくる人力車の中継所になっていたという。峠越えをする人力車の鼻引きは、地元の人たちの現金収入になっていたようだが、1928年(昭和3年)の伯備線、続く1930年(昭和5年)の姫新線津山ー新見開通のころには、姿を消したといわれる。」(小谷、前掲書)
 
 
○「森藩末期だが、元禄期の鉄生産には、真庭郡勝山町、伯州(ほうしゅう、鳥取県西部)、備中(岡山県西部)や伯州又野村(鳥取県日野郡江府町)の鉄山経営者、砂鉄の購入など、かなり広い交流をみることができる。山に囲まれた国境の村だが、人々の出入りもあり、情報も多かったのではないか。その源が山を仕事場にしていた木地師であり、タタラ(鉄山)で働く人たちだったと思える。」(小谷、前掲書)


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 一方、この米子と津山の間については、古来大山道も知られていて、例えば、こんな風に紹介されている。

 「深い中国山脈に囲まれて、かつては「美作の久米(くめ)の皿山さらさら」と遠い縄文・弥生の静けさを秘めた美作の国津山。その山峡を縫って、ほそぼそと伯耆(ほうき)の国大山につづく古い一本の道「大山街道」。」(山本茂実「塩の道・米の道」角川文庫、1978)

 道筋としては、米子を出て南東へ真っ直ぐ大山寺へ向かう、そこからは西に戻して伯備線の根雨付近までは線路に寄り添うように南下、それからは再び南東へ進路をとり、四十曲峠を越え、中国勝山、久世、院庄を経て津山へというもの。
 江戸時代から明治時代の半ばにかけては、西国諸国からの参詣者や牛馬の往来で賑わった大山道沿いには、今も往時を偲ぶ石畳道や宿場の町並みが見てとれよう。21世紀に入った今でも、「大山おこわ」など独特の食文化、大山の水にまつわる「もひとり神事」などの大山信仰から「大山おこわ」に代表される食文化まで、幅広く伝わる。
 そんな大山道を、願いを込めながらたどる人々が目にしていたのが、次に紹介されるような風景であったようである。

 「山ツツジの咲き乱れる大山街道は黒い和牛をひいた旅人でにぎわっていた。
 白の手こう脚絆に大山笠をつけ、大きな紐のふろしき包みを背負って、そうでない者は黒い和牛を曳いていた。この人たちの中には美作ばかりでなく、遠く備前、備中、備後、安芸(あき)あたりからのひとも多かった。
 牛に積んだ荷物の中は、ことしの種もみから大小豆、菜種、かぼちゃの種まではいっていた。また別のうしには市に出すたけざいくや木工品、子供のおもちゃから、ミツマタ、織物、飴(あめ)まで積んでいた。
 いずれも帰りには大山の牛市で、黒い和牛と交換してこようという人たちである。(中略)

 大山馬喰座(だいせんばくろうざ)の取引き記録を見ると、これは明治中ごろのものであるが、牛の数は年間1万頭、価格にして6万~8万5千円と記録されている。その大部分が大山山麓の笹(ささ)と隠岐(おき)の島で育った牛だったという。(中略)
 いまは国道180号線、181号線と名前は変わったが、「古い神々の歩いた道ー大山街道」はまだまだ生きているようである。」(山本茂実「塩の道・米の道」角川文庫、1978)



(続く)
 

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