61○○『自然と人間の歴史・日本篇』聖徳太子とその政策をめぐって(諸説の紹介など)

2021-10-05 19:21:26 | Weblog
61○○『自然と人間の歴史・日本篇』聖徳太子とその政策をめぐって(諸説の紹介など)

 聖徳太子(諡(おくりな)、以下「太子」と言おう)はといえば、人々の脳裡に何が浮かんでくるのだろう。数十年前までは、大方の子供たちは、教科書で「お決まり」のストーリーを学んでいたのではないだろうか。それが20世紀後半からはかなり変わってきているようである。

 一番は、その頃はまだ日本という国家名称ではなくて、倭国と呼ばれていて、一つの独立した政治ということではなかったようだ。二番目は、冠位十二階の制度や憲法十七条を制定したり、仏教寺院の建設などを含め文化面でも斬新な政治を打ち出したという、その経緯を含めて、太子という人物像がはっきりしなくなっている。そうした中には、実在性を否定する有力学説さえもが提出されており、歴史の専門家(考古学者を含めて)の誰もが納得できるには、かなり隔たりができているようである。

 そこでまず、太子の生涯を簡単に振り返ってみよう。史料として、720年(養老4年)に成立した「日本書紀」などによると、一説には、聖徳太子(諡(おくりな)、以下「太子」と言おう)は、大兄皇子(おおえのみこ)こと橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)を父、その橘豊日尊の異母妹にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を母として生まれる。橘豊日尊は、のちの用明大王(ようめいだいおう、在位は585~587)である。

 また、太子の外戚ということでは、父の大兄皇子と母・穴穂部間人皇女とは、ともに大豪族にして、倭の朝廷における実力者たる蘇我稲目(そがのいなめ)の孫なのであると。

 これに関連して、太子の生年を記したものとしては、平安時代半ばになって書かれた太子伝・「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)」があり、それによると敏達大王(びだつだいおう)の治世3年というから、574年とされる。また、太子の没年は622年とのことであり、妃(きさき)の膳部大郎女と相前後して亡くなったとしている。

 もっというと、少し繰り返しになるが、太子の父・橘豊日尊は、欽明大王(きんめいだいおう)の子にして、稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)を母としている。太子の母・穴穂部間人皇女も、欽明天皇(きんめいだいおう、継体大王から数えて4代目、なお継体のあとは2代目・安閑)を父とし、堅塩媛の妹・小姉君(おあねのきみ)にして稲目の娘を母としている。
 
 とはいえ、太子は、かの継体大王以来の第一順位の直系とは認められない、というのが、当時からの大方の見方であったのだろう。すなわち、敏達大王と王女広姫(ひろひめ)との間には押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえおうじ)がいて、こちらの方がより大王家の直系だというのは、はっきりしていよう。そうであれば、幾ら太子が女帝の推古大王(用明大王の妃にして、そのことゆえに同王の次の王を引き継ぐことができた女性)の下で善政を行い、ゆくゆくは彼女の権威を引き継ごうとしても、やや無理があったのだと目されているようである(例えば、山本博文「歴史をつかむ技法」新潮社新書類、2013)。
 
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 次には、太子を巡りどのような政治・社会の動きがあったかを、簡単に振り返っておこう。
 587年には、用明大王が死去し、これに乗じて蘇我馬子らが物部氏を滅ぼす。この事件には、後の推古大王や太子も仲間に入っていて、太子は戦いに従軍したという。
 かくて、用明大王の跡は、より蘇我氏の息がかかっていたであろう。蘇我稲目(そがのいなめ)孫にして、欽明大王と稲目の娘・小姉君の間にできた崇峻が新大王となる。
 592年には、蘇我馬子らが崇峻大王を暗殺し、新たに豊満宮にて即位した推古大王の治世となり、翌593年には、太子が皇太子となる。この年、四天王寺の建立を開始する。595年には、高句麗の僧侶・慧慈(けいじ)が来日すると、太子は彼を師として学ぶ。
 600年には、国として、遣隋使を派遣する。603年には、推古大王が、小墾田宮へ遷都を行う。この年冠位十二階を、翌604年には十七条憲法を制定する。その翌年の605年には、宮を斑鳩(いかるが)にうつす。606年、太子は推古大王に勝鬘経と法華経を講説したという。607年には、斑鳩寺(法隆寺)を建立し、遣隋使に小野妹子(おののいもこ)らを派遣する。
 しかしながら、それらの政策は時の実力者たる馬子共々成したものであろうし、またそれらを記した「日本書記」などには粉飾などが相当あるようである。
 そうしたことなどから、今日の歴代学では、どこまでを太子が中心になって行ったものか、史実なのか、研究者の見方は割れている。中でも、太子が単独で行ったかに映る数々の事業の大方は、蘇我氏など有力・開明豪族との合作であったとされるに至っている。

 そんなカリスマ性を持っていたかに言われる太子が、皇太子のまま亡くなった後は、「王朝の夢破れて」といおうか、かかる王統の権威は下り坂に向かい、643年には、太子の息子の山背大兄王皇子を蘇我馬子が攻め殺し、一族は滅亡してしまう


 そして現在、太子の墓と目されてきるのが叡福寺北古墳(宮内庁による治定、えいふくじきたこふん、現在の大阪府南河内郡太子町にあり、磯長谷古墳群を構成する古墳の一つ)という直径約50メートルの円墳で、本人とその母、妃が葬られたとされる。あえていうなら、その墓を現代科学の知見をもって発掘・調査を行うという気概は歴代政府にはなかったようである。

 それからもう一つ、いわゆる「太子信仰」の大いなる源となっているのが、法隆寺などに伝わる「至宝」ではないだろうか。それらの中には、607年が創建と伝わる法隆寺を始めとする諸寺院の伽藍に漂う静かさ、開かれた文化性(開放感)もさることながら、救世観音・百済観音像、薬師如来像、阿弥陀如来(あみだにょらい)及び両脇侍像(りょうきょうじぞう)、四天王立像広目天/多聞天、南無仏舎利(なむぶっしやり)、天寿国繍張(てんじゅこくしゅうちょう)なども擁している。
 珍しいところでは、その太子自身を讃えるべく作られたであろう、聖徳太子立像(二歳像)に始まり、聖徳太子座像、聖徳太子二王子像(摸本、東京国立美術館蔵)などが続く。こちらは、以降のこの国の歴代の礎となる事業を推し進めたことを強く印象づけようとして作られたものなのかもしれない。
 と、およそこのような外観、内実の両面から太子を引き立てることで、その後の倭国が日本へと成り代わり、東アジアにおけるその独立性、主体性を打ち出そうとの原動力にもなっていったのではないだろうか。


(続く)

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