たとえ話をしてみる。
大きな自然災害に見舞われた町に残されている人々のところへ、ヘリコプターから救援物資が投下されたとする。物資の総量は十分とは言えないが、深刻な飢えや渇きが迫っているわけではないとする。
このような状況における人の行動について、次の2派が現れるだろう。人を押しのけてでも、他者より早くより沢山の物資を集めることに躊躇無く邁進するタイプと、より困っている人に先を譲ってやろうという気持ちが自然に働いて、あまり沢山拾い集められないタイプだ。
この両派が適当に混在しているから、放っておけば、両タイプが中和して、中間的になる、、などということは絶対にあり得ない。遠慮派と強欲派が対決すると、強欲派が常に持ち去ってしまうので、物資の分配は偏る方向に向かうばかりだ。
そのうち遠慮派はおかしいことに気づく。困っているから強く欲しがるのだろうと思って譲った相手が、実は余分を沢山貯めていて、今やそれを商売に利用している。「余分は皆に分け与えたらどうか.」と声をかけてみる。
しかし、この時点で、強欲派は次のように叫ぶのである。
「結果の平等は社会主義的悪平等だから認められない.」
「努力した者が報われるのが当然だ.」
「機会の平等は誰にも与えられていたはずだ.」
「必要な物資の確保は自己責任の問題だ.」
「今になって成功者を引きずりおろすようなことをするのか.」
そして、ついには、遠慮派を、努力の足りない怠け者、あるいは、何を考えているか分からない役立たずのように本気で(自己洗脳的に)思い始める、、その人たちの善意をずるがしこく踏み台のように利用しながら成り上がってきたことを忘れて、、、。
このような不条理極まりない行動と発想のプロセスが、私の言う『欲深い者の自己中心主義』である。このようなばかばかしい不条理がまかり通ることのないように、多様な価値観を認める努力、およびそれを可能にする社会の仕組みづくりを、強い決意をもって為すことが絶対に必要であるということなのだ。
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〔付記〕
バブルの時期に、安定し保証された高給をもらいながら、非常識な財テクに走ったり、無謀な貸付を行ったり、途方もない無駄な建造物等を残したりした責任者たちがいる。一方、そのとき、「こんなことは何処かがおかしい」と直感して慎ましやかにしていた人たちもいる。バブルがはじけ、その後遺症から復興する過程で、前者の側の欲を出したグループが痛みを負担する中心となるのが当然の理というものだ。しかし、欲望と野心が染み付いた者は、利益や有利な立場を失うことを極端に恐れる。何としても責任を他者に転嫁しようとやっきになり、政治の利用も企てる。その結果、欲深い者のしでかした浪費や失敗を、慎ましやかな者の苦痛によって賄うという図式が具現化されてしまった、、小泉-竹中の構造改革路線と、この先さらに本格化することが懸念される 資産持ち・大企業優遇型の増税路線の、絶妙なるコンビネーションによって。
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