ポンポンダリアの独り言

毎日、何気なく生活する中で感じた事を気の向くまま、思うがままに投稿して見ようと思いました。

師走の本土寺

2016年12月14日 | Weblog

平成28年12月8日(木)

あちこちのTVで紅葉の見どころを紹介される時期に、チャンスを逃しながら師走を迎えてしまいました。やっと気になっていた松戸にある「本土寺」に足を走らせました。

            

何時もの様に駐車場の満車をを気にして本土寺開門8時に間に合うように出かけました。
7時50分に到着しましたが("^ω^)・・・辺りは閑散としていて…車は一台もナシ!
時はすでに遅し 殆どの紅葉は散り去り、お慰みの様にかろうじて残っている状態でした。

         

人っ子一人も居なくて・・・″寂しぃ~~~~~~!!”こんなの初めてです。
広い境内を黙々と歩き、入園料¥500を何故出したのか・・・思いとどまればよかった。と思う様です。
美しいもみじを愛でに来ている観客が多かった過去の記憶をたどりながらも、もみじがまだ残っていないかを探り歩きました。時々鳥の声が静寂を破り鳴いていました。

          秋深し…鳥は何を思うとぞ鳴きにけり ・・・・・・??

     

               

朝日新聞「ことばの広場」に″年の瀬” の 瀬 とは!?の見出しでありました。歳の瀬、年の瀬 と師走になると私もそうだし又人々も使っていますが深く考えたことがありませんでした。
年の瀬が迫って来ました。年の瀬は、「年の暮れ、年末、歳末」を示す言葉ですが、何故
「瀬」を使うのでしょうか。

         

「瀬」は川の流れに由来します。国土交通省の河川用語集には 「流れが速く浅い場所を瀬、流れが穏やかで深い所を淵(淵)と呼びます。 とあります。

水は流れる場所の断面積が狭ければ速くなり、広く深い場所では穏やかになります。
浅瀬なら人は立って川を渡れる事があります。

               「身を捨てこそ浮かぶ瀬もあれ」

なら、急流にのまれ、助からないと思い定めた末、窮地を脱するような場所に至る事を言います。

「瀬戸」は陸地や山に挟まれた海峡や谷を指します。古くは「狭門」(せと)と書いたようです。「瀬戸際」は海峡と外海の境。 流れが速く、かじ取りを誤れば命にかかわる分岐点です。

          

「逢瀬」は川の流れの出会いを指すことから、男女が人目をしのんで逢う機会。公然と会えないからこそ時間の過ぎるのが早く感じられたことでしょう。

崇徳院(1119~64)の 「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」
も流れのはやい川に例えて未来の逢瀬をうたっています。

この様に「瀬」は時の流れの速さも連想させました。「年の瀬」は一年最後の一番忙しい時期を呼ぶようになります。

              

江戸時代、つけ払いが多かった庶民にとって、大みそかは盆と並ぶ借金精算の最大の攻防の日。
井原西鶴(1642~93)の「日本永代蔵」には「借金の淵をわたり付けて、幾たびか年の瀬越をしたるひとのいへり」と、危ない思いをして年末を過ごした人が語る場面があります。
年末の精算期が「年の瀬」の時期だったようですが、「迫る」などの言葉がつくことで使える期間が広くなったようです。

問題山積の年も暮れます。将来への「つけ」 回しは、個人も国も踏み外せば淵に落ちうる危うい瀬だと知るべきでしょう

う~~んなるほど