はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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昨今では、「努力した者に報いる」とか「悪平等をなくす」とかいう、ともすればもっともらしくも聞こえる標語の下、各人の仕事に対する処遇の格差(大抵の人にとっては低下)を、有無をも言わせず納得させるマネジメントの手口が横行している(国立大学法人においても例外ではない)。

ここで、お人善しになって自分の努力の不十分を反省したりする前に、視点を(森を見下ろせるような)高いところに移して、そのような手法を採っている役員陣の管理職としての力量・才覚が如何なる程度なのかを考えてみるとよい。

ある人の仕事を評価する、ましてそれを客観的に表現するとなれば、いやがおうでも、何らかの単純な基準に基づいて一次元化した序列づけを行うことになる。それが常に悪いことだとは言わないが、仕事の目的・内容がよほど単純な場合以外には、このようなやり方はナンセンスというか馴染まないものであることは明白だ。そして、こうした評価法に応じて仕事の報酬を決めるという方法は、電話勧誘セールスとか、保険の外交員とか、タクシーの運転手などについては、以前から当たり前のように行われている。何のことはない、いわゆる「歩合制」の方法なのだ。

「能力主義」などという文句を掲げる管理職は、結局、「歩合制によって売り上げを伸ばせ」というのと同程度の理念・アイディアしか出していないのである。もし、彼の管轄する仕事の内容や目的が(電話勧誘セールスの職務などよりも)複雑な側面をもっていたとするならば、彼はその職務の本質を理解していないとさえ言える。こんなことで済むのなら、誰だって管理職が務まることになる。高給を受け取るなどもってのほかだ。

たとえある一定の業務であっても、多くの場合、仕事の内容には種々様々な側面がある。その目標にしても、目先の小事から長期的な展望に至るまでの幅広い視点が関わってくる(売り逃げをもくろむような悪徳業では話が別だろうが)。さらにまた、そこに勤める人の個々人には、得意不得意、気質、人柄などに様々な違い・個性があるだろう。このとき、管理職に求められる能力というのは、多彩な個性・才能をもつ(限られた)人の集団を率いて、その人々の才能を最大限に発揮させる環境をつくり出し、長期的視野まで含めて総合的によい結果を導き出すことのできる力量・度量であるはずだ。給料袋の中身が減ることの不安や失望感を与えることではなく、労働に従事する人に感動をもたらすような方針を提示し、長いタイムスケールの仕事への情熱を湧き出させることが、本当の管理職が為すべき仕事なのだ。


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