Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

Sirius: LUCIA DI LAMMERMOOR (Sat Mtn, Mar 8, 2008)

2008-03-08 | メト on Sirius
今日のラジオ放送に備えて英気を蓄えるべくの水曜のキャンセルかと思いきや、
何と今日の公演もキャンセルにしてしまいました、ジェイムス・レヴァイン。
昨年のメト・オケ・コンサートをデッセイがキャンセルしたことへのリベンジ、、?
まさか、、、ね。もう一年も経つんだし、そんなの覚えてたとしたら、執念深すぎて、怖いです。ぶるぶる。

ま、そんなわけで、今日もイカ系指揮者コラネリが振ります。
水曜のだらだらの再現だけは、お願いだからやめてください、と思っていたら、
うん、今日は悪くないですね。
水曜よりもずっときびきびしてる。
テンポも非常に適切です。このテンポです、ベル・カントにぴったりなのは。

もう何度も書きすぎて、こちらもうんざり、という感じですが、しょっぱなの歌詞を歌う、
ノルマンノ役のマイヤーズ。一体この人はどういう経緯で、うまくメトの舞台にのるなどという
幸運を手に入れたのでしょう?
今シーズン、これだけたくさん生とラジオで『ルチア』の公演を見て聴いて、
一度たりとも正しいタイミングで最初の音が入ってきたことがなければ、
オペラハウスでは、ほとんど何を歌っているのかわからないほど声量はないし、
あんな歌でいいなら、私が男装して舞台に立ちたいくらいです。

今日のクウィーチェンは気合が入っていて、なかなか良い。
今日の放送の目玉の一つは、デッセイ、フィリアノーティ、クウィーチェンという
メインキャスト3人それぞれへの幕間の生インタビューですが、
その中で、今日のクウィーチェンはかなりはじけていて、笑わせていただきました。

いきなり、”エンリーコ役って最悪”の爆弾発言から始まり、
驚くインタビュアーのアイラ・シフ
(Opera Newsなどにも執筆が多い音楽評論家。土曜のマチネのラジオ放送では、MCのマーガレット嬢
の相手役をつとめている)に、
”だって、他のオペラの悪役と言われている役にはそれぞれ、
ちょっとは好きになれる部分があったりとか、魅力的な部分があったりするものだけど、
エンリーコには何もないからね。超嫌なやつ、っていうそれだけ。
大体、妹への愛情に欠けるのはもちろん、
どんな女性にも愛情らしきものを抱けないかわいそうな人間なんじゃないかな”と大暴走。
確かに、エンリーコには妻もいなければ、恋人すらいる様子もないから、
あながちその解釈は間違っていないです。
しかし、あまりにもエンリーコのことをめちゃくちゃに言うので、
”そんなに嫌いな役を歌うのは大変でしょうなあ”と同情をおぼえます。
あまりにものクウィーチェンのハイ・ボルテージぶりに、少しシフ氏が切り口を変えようと、
”ところで、この公演では、通常カットされることも多い、第三幕の嵐の場が残されているので、
エンリーコの見せ場がありますね。これに関しては?”と聴くと、
”よかったよ。だって、それがなかったら、ニ幕以降、エンリーコはほとんどいないも同じだからね。”
と、これまた大暴れ。面白い人です。
こんなにこの役に腹がたっているから、あんなにいつも芝居がべらんめえ調なのか?
しかし、そういわれてみれば、このエンリーコ役、バリトン版ピンカートンとでもいえる、
歌手にとっては、あまり演じていて楽しくない役の一つなのかもしれません。


さて、デッセイの喋り声、初めて聞きましたが、わりと落ち着いた声ですね。
少し、パトリシア・ラセットの話し声とも共通する、ややハスキー目でだけれどそうピッチの
高くない声で、
この声でどうしてあんな高い音が出るのか、本当に不思議です。
当時の時代背景もあって、エドガルドを含む周りの全ての男性の意見に振り回され、
犠牲になった結果がルチアの狂気である、という風に彼女はこの役を見ているようです。
彼女が歌っている役の中では、決して最も難しい役ではない、ときっぱり言っていたのは頼もしい限り。
作品がそれほど長大でないということと、音楽的には彼女にとっては非常に歌いやすい、ということが理由だそうです。

その頼もしい言葉どおり、今日のデッセイはなかなか好調です。
一幕のアリアも欠点らしい欠点がなく、素晴らしい出来でした。
水曜日には少し指揮とかみ合ってなく思われた部分も、
今日は歌と指揮両方が歩み寄っていて、ぎこちなさを感じる箇所はほとんどありません。
コラネリ、リハーサルなしのたった数回の指揮でここまで持ってきたのだから、
これは大健闘です。

フィリアノーティに関しても、一幕を聴く限り、水曜日より、数段出来が良いように感じます。
ただ、やはり、声が端正なのに、かすかにはいるまるでソープ・オペラのような安っぽい演技、
これが私には大変気になります。この一幕で感じられる程度が私の限界。
もし、これ以上ソープ・オペラが展開するようなことがあったら間違いなく私は発狂する。
その微妙な線を今、彼は走っています。これは、この後の幕、しっかりと聴きたいと思います。


二幕での、今日のクウィーチェンは、怒ってるのが吉と出ているのか、絶好調。
ルチアとのシーン、大変聴きごたえがありました。
というか、この人はいかり肩でせかせか歩く舞台での姿を見ながら聴くよりも、
こうやって声だけラジオで聴いている方が、印象がよいような気がします。

ライモンドを演じるレリエーは、いつもどおり頼りになります。
レリエーからまずい歌が出てくるのを聴いたことが本当に一度もないので、
オペラハウスでも、彼が出てくるシーンはいつもリラックス・モードで聴いてしまうのですが、
これは考えてみれば、すごいことです。

さて、OONYのガラをキャンセルしてこの公演に賭けたアルトゥーロ役のコステロ。
今までに聴いた彼の歌声の中で、最高のものとは言いがたいですが、
手堅く歌って、きちんと重責は果たしていたと思います。
少し高音の維持の仕方がいつもより不安定に感じられたのと、リズムをとりにくそうにしていて、
言葉のおさまりが悪く感じられた箇所があったのは残念。
シーズン頭の公演では、六重唱ですら彼の声をはっきりと聞き分けられるほど、
声の輝きが素晴らしかったのですが、今日はその声そのものも彼らしい精彩に欠いていて、
まだ本調子とはいえないように思います。

そして、フィリアノーティは、、、やっちまいましたよ。
ソープ・オペラ、全開。。。。
あれほど、やっちゃいかん!と警告したのに、、。
特に六重唱で思い入れたっぷりのsleazyかつcheezy(いずれも”安っぽい”の意)な
フィリアノーティの歌が入ってきてげんなり。

デッセイは演技でのはちゃめちゃぶりから、クレイジーな人のような印象がありますが、
実は歌に関しては非常にきちんと抑える部分を抑えていて、
これはラジオを聴くとよりはっきりとわかります。
デッセイがきちんとした、決して下品に堕ちない歌を披露しているうえに、
この六重唱を歌う他のキャスト、クウィーチェン、レリエー、コステロ、マルテンスも
全員、こと歌に関してはエレガントな歌いぶりの人たちなので、
余計にフィリアノーティの、芝居がかった歌が浮いて聞こえます。

フィリアノーティは幕間のインタビューで、自分はベル・カントの唱法を大事にしていて、
どんな役をやるにしても多かれ少なかれ、ベル・カント的なアプローチで歌えるはずだ、
ということを言っていましたが、
また、それと同時に、役に対しては、まず第一に、役者として取り組んでいる、とも話していました。
その上で、歌をどうやって組み込んでいくかを考える、とも、、。

うーん、、。もしかすると、それが、この私にはちょっときつすぎる芝居がかった歌の原因ともなっているのかも。
思い入れたっぷりでない箇所に関しては、本当に綺麗な歌で声も美しく、
確かにベル・カント唱法をマスターしている!と思わせられるのですが、
どうもその彼の言う”役者的アプローチ”と歌とが上手く融合していないように私には聴こえます。
というか、これはOONYのガラで、ルネ・フレミングの歌について書いたこと
やや共通してくるのかもしれませんが、
”まず、芝居ありき”というアプローチは、ベル・カントではうまくワークしないのではないでしょうか?

六重唱に続くシーンで、ルチアに詰め寄って、この署名を書いたのは君なのか、答えろ!と詰め寄る
Respondi!という言葉。
ここも、絶叫のようになっていましたが、まるで突然ヴェリズモ・オペラを聴いているかのような、
大きな違和感がありましたし、
怒りを表現するための手段なのでしょうが、テンポを上げて歌うのも、使い方によっては効果的な手段ですが、
オケのテンポを大幅に上回りすぎていて、こういった行き過ぎた表現は、
私がすーっと冷めていってしまうものの一つです。


三幕、嵐の場。

この場面でのクウィーチェンとフィリアノーティの表現はききもの。
フィリアノーティが激昂しまくって歌ったあと、クウィーチェン演じるエンリーコが
歌い始める箇所、
フィリアノーティの頭にのせたやかんを沸かすような高温度ぶりに比べると、
ほとんど冷めていると思われるほどの冷ややかさで歌い始めるクウィーチェン。
しかし、これが非常に効果的なのです。
激昂している人、それともそこを通り越してクールになってしまっている人、
どちらの人からより怒りを感じるか?
そんなことを考えさせられます。私はちなみに後者。

さて、狂乱の場。

デッセイ、本当に素っ晴らしい歌唱でした。
これは、オープニング・ナイトと双璧の出来。
いや、むしろ技術的な完成度の高さから言うと、今日の方が上か。
とにかく、素晴らしい。脱帽です。
メトのルチア役は今や、彼女が所有していると言ってもいいかもしれません。
来シーズン、ダムローとネトレプコがこの役を歌うことになっていますが、
このような凄い歌唱の後では、相当辛い挑戦になることでしょう。

この後の場面、特に、”神に向かって飛び立ったあなたよ Tu che a Dio spiegasti l'ali ”は、
私は、今日アルトゥーロ役を歌ったコステロがエドガルド役を歌った回での、
素晴らしい歌唱が忘れられないので、それと比べるのは厳しい比較ですが、
フィリアノーティの歌唱もなかなかでした。
こうやって、きちんと歌ってくれていると聴かせてくれるのになあ、、。

奇しくも、フィリアノーティもインタビューのなかで、
”エドガルドはこの場面で、喜んで死んでいくんだ”と語っていましたが、
その喜びと退廃の表現に関しては、コステロの歌が声質もあって、上を行っていたように思います。

しかし、全体としては非常に完成度の高い公演で、これがラジオにのったのは嬉しい限り。
デッセイをはじめ、今シーズン素晴らしいルチアを舞台で実現させた全てのキャストに感謝です。

追記:オペラギルドのウェブサイトの中にある、オペラヘッドの巣、スタンディング・ルームでも、
フィリアノーティの歌は、”泣きがきつつぎる””こんな泣きが許せるのは『道化師』のアリアだけ!”
と非難轟々でした。


Natalie Dessay (Lucia)
Giuseppe Filianoti (Edgardo)
Mariusz Kwiecien (Lord Enrico Ashton)
John Relyea (Raimondo)
Stephen Costello (Arturo)
Michaela Martens (Alisa)
Michael Myers (Normanno)
Conductor: Joseph Colaneri replacing James Levine
Production: Mary Zimmerman
ON
***ドニゼッティ ランメルモールのルチア Donizetti Lucia di Lammermoor***

OONY GALA (Thu, Mar 6, 2008) 後編

2008-03-06 | 演奏会・リサイタル
前編から続く>

 ヴェルディ 『イ・ロンバルディ』から
合唱 ”主よ、生まれ故郷の家から O Signore, dal tetto natio” (Coro di Crociati e Pellegrini)"
ここでOONYのオケと合唱。
クエラー女史の歌の才能発掘の才能はおおいに讃えるとしても、
指揮に関しては、、、。
ひどい言い方をすれば、高校の音楽の先生に毛が生えた程度、と言っていいかもしれません。
(高校の音楽の先生、すみません。)
要は、キュー出し程度の指揮、ということで、音楽性とか、ドラマの表現、とか
いったものからはほど遠い。
クエラー女史の、優しそうなルックスの通りの、ぬるい指揮なのでした。

さらにいうと、オケの方の平均年齢が高そうなのも気になりました。
これまでのプログラムの演奏についても、
ソロ・パートなんかは一生懸命練習されたか、そう気にならなかったですが、
むしろ、逆に歌の間に合いの手のように入る、いや、まさにこれから歌わん、とするときにはいる、
気のぬけたぱふーっという金管の音やら、まるでチャルメラのような木管の音には、
気分が萎えました。
割と単純なオーケストレーションとクラシック(交響曲系)ファンに小ばかにされている、
ベル・カントものが中心となっている今日のプログラムさえこれでは、
ヴェルディとかワーグナー、シュトラウスなんかがプログラムにたくさん入ってきたら
どんなことになるのか、、。
まあ、そもそもそういったレパートリーは演奏しない、という選択肢もありますが、、。
こういう失望は、メトのオケがバックをつとめるタッカー・ガラではありえないことで、
このあたりも、タッカー・ガラに差をつけられる原因の一つとなっているかも知れません。
逆に、メトで当たり前のように思っているオケの伴奏がいかにありがたいか、ということでもあります。

 ドニゼッティ 『アンナ・ボレーナ』から狂乱の場
”あなたたちは泣いているの Piangete voi? Al dolce guidami castel natio"
ストヤノヴァ、素晴らしいです。何も言うことなし。
先にも言ったとおり、彼女の歌を聴くと、歌というよりも音楽という感じがします。
自分の歌を誇示するのではなく、あくまでオケと一体になって音楽を作る。
その自己顕示欲の一切ない姿勢が本当に素晴らしい。
ましてや、この手の、テクニックを見せることに重きがおかれている難曲でそれを実践するとは、
やはりこの方は只者じゃありません。
この曲が簡単に聴こえてしまっていた事実がさらにすごすぎます。

 ベッリーニ 『清教徒』から
”君は君の敵を救わなければならない Il rival salvar tu dei.. suoni la tromba"
スティーブン・ガートナーとダニエル・モブスのデュエット。
スティーブン・ガートナーは、今シーズンのメトのルチアの一公演で、
体調を崩したクウィーチェンに変わって、途中の幕から、エンリーコを歌ったバリトン。
他の演目でも脇役でメトに登場しています。
地味ですが、非常に丁寧に歌っていて、声も綺麗。私は大変好感を持ちました。
オケと、歌手のトータルな出来では、意外にも、今日のプログラムの中で、
この曲が一番よかったようにも思います。

 ドニゼッティ 『ルクレツィア・ボルジア』から
”息子が!息子が!誰か!~彼は私の息子でした 
M'odi, ah m'odi, io non t'imploro.. Era desso il figlio mio"
ルネ・フレミングがいよいよ登場。
うーん。私にはなぜ彼女がしつこくこれらのベル・カント・ロールに挑戦し続けるのかわかりません。
彼女のこれらの作品へのアプローチは、間違っているとすら思います。
私が思うに、これらのベル・カントの作品は、その音符の粒を楽しむために作られている曲です。
たとえば、早いパッセージを歌うとき、そこにぎっしりとつまった粒の揃った真珠を楽しむような、、。
たとえば、真珠の首飾りを作るとき、その真珠の粒を出来るだけ揃ったものとするはずで、
(段々中心に向かって大きくする、というようなことはあるでしょうが)、
高価な真珠の首飾りで粒の大きさがでこぼこなものなんて存在しないはずです。
一つ一つの粒自体がいかにグレードの高いものであっても、です。
それが、彼女の歌の場合、この粒の大きさが違う首飾りを思わせるのです。
それは、オテッロやオネーギンを歌ったときには効果的である思い入れたっぷりな歌いぶりに原因がある気がします。
ある音に感情を込めすぎると、その音が微妙に他の音よりも伸びてしまったり、
強調されてしまうのは、当然の成り行き。
だけど、ベル・カントでは、その逆をするべきなんではないでしょうか?
つまり、極力思い入れたっぷりに音を出すことを排除して、純粋な音の美を追求する。
その美を追求した中からドラマを生み出さなければならないところに、
ベル・カント・レパートリーを歌う難しさがあるのであって、
フレミングのベル・カント・レパートリーの歌唱は、アプローチが間違っている、と私が感じるのは、
彼女の場合、ドラマが先にありき、になってしまっている点なのです。

今日のプログラムで、ドラマが先の歌唱を実践しているフレミングとミッロがことごとく玉砕し、
逆にまず音を綺麗に、粒を揃えることに専念したストヤノヴァやグティエレスの歌唱の方がすぐれて聴こえたのも、
当然と思われます。

 ポンキエッリ 『ラ・ジョコンダ』から”空と海 Cielo e Mar!"
あなた、もう家にお帰りなさいよ、と言いたくなるほど不調なのに、またまた登場のジョルダーニ。
あいかわらず声はがらがらですが、最後ということでふっきれたのか、
何度か音程が怪しくなりつつも(もう声のコントロールが効いていない)、
高音をなんとか出して、しめくくりました。ご苦労様でした。
こんなにガラでひやひやさせられるのは二度とごめんです。

続いてミッロが『メフィストフェレ』のアリア、”いつかの夜、暗い海の底に 
L'altra notte in fondo al mare "を歌うはずでしたが、
風邪のジョルダーニよりも一足早くミッロの方が会場を去った模様。
(最後の合唱も歌う予定だったのに姿を見せませんでした。)
何なんでしょう、この人は?まあ、聴けなくても惜しいともなんとも思いませんでしたが。

 ヴェルディ 『椿姫』から ”乾杯の歌 Libiamo ne'liei calici"
全歌手で”乾杯の歌”を歌うという、ちょっとこちらがこっ恥ずかしくなるような、
こてこてのエンディング。
急にいなくなったミッロの変わりに、急遽、スコット(!)が混じって歌います。
アルフレードのパートは、ジョルダーニが全て歌い、
ヴィオレッタが歌う箇所は、全女性歌手が少しづつ持ち回りで歌いましたが、
これが非常に興味深く、こっ恥ずかしい思いをさせられたのも許そうという気にさせられました。
あのヴィオレッタが歌うメロディーを、フレミング、ストヤノヴァ、グティエレス、
ザジック、スコットの5人で分割しているわけですから、一人たった数小節、という感じなのですが、
これほどまでにはっきりと、コロラトゥーラの技術のしっかりしている人と、
そうでない人がわかれるとは、、。
そして、ミッロがご帰宅されてしまった今、技術がもっとも不足しているのがフレミングでした。
(というか、ミッロは、もしやそれを隠蔽するための帰宅?)
グティエレス、この人もあの趣味の悪い装飾歌唱をなんとかできれば、今すぐにでもヴィオレッタを歌えそうだし、
ストヤノヴァに関して言えば、彼女が一フレーズ歌っただけで、
私はあの、スーパー・パフォーマンスが脳裏に蘇ってきました。
この二人はやっぱり技術がしっかりしてます。
そして、楽しかったのはザジック。メゾが決して歌うことのないパートなので、
おどけて楽譜を掲げながら熱唱。
もちろんグティエレスやストヤノヴァのように、軽いソプラノの役を持ち役としている歌手の声ほど
軽くは動きませんが、彼女もテクニックはしっかりしていて、フレミングよりずっと音が転がってました。
しかし、私がもっともあぜんとさせられたのはスコット。
この方が若かりし頃、ベル・カントを得意としていた、というのは聞いたことがあっても、
実際の舞台では体験したことが当然なかったのですが(彼女は1934年生まれ、現在74歳)、
彼女から一フレーズ出てきてびっくり。
もちろん、お歳のせいもあって、声量はないですが、その一音一音のいかに粒が揃っていることか、、。
長年かけて実につけた真のベル・カントの技術は年齢を重ねても消えることはないのだわ、
と感動の思いでした。

ということで、先にあげたミッロの『トロヴァトーレ』の歌唱で、
彼女のコロラトゥーラの技術が冴えないのは決して年齢のせいではない、
との思いをますます強くしたのでした。

アンコールには、再び”乾杯の歌”。
タッカー・ガラの時にも感じましたが、同じ曲を二度やるってのは、ちょっとダサいです。
来年からは二曲目のアンコールの準備をお願いしたい。

* 3/8現在、NYタイムズのレビューに、ミッロとザジックが『ノルマ』からの曲を歌ったような
記述がありますが、正しくありません。NYタイムズの公演レビューは、時に、
きちんと全てを見聴きしないで書いているのではないかと思わせる場合があり、
フィガロ・ジャポンに続いて、けしからん話です。

** 追記:3/9には、上のNYタイムズのレビューに、何の表示もなく修正が入り、
(通常は、最初の稿に修正が入るとその旨の表記がある。)
今度は、ドローラ・ザジックがスティーブン・ガートナーと共に
『トロヴァトーレ』からの二重唱を歌ったことになっていますが、これも誤り。
そもそも、この二重唱は、ソプラノであるレオノーラとバリトンのルーナ伯爵の二重唱なのであって、
メゾのザジックが歌うわけない。
しかもザジックとミッロ、全然違う色のドレスを着てたのに、何で間違うんだろう?
いい加減すぎです。

*** 追々記 その後、やっと正しい表記に修正された模様。(3/10)

Renee Fleming, Soprano
Eglise Gutierrez, Soprano
Aprile Millo, Soprano
Krassimira Stoyanova, Soprano
Dolora Zajick, Mezzo-soprano
Bryan Hymel replacing Stephen Costello, Tenor
Marcello Giordani, Tenor
Stephen Gaertner, Baritone
Daniel Mobbs, Bass-baritone
Host: Renata Scotto, Soprano
The Opera Orchestra and Gala Chorus
Conductor: Eve Queler

Parq B Even
Carnegie Hall Stern Auditorium
***OONY Gala Opera Orchestra of New York オペラ・オーケストラ・オブ・ニュー・ヨーク ガラ***

OONY GALA  (Thu, Mar 6, 2008) 前編

2008-03-06 | 演奏会・リサイタル
イヴ・クエラー率いるオペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク(OONY)は、
コンサート・スタイルのオペラを年に数本公演しているオペラ・カンパニーですが、
年に一回開催されるガラも人気のようです。

私の場合、どちらかというとガラよりもオペラの全幕公演のほうが好きなのと、
ガラの場合、歌ってくれる歌手がよくないと話にならないので、
ガラのチケットの購入に関しては超慎重です。
例年、メトが主催するガラとリチャード・タッカー・ガラくらいにしか行かないのはそのせいでもあります。

しかし、今年のOONYのガラのラインアップを見て私の目は釘付けに。
私が長年お慕い申し上げているドローラ・ザジックに、
去年の『椿姫』のスーパー・パフォーマンスと、今年の『カルメン』のミカエラでも大活躍だった
クラッシミラ・ストヤノヴァ、
そして『ルチア』のアルトゥーロおよびエドガルドでの歌唱を聴き
今シーズン最も注目した新進テノールの一人、スティーブン・コステロ。
いや、もうこの三人だけでも、絶対聞きに行きますですよ。

その上に、ルネ・フレミング、マルチェロ・ジョルダーニ、アプリーレ・ミッロ(!)などが加わり、
そしてホストは、なんとレナータ・スコット!!!という豪華な布陣。

会場のカーネギー・ホールに到着し、開演前にお茶でも、とラウンジに行くと、
隣に立っていたお兄さんが、
”君は、今日、誰を聴きに来たんだい?”というので、
”ストヤノヴァとコステロに、、”と言い始めると、
”どの楽器の人?”と言われ、は?

”どの楽器って、、、歌ですけど、、、”っていうか、
大変失礼だとは思いながら、有名オケじゃあるまいし、歌以外の個別の楽器なんて聴きに来てる人、
ここにいるの?って感じなのですが、よくお話を聞くと、どうやら、合唱で参加している
ソプラノの方のボーイ・フレンドだそうで、ソリストよりもOONYのオケや合唱のメンバーの人に
お知り合いが多いよう。
なるほど、地元のカンパニーだけあって、身内の人も多いんだわ、と納得。
そして、ガール・フレンドのお名前も教えてもらって、”知ってる?”といわれたのですが、
”いえ、知りませんね。”と言うしかありませんでした。
ごめんなさいね、でも本当に聞いたことがないから、、。

さて、チケットを取る際、事務局から”素晴らしい席が残ってる”と言われてあてがわれた座席ですが、
ガラが始まって、嘘つけ!と叫びたくなりました。
確かに、平土間前から二列目ということで、歌手の方の表情なんかは、
距離的にはっきり見えるはずで、それはそれでよろしいのですが、
座席は、かなり舞台上手側に寄っていて、
一人で歌うピースの場合、ことごとく歌手が指揮者クエラーの向こう側(つまり下手側)で
歌うので、クエラーの影になって、ほとんど姿が見えない。
デュエットの時だけは、舞台の上手側に二人とも来て歌ってくれたので、
歌手の姿が見えるのはその時だけ、、。
ルネ・フレミングの姿が完全にクエラーの、びらびらした妙なドレスにかぶさって見えなかったときには、
隣のオペラヘッドのおばちゃまも半分あきらめ状態で、"Oh, god! (まったく!)"とお嘆きでした。
来年も行くとしたら、舞台下手側限定で、と固く決意。

しかし、声はきちんと聴こえましたので、聴いてきたとおりのことをレポートさせていただきます。

さて、いきなり舞台に姿を現した事務局の男性。
”おそらくお気づきになるとおり、プログラムが少し前後したりすることはありますが、
(これも大嘘。前後したのみならず、変更になったり、なくなったプログラムもあった。こちらは後ほど。)
全ては予定どおりです。
EXCEPT... (でたーっ!ゲルプ氏も最近使う落とし技。”次のことを除いては”の意。)
スティーブン・コステロが気分がすぐれず(feeling indisposed)、リゴレットからのアリアは、
ブライアン某が歌います。”

もう、私はこのアナウンスを聴いた時点で、めまいを起こして倒れるかと思いました。
ブライアン某、って誰よ!私のコステロはどうしたのよ!!!!
しかも、ブーが飛ぶかと思えば、皆さん、割りと大人しくふーん、という表情で聞いている。
もっと、コステロの知名度を高める運動を起こしていかなければ、との決意を新たにしたのでした。
しかし、考えてみれば水曜日のルチアのアルトゥーロで少し不調に感じられたのは、やはり、、。
確かに、今の彼のようにまだ評価が確立していないところで無理をおして歌って、
このガラも土曜のメトのルチアのアルトゥーロも中途半端になっては致命的ですから、
彼の歌を今日聴けないのは、私としては非常に残念ではありますが、
しかし、この決断は正しく、勇気あるものとして支持したいと思います。

事務局の男性に代わって現われたホスト役のレナータ・スコット。観客からリスペクトの拍手がとびます。
スコットは70年代を代表するソプラノで、ベル・カントものも得意でしたが、
段々と重ための役に移行していき、
蝶々夫人やミミ役で素晴らしい歌唱を残しているのは、オペラヘッドの方ならご存知の通り。
1/19には、その彼女が1977年にパヴァロッティと歌ったラ・ボエームがラジオで放送されました。
現在は、後進の指導等にあたっていて、ネトレプコの歌の先生でもあります。
あいかわらず元気一杯の彼女。
いつぞやのラジオ放送の例もあるとおり、スコットは喋りだすと止まらないので、
いつマイクを離してくれるか心配でしたが、何とか一曲目にたどり着いた模様。

さて、その一曲目に予定されていた『ワリー』のアリア、”さようなら、ふるさとの家よ Ebben?.. Ne andro lontano"
を歌うはずだったラトニア・ムーアというソプラノもキャンセルしたために、
このアリアはカット。
そうそう、そういえば、このガラにフィリアノーティも出演するような話がある時点ではあったはずですが、
今、『ルチア』のエドガルドをメトで歌っている彼の名前もさりげなくプログラムからはなくなっていました。
コステロと共に、正しいチョイスです。

というわけで、ブライアン某のリゴレットのアリアからスタート。

 ヴェルディ『リゴレット』から”風の中の羽根のように(女心の歌) La donna e mobile "
いつまでもブライアン某ではあんまりなので、フルネームを。
Bryan Hymel。ブライアン・ハイメル?聞いたことないです。
いきなりのリプレイスメントで大変だったと思いますが、残念ながら、
今日登場している他の歌手とは、少しレベルが違うかも。
ものすごく緊張していたようで、特に前半で声が揺れていたのと、
最後の高音が微妙にフラットしていました。
しかし、緊張で声が揺れるなんて、
あのナショナル・グランド・カウンシルの参加者たちには一人もいなかった。
緊張するのは自然な現象で悪いことでも決してないですが、舞台で活躍していくためには、
その緊張が声に出ないようコントロールする力を身につけていかなければいけないと思います。

 ベッリーニ 『清教徒』からエルヴィラの狂乱の場 
”あなたの優しい声が Qui la voce sua soave... vien diletto"
エグリーズ・グティエレスというソプラノ、私は今回初めて聴きました。
お隣のオペラヘッドのおば様が”彼女はいい歌手よ”という通り、
声は素晴らしいものをもっていると思いました。
きれいで、しかも温かみのある声で、コロラトゥーラの技術もなかなか。
ただし、私が彼女の歌で決定的に好きになれない理由が一つ。
それは、ヴァリエーション(装飾音のつけ方)のセンスが悪すぎること。
それこそ、”なんじゃ、こりゃあ?!”と叫びたくなる音が一つや二つではありませんでした。
綺麗な声なので誇示したくなる気持ちもわからなくはないですが、
変な箇所で通常歌われる音の一オクターブ上の音を出そうとするのは趣味が悪すぎないですか?
そして、それが必ずしもぴったりの音が出ていないときすらあり、
なんでまたあえてそんなことを、、、と泣きたくなってきます。
普通に歌ってくれていれば、素晴らしい歌が聴けたであろうに、、。
技術があるのに、その使い方が間違っている例。
でも、ヴァリエーションのセンスばっかりは洋服の趣味と同じで、
なかなか治らないかもしれないので、私は非常に心配です。
きちんと歌唱のひだを治してあげられる先生がつけば、素晴らしい逸材なのに、本当にもったいない。

 マイヤベーア 『ユグノー教徒』から ”それはもう聞いた Tu l'as dit "
ストヤノヴァとジョルダーニの二人。
ちょっと、ちょっと、ちょっと。ジョルダーニ、楽譜を持って出てきましたよ。
ありえません。ガラで歌う曲を楽譜を見ながら歌うなんて、ふざけるな!と言いたい。
彼が第一声を発した時から、”こりゃ終わってる”と思いました。
というのも、風邪か何かか、声のコンディションがひどい。
が、しかし、それだけではありません。私はこのブログでも、なぜ彼の歌唱を買わないか、ということを
口をすっぱくして訴えてきましたが(例えば、ここ)、
風邪のせいで増幅されているとはいえ、今日のこの曲での彼の歌唱には、
彼がいつも持っている歌唱の欠点が凝縮されていると思いました。
うろ覚えのように聴こえるメロディー、音のずりあげ、、、
そのうえに風邪のために高音も出ていないのですから、最悪です。
よく、これで出てきて歌ったものです。コステロなんかと違って、自分はそこそこの名声があるので、
一回くらいひどい歌唱でも傷がつくまい、とでも思っているのか?
代役がいなくてやむをえず登場したのだとしたら気の毒ではありますが、
それでもこんな歌唱は、いくらなんでも観客に不誠実ではないでしょうか?
しかも、キズがつかない程度の名声がすでに自分にはある、と思っているところも、何とも能天気ではあります。
それにひきかえ、ストヤノヴァ。
この人は、いつもこうやって、貧乏くじばかりをひいているような気がしますが、(カルメンの件といい、、)
いつも全力投球なのが素晴らしい。
しかも、それぞれの曲のスタイルをきちんと理解して歌っているところも素晴らしければ、
どんな曲を歌っても、”私、私”とならずに、
きちんとバックのオケと声が溶け合っているところがすごいです。
彼女のプロフィールによれば、オケのヴァイオリニストとして音楽のキャリアを始めたという経緯があり、
その辺のことが、その高い音楽性にあらわれているような気がします。
それから、写真で見るよりもこの人は実物の方が綺麗。
髪を黒く染めたようですが、ショートカットとあって、とても似合っていました。
舞台でも常にまわりの人に細かい気遣いを見せ、がつがつしていないところが素敵だな、と思います。
なんと、その彼女のNYデビューはメトの舞台ではなく、このOONYの舞台だったそうですから、
彼女の才能にいち早く目をつけたクエラー女史はなかなか見る目があると言わねばなりません。

 ヴェルディ 『トロヴァトーレ』から 
二重唱 ”私の願いを聞いてください Mira, di acerbe lagrime "
アプリーレ・ミッロが80年代から90年代を代表するすぐれた歌手だったことを認めるのにやぶさかではありませんが、
こちらのDVDで彼女の最盛期の頃の歌が聴けます)
そろそろいい加減にしていただきたい、と思わないでもない。
妙な固定ファンがついていて、ほんの数年前までメトの舞台でも主役をはったりしていましたが、
もう歌は正直、ほとんど聴いてなんら魅力のあるものではありません。
それでも、ザジックと『ノルマ』からの二重唱を歌ってくれる予定だったので、
それなら、、と我慢もしようと思っていたのですが、
いきなりスティーブン・ガートナーと組んだ『トロヴァトーレ』に変更。
まあ、この『トロヴァトーレ』の旋律に現われる細かいパッセージもミッロはぼろぼろだったので、
『ノルマ』を歌ったとしても推して知るべし、という感じです。
というか、そもそも、声が衰えているからという問題よりも、きちんとしたコロラトゥーラの技術が
この人にはないのではないかとすら思わされました。
この件については、後ほどまたふれようと思うので、この辺で。

 ドニゼッティ 『ファヴォリータ』から
”おお、私のフェルナンド O mon Fernand "
ザジックの登場。この人はやっぱり貫禄の歌唱。
ただし、ものすごく細かいことを言えば、迫力ある高音と低音は健在ですが、
むしろ、その間の中間の音での微妙なニュアンスが昔ほど繊細に表現できなくなっているような
印象を持ちました。
以前の彼女は、高音から低音まで非常になめらかな音程と音量の調節が可能で、
それが魅力の一つだったのですが、、。

後編に続く>

(写真は、右上から時計まわりにアプリーレ・ミッロ←ちなみに今は恰幅が出て、
全然こんなかわいらしいルックスじゃない。いつの写真よ、これ?
マルチェロ・ジョルダーニ、クラッシミラ・ストヤノヴァ、レナータ・スコット。)


Renee Fleming, Soprano
Eglise Gutierrez, Soprano
Aprile Millo, Soprano
Krassimira Stoyanova, Soprano
Dolora Zajick, Mezzo-soprano
Bryan Hymel replacing Stephen Costello, Tenor
Marcello Giordani, Tenor
Stephen Gaertner, Baritone
Daniel Mobbs, Bass-baritone
Host: Renata Scotto, Soprano
The Opera Orchestra and Gala Chorus
Conductor: Eve Queler

Parq B Even
Carnegie Hall Stern Auditorium
***OONY Gala Opera Orchestra of New York オペラ・オーケストラ・オブ・ニュー・ヨーク ガラ***

LUCIA DI LAMMERMOOR (Wed, Mar 5, 2008)

2008-03-05 | メトロポリタン・オペラ
シーズン頭の公演から一段落置いて、『ルチア』のリターン・パフォーマンスが始まりました。
今日を入れて計3回の予定で、ルチア役はいずれもナタリー・デッセイ。
今週土曜日に予定されている次の公演は、全国FM放送およびシリウスの両方でのラジオ放送が
予定されているので、今日はその前哨戦といった趣で、土曜日の公演により焦点が合うよう
主要キャストも調整しているはず。そのあたりがどのようにパフォーマンスに出るか、、。

主要キャストは前回のランと、エドガルド役一人を除いて同じ。
今回3公演のエドガルドは、ジュゼッペ・フィリアノーティ。
この方は、オペラファンの間で支持する人が多く、
私も、マリエッラ・デヴィーアが日本で『椿姫』に登場した際のDVDを鑑賞する機会があったのですが、
アルフレード役を歌い演じたフィリアノーティの歌唱は、なかなかに端正なのが好印象で、
生で聴くのを大変楽しみにしていたテノール。

しかし、調整モードに一番大きく入っていたのは、主要キャストではなくレヴァイン氏なのでした。
日中のリハで精根を使い果たしたか、なんとこの公演、いきなりのキャンセル。
まあ、ダウンして土曜に振れない、というのは悲しいですからね。
気持ちはわかります。

しかし。カラマリ(イタリア語で”イカ”の意。今や英語でも一般的。)と私が仇名している、
コラネリが代理の指揮かー。うーむ。

案の定、いつも四角四面で正確なのが大好きなレヴァインの指揮と比較すると、
なんだか節目のないだらだらした指揮なのが目立ちます。
(四角四面がいいかどうかという問題は別に置いておくとしても、、)
ルチアのようなベル・カント作品を思い入れたっぷりにだらだらと振っても、
あんまり効果がないのでは?というのが私論。
歌に独特のスタイルが求められている以上、それに合う指揮というのもあるはずです。
このだらだらさは、せっかくの装飾音符とか早いパッセージ等に込められた美しさを殺しかねない。
というか、殺していたんですが。

デッセイは、声そのものの調子は決して悪くはないと思いましたが、
ところどころでセーブをしている様子がありあり。
まあ、これも土曜日のことを思えば仕方がないのでしょう。
しかし、これまで(9/24前半後半10/13)に言ってきたとおり、
彼女の歌唱の最大の魅力は何が飛び出してくるかわからない、
全力で歌うところから来るそのスリリングさにあるので、
私にとっては今日のこの公演、やや彼女であって彼女でない、というような不満が残ったのでした。

演技に関しても、前半のランでは、各回で、非常に統一性のある役作りを、
それも違ったバージョンで見せてくれる、という離れ業を演じていたのにくらべると、
今日は少し役としての説得力にも欠けているように思いました。
たとえば、”このうえない情熱に心奪われたとき Quando rapito in estasi "、
ここでアリサと、今までにないほどふざけあう演技付けがされていたのですが、
亡霊の話を振り払うかのように、エドガルドへの熱い思いを歌っても、
どこかでこの不幸への予兆が彼女とアリサの心にのしかかっているはずで、
(というか、それがこの作品全編を通しての通奏低音となっているともいえるわけで、だからこそ、
私は演出家のジンママンが最後にルチアを亡霊として登場させるという演出も”あり”だと思うのです。)
それが全く感じられないような、歌詞をなぞっただけのような、二人でふざけあう演技はどうかと思いました。
彼女にしては、珍しく表面的な演技だったと思います。

ただ、演技がやや薄っぺらい分、歌唱の多様性で補ってくれたのはさすが。
”狂乱の場”が、今回フルートではなく、グラス・ハーモニカを使って演奏されている、
という話は以前書いたとおりですが、
通常、ルチアが歌った節を追いかけてフルートが奏でられる箇所では、グラス・ハーモニカさえも使わず
(というか、グラス・ハーモニカでは、あの早いパッセージを効果的に追いかけるのは無理だと思われる。)
デッセイが両方を歌っているのがユニークですが、
今回、この本来フルートが奏する旋律を、単に最初に歌った旋律を追いかけるのではなく、
違う旋律で歌っていたのが、これまでの公演にはなく、これまた面白い、と思いました。
また、彼女のヴァリエーションは、決してトラディショナルではないのに、
しかし、決して度を越えることがなく、常にセンスがいいのが、
私の彼女の歌唱で好きなところの一つでもあります。



さて、私が今シーズンの歌唱を聴いて大注目しているテノール二人のうちの一人、スティーブン・コステロ。
彼は、そのアルトゥーロ役での歌唱の素晴らしさから、一日だけエドガルド役に大抜擢されるという
大幸運をつかみました

まだまだ主役級の役を歌うには、歌唱に荒削りな部分は見られるものの、
将来を期待させるきらりと光るものを感じさせられたのも事実。
特に、最後の”神に向かって飛び立ったあなたよ Tu che a Dio spiegasti l'ali”。
これは、メインでエドガルド役を歌ったジョルダーニからは決して聴くことのできなかった、
それはそれは繊細な歌で感動ものでした。
今日の彼は、再び本来の配役に戻ってアルトゥーロ。
彼は、遠目や写真で見ると、非常にかわいらしく、スタイルもすらっとしていて男前だというのに、
今日、近くの座席で見て、びっくり。
まず、演技を頑張らなければいけません、彼は。
常におろおろと挙動不審なのは、この役を演じようとしてなのか、
このメトの大舞台に本当におろおろしてしまっているのか、今ひとつ見極めることができませんでした。
また、肩。これをもう少し下げた方がいい。もっともっと立ち姿が美しくなると思います。
素質と必要なルックスは持ち合わせているのだから、頑張ってほしいです。
そして、今日の彼の歌声は、ややいつものエッジを欠いていたように思うのは気のせいか。
それでもやっぱり大変な美声で、”調子が悪いときにも、下げ幅低し”という
私の『良い歌手の法則』を満たしているので、
それはそれで嬉しいことなのですが、彼の歌唱はこんなものではないはず。
土曜日までに調子を上げてほしいところです。

エンリーコを演じたクウィーチェンと、ライモンドを演じたジョン・レリエーは、
いつもどおり、手堅く役を抑えていました。

さて、フィリアノーティ。
彼の声自体は、やはりDVDで聴いたとおり、非常に端正だし、悪くない。
ただ、少し延ばした音がところどころイーブンに聴こえないのが気になったのと、
ただ、DVDの頃から段々と起こった変化なのか、それともたまたま今日の歌唱がそうなのか、
これはこれから何回か彼の歌唱を聴くまではなんともいえませんが、
少し、妙なオーバーシンギング、オーバーアクティングが見られたのが残念でした。
特に各フレーズの頭が綺麗な歌いだしから始まって、最後の数語で感情を込めるためのオーバーシンギング、
というこの繰り返しで、非常にアプローチがワンパターンなのが気になりました。
というか、綺麗な声があってそれで十分勝負できるのに、
どうしてこんな”大根歌唱”をあえてしようとするのか、非常に疑問が残ります。
ただ、やや声量が少なく感じられた箇所もあり、もしかすると万全のコンディションではなく、
それをカバーするためにそのような歌唱になってしまった可能性もありうるので、
土曜にそのあたりを注意しつつ、ラジオに耳を傾けたいと思います。
あとは、演技がものすごく大時代風でびっくり。
こんな白々しい演技、今のオペラの舞台ではあまり見れません、というほどに。
ルチアにキスをするシーンも、まさにぶちゅーっ!という感じで、
もう少し優雅に出来ないものかと苦笑してしまう。
彼の歌うときの体の姿勢にも関係があるのですが、彼は決めの音を出すときに、
少し顎を挙げて歌うくせがあり、もともと彼は下あごが長いので、
舞台に近い座席に座っていると、かなりビジュアル的にインパクトがあります。
だから、歌手の顔がはっきり見えすぎる座席って好きでないんです、、。

しかし、フィリアノーティの歌からは、作品のスタイル感を感じさせられるのは確か。
この彼の歌を聴くと、ジョルダーニのこの役での歌が、いかに、無理矢理釘を引き抜くような
強引な歌唱だったか、ということにあらためて気付かされます。
ジョルダーニは、この役には重たすぎ、という結論。

ルチアとエドガルドの重唱の場面で、フィリアノーティがデッセイの腰にまわした手を、
デッセイが思いっきりひっぺがしていたのに少しびっくり。
その後に続く指環の場面を彼に思い出させるためともとれましたが、
”そんなところ、さわんないで!”と、とれなくもなく、、。


Natalie Dessay (Lucia)
Giuseppe Filianoti (Edgardo)
Mariusz Kwiecien (Lord Enrico Ashton)
John Relyea (Raimondo)
Stephen Costello (Arturo)
Michaela Martens (Alisa)
Michael Myers (Normanno)
Conductor: Joseph Colaneri replacing James Levine
Production: Mary Zimmerman
ORCH J Even
ON
***ドニゼッティ ランメルモールのルチア Donizetti Lucia di Lammermoor***

ギフト・ショップの謎

2008-03-05 | お知らせ・その他
こちらの記事のコメントの中で頂いた、メトのギフト・ショップがクローズするかもしれない、
という噂ですが、情報が錯綜しております。

昨日、メトのカスタマー・サービスに尋ねたところ、そのような話は現在のところはない、
としたうえで、これからのリンカーン・センターの開発計画の予定の一部を教えてくださいました。
(上の記事のコメント欄参照。)

しかし、今日、私がこの耳で、ギフト・ショップのスタッフ自身から、4月でクローズするかもしれない、
という話を聞きましたのでここにご報告しておきます。
理由は、”マネージメントが決めたこと”だそうで、
4月をもって永久休業に入る、という説もあれば、9月にリオープンする説もあり、
スタッフの人も”困るんだよね、ほんとに。はっきりしなくてさ。”という表情でした。

クローズの話が本当だとすれば、私のようにネットでCDやDVDを買うよりも店頭買いが好きな人には、
いよいよバーンズ&ノーブル(リンカーン・センター斜め前)が頼り。
しかし、今まで、CDやDVDの在庫に関していうと、
メトのギフト・ショップとバーンズ&ノーブルを足して何とかまわる、という感じだったので、
メトのギフト・ショップがなくなるとなれば、バーンズ&ノーブルには2倍の努力をしてもらわなければなりません。
おじさん、よろしく。

メト 2008-2009年シーズン 演目発表

2008-03-04 | お知らせ・その他
いよいよ125周年にあたるメトの2008-2009年シーズンの演目が発表になりました。

新プロダクションが6つ、従来のプロダクションが18、2つのガラ公演、
プラスシーズン前のパヴァロッティ追悼のガラというラインアップで、
長らくメトのファンにはおなじみだったオットー・シェンク演出の指環の最後の公演が予定されているのも目をひきます。
この新シーズンのリング・サイクルの公演をもって、このオットー・シェンク演出の指環はお蔵入りになってしまうそうです。

では、演目の予定を。

 ガラ

9/22のオープニング・ナイトは、ルネ・フレミングのガラ・パフォーマンス。
椿姫のヴィオレッタ(ま、まじ、、、?)、マスネのマノン(これは楽しみ!)、R.シュトラウスのカプリッチョの伯爵夫人の3役を演じます。
ラモン・ヴァルガス、トーマス・ハンプソン、ドウェイン・クロフトも出演。

3/15のガラは、メトの125周年およびドミンゴのメト・デビュー40周年を記念してのもの。

またシーズン開幕前の9/18には、パヴァロッティをしのんで、レヴァイン指揮によるヴェルディの『レクイエム』の演奏が予定されています。
バルバラ・フリットーリ、オルガ・ボロディナ、マルチェロ・ジョルダーニ、ジェームズ・モリスがソリスト。

 新演出作品

 ドクター・アトミック (ジョン・アダムス作曲)


(ドクター・アトミック出演のジェラルド・フィンレイ)

コンテンポラリーもの。ペニー・ウールコックの新演出。
ジェラルド・フィンレイがタイトル・ロールを歌います。アラン・ギルバート指揮。

 ファウストの劫罰 (ベルリオーズ)


(『ファウストの劫罰』のスチール写真からマルチェロ・ジョルダーニ)

ロバート・ルパージの演出。
マルチェロ・ジョルダーニ、スーザン・グラハム、ジョン・レリエー出演、指揮はレヴァイン。

 夢遊病の女 (ベッリーニ)


(アミーナ役のデッセイ)

今シーズン好評だったルチアを演出したメアリ・ジンママンが再びメトに帰ってきます。
主役のアミーナは、やはりルチアと同じくナタリー・デッセイ。共演はフアン・ディエゴ・フローレス王子、
ミケーレ・ペルトゥージ。
ピド指揮。

 タイース (マスネ)
ルネ・フレミング、トーマス・ハンプソン、マイケル・シェイドらが、
ロペス・コボス指揮で歌います。演出はシカゴ・リリックがオリジナルのジョン・コックスのもの。
冒頭の写真は『タイース』のスチール写真からのルネ・フレミング。

 つばめ (プッチーニ)
アンジェラ・ゲオルギュー&ロベルト・アラーニャ夫妻が登場。
ランの後半はジュゼッペ・フィリアノーティがルッジェロ役を歌う予定。
他にサミュエル・レイミーら出演。
オリジナルはキャピトル・トゥールーズ劇場とコヴェント・ガーデンの舞台でジョエル演出。
指揮はマルコ・アルミリアート。

 イル・トロヴァトーレ (ヴェルディ)


(マンリーコ役のリチートラ)

シカゴ・リリック・オペラとサンフランシスコ・オペラとの共同作品で、マクヴィカーの演出。
ソンドラ・ラドヴァノフスキー、ドローラ・ザジック、サルヴァトーレ・リチートラ、
ディミトリ・ホロストフスキーの出演。
裏キャストは、ハスミク・パピアン、ルチアーナ・ディンティーノ、マルコ・ベルティ、ゼリコ・ルチーチ。
指揮はノセダ。


 既存演出作品

 オルフェオとエウリディーチェ (グルック)
昨シーズン初演されたマーク・モリスの演出が帰ってきます。レヴァイン指揮。
ステファニー・ブライス、ダニエル・デ・ニースの共演。
ということで、オルフェオ役が、昨シーズンのカウンターテナー版とは違い、メゾ版です。やった!

 トリスタンとイゾルデ (ワーグナー)
昨年10月のベルリン国立歌劇場の日本公演のトリスタンでの指揮が素晴らしかったとの噂を聞くバレンボイムがメト・デビュー。
カタリーナ・ダレイマン(苗字の読み方がよくわかりません。Dalayman。イゾルデ。)、
ミシェル・デ・ヤング(ブランゲーネ)、ペーター・ザイフェルト(トリスタン)、ルネ・パペ(マルケ王)出演。

 スペードの女王 (チャイコフスキー)
1992年以来久々に小澤征爾がメトに戻ってきます。ベン・ヘップナー、マリア・グレギーナが歌います。

 ランメルモールのルチア (ドニゼッティ)
ダムローとネトレプコのダブル・キャスト。
ただし、ネトレプコは以前お知らせしたとおり、
赤ちゃんが生まれるころなので、出演できるかは微妙です。
ヴィラゾンとベクザラ(? Beczala)がエドガルド役で、
クウィーチェンとストヤノフがエンリーコ役でダブル・キャストを組みます。

 エフゲニ・オネーギン (チャイコフスキー)
カリタ・マッティラがタチアナ役に挑戦。トーマス・ハンプソンがオネーギン役。

 サロメ (R. シュトラウス)
こちらもマッティラ出演。

 ラ・ジョコンダ (ポンキエッリ)
デボラ・ヴォイト、オルガ・ボロディナ、ジェームズ・モリスら。

 愛の妙薬 (ドニゼッティ)
ゲオルギューのアディーナに、ヴィラゾンのネモリーノ。ドゥルカマーラにブリン・ターフェル。

 カヴァレリア・ルスティカーナ(マスカーニ)&道化師(レオンカヴァッロ)
アラーニャとホセ・クーラのダブル・キャスト。とはいえ、メトが発表している文章からは、
一作品ずつという意味のダブル・キャストではなく、それぞれが両方の役を歌うという意味のダブル・キャストの模様。
クーラはともかく、アラーニャ、大丈夫なんだろうか、、。

 ドン・ジョヴァンニ (モーツァルト)
アーウィン・シュロット(前~中期)とペーター・マッテイ(後期)がドン・ジョヴァンニ、
スーザン・グラハムのエルヴィーラ(前期のみ)、
クラッシミラ・ストヤノヴァ(前期)とバルバラ・フリットーリ(後期)のドンナ・アンナ、ポレンザーニのオッターヴィオ。
レポレロはダルカンジェロ(前~中期)とサミュエル・レイミー(後期)。
豪華です。

 ラ・チェネレントラ (ロッシーニ)
エリーナ・ガランチャがタイトル・ロール。王子はローレンス・ブラウンリー。

 椿姫 (ヴェルディ)
アニヤ・ハルテロスがメトのヴィオレッタ役に初挑戦。アルフレードはマッシモ・ジョルダーノ。
ジェルモン父はルチーチとのろまのドバーのダブルキャストなので要注意。

 リゴレット (ヴェルディ)
今年マクベス役を歌ったルチーチがリゴレット役で登場。楽しみ。
ジルダ役はクルザックとダムロー。
公爵役を何とフィリアノーティ、ベクザラ、ジョセフ・カレイヤのトリプル・キャスト。
全部、見に行かなくては。

 アドリアーナ・ルクヴルール (チレア)
マリア・グレギーナ、マルセロ・アルヴァレス、オルガ・ボロディナ。
何とメトでは15年ぶりの上演だそうです。

 ルサルカ (ドヴォルザーク)
ルネ・フレミング、ステファニー・ブライス、アントネンコらの顔合わせ。

 ラ・ボエーム (プッチーニ)
ミミはネトレプコとマイア・コヴァレフスカのダブル・キャスト。
ロドルフォはラモン・ヴァルガス。マルチェロにクウィーチェン。

 蝶々夫人 (プッチーニ)
パトリシア・ラセットとクリスティーナ・ガイヤルド・ドマスのダブル・キャスト。
ピンカートンはロベルト・アロニカとマルチェロ・ジョルダーニ。
シャープレスはこの人しかいない!ドウェイン・クロフト。

 魔笛 (モーツァルト)
来シーズンもこっそり紛れてやがる魔笛。新進のキャベルとピッタスが歌う。
、、、。ピッタスが歌うなら観にいかなくてはならなくなった、、。


 リング・サイクル

 ニーベルングの指環<リング・サイクル>(ワーグナー)
レヴァイン指揮。オットー・シェンク演出。
出演予定はクリスティン・ブルーワーとリサ・ガスティーン(ブリュンヒルデ)、
クリスティアン・フランツ/ジョン・フレデリック・ウェスト(ジークフリート)、
ジェームズ・モリス/アルバート・ドーメン(ヴォータン)、
プラシド・ドミンゴ/ヨハン・ボータ(ジークムント)、
ワルトラウト・マイヤー/エイドリアンヌ・ピエチョンカ(ジークリンデ)、
ルネ・パペ(フンディングおよびファーゾルト)
ジョン・トムリンソン(ファーフナーおよびハーゲン)。
3つのサイクルでダブル・キャストの役が多いので、チケットを買う際は要注意です。



 ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)
来シーズンからは、さらに枠が広がり、10月の公演を頭に、10の演目がのる予定。


 ライブ・イン・HDのDVD化
EMIより、『ヘンゼルとグレーテル』と『マクベス』(いずれも2007-2008年シーズン)
および『始皇帝』(2006-2007年シーズン)が2008年5月にDVDでリリース予定。
『マノン・レスコー』、『ピーター・グライムズ』、『ラ・ボエーム』も続いて発売の予定。
(でかした、EMI!)

 NYに住む人、朗報!
アグネス・ヴァリス&カール・ライトマン夫妻のサポートによるラッシュ・チケットは
2008-2009年シーズンも継続です。
(*ラッシュ・チケット = 上のご夫妻が平土間座席の何十席かを定価で買い上げ、
そのままメトに即寄付返ししたものを、メトが一枚20ドルで発売するサービス。
当日、寒空の中、数時間並ぶ根性のあった人だけが20ドルで平土間で鑑賞できる。
ただし、一名二枚限定。
詳しいチケットの発券方法等についてはメトのウェブサイトをご覧ください。)


もう書いているだけでお腹いっぱいの充実したシーズン。
夏はたっぷり英気を養って、この怒涛のシーズンに備えねばなりません。

VIENNA PHILHARMONIC ORCHESTRA (Sun, Mar 2, 2008)

2008-03-02 | 演奏会・リサイタル
私の頭の中には、今、?(クエスチョン・マーク)が百万個並んでいます。

先月のロイヤル・コンセルトヘボウの演奏会の最終日で、かぶりつきの座席(平土間の最前列)にすわり、
”失敗したーっ!”と後悔したのは、以前当ブログで書いた通り。
人生でも仕事でも、「同じ間違いを二度と起こさない」がモットーの私ですが、
こればっかりはどうにもなりません。今日も最前列です。
それはなぜなら、このウィーン・フィルのチケットを取ったのは8月だから。
ロイヤル・コンセルトヘボウの演奏会の全然前なのです。

なので、今日は朝から猛烈に憂鬱。
ロイヤル・コンセルトヘボウの時、各セクションの音の立ちすぎと、そして、
個々の楽器の音の聴こえすぎで、演奏後に軽く頭痛がしたのを思い出しました。

今日の一曲目は、ヴェルディのオペラ『運命の力』から序曲。
そして、あの印象的な、最初の金管の音が出てきて、私は目玉が飛び出すくらい仰天しました。

、、、音がうるさくない!!

もちろん、うるさくない、というのはデシベル云々の話ではありません。
この曲をご存知の方なら、この金管の音がかなり大音量なのはご存知のはず。
それでも、聴いていて、全く耳障りでなく、むしろ耳に優しい感じがするではないですか。
それから、弦が入ってきても、やっぱり同じ。こんな最前列に座っていても、全然うるさくないのです!
というか、ロイヤル・コンセルトヘボウのときに聴こえたような個々のヴァイオリンの音がほとんど聴こえない。

二つの違った場所に体を置くことが出来ない以上、確かめようのないことですが、
今日はヴァイオリン・セクションの調子がよく、そのためにより一体化して聴こえるのか、
それとも、金曜日にまとまりがないと感じたのは座席のせいなのか、、
とにかく、今日、この座席で聴く限り、弦のセクションは素晴らしいアンサンブルぶりです。

恐るべし、ウィーン・フィル、、。
寄れば寄るほど上手く聴こえるとは、、。

そして、この座席をどう解せばよいのか?
ウィーン・フィルでは○で、ロイヤル・コンセルトヘボウでは×??
よくわからない・・・。
なので、頭に百万個の?マークなのです。




演奏についてですが、『運命の力』の序曲で、ここまで完成度が高いものを聴いたのは、
初めてかもしれません。
音のバランスも小憎らしいくらいだし、もちろん個々の楽器の演奏も達者。
だが、しかし。何かが足りない。
何だろう?上手すぎるのだろうか?それもあるかも知れません。
ある意味、完成されすぎていて、面白みがないというのか。
私の好みを言えば、もう少しロマンティシズムを感じる演奏をしてほしいかな、というのはあります。
アルヴァーロとカルロの二重唱のテーマが出てくるあたり、
ベタでもいいから、もうちょっと感情を込めてほしいなあ、と。
そう、このウィーン・フィルの演奏は、あまりにすっきりと、おしゃれすぎるのかもしれないです。
イタリア・オペラは、たとえ少しダサくなってしまってもいいから、
ちょっぴりベタなくらいがいい!!がもう一つのモットーの私としては、やや寂しかった。
ただ、以前、キーロフ・オペラが日本で演奏した『運命の力』の、
あのどうにもこうにもねっとりした重苦しい路線ではなかったのは、私としては嬉しかったかも。
話が重苦しいからといって、音楽まで鈍重なのは、おしゃれさんよりも、なおいけません。

一昨日の『トリスタン~』の時ほどではありませんが、やっぱり、これを聴いて、
”ああ、これからオペラが始まる!!”というような昂揚感を煽る演奏ではないのは確か。
去年の『マイスタージンガー』序曲で見せたわくわく感のようなものは、
とうとう今年のオペラ絡みのレパートリーからは感じられずじまいだったのはやや残念でした。

二曲目のリスト『前奏曲』。
ゲルギエフは、旋律を歌わせるのに照れがあるのか、やはりさくさくと進んでいきます。
もうちょっと歌わせてくれてもいいのにな、と、『運命の力』に続いて思う。
しかし、それは贅沢なのかも知れません。
通常のスタンダードで言えば、素晴らしい演奏のうちに入るのでしょう。
ただ、はっきり言って、、、この曲、退屈だなあ、と思うのは私だけでしょうか?
退屈な曲が、技術的に極めて上手に演奏されるとこうなった!という感じに近いかもしれません。

さて、今日のメイン。チャイコフスキーの第五番。
これは、昨日の『悲愴』と甲乙つけがたい出来。
むしろ、一般的な基準では、『悲愴』よりもこちらの五番の方が上だったかもしれません。
各セクションの音のバランスもよく、『悲愴』よりも全体の構成とかつながりといったものが、
より自然だったような気もします。
ただ、私個人の意見としては、多少の欠点があったとしても、ぐっとひきこまれる瞬間があったという点で、
『悲愴』を取るかもしれません。
曲そのものはどちらかというと『悲愴』よりも、五番の方が好きなのですが、、。

しかし、絶対にふれておきたいのは、今日の五番でのホルンのソロ。
これは、本当に素晴らしかったです。
音になんともいえないたおやかさがあり、楽器という媒体を通しているという感じを越えて、
まるで人間の体から直接出てきているような、歌か何かを聴いているような感覚に近かったです。

昨日、今日と、非常に聴きごたえのある演奏に、NY人も大喜び。
やっぱり、「来年も来てね」と訴える子犬に今年もなってしまったのでした。
去年の完全余裕!に比べると、余裕の表情を浮かべる振りをしながらも、
”今年はちょっと頑張っちゃったりなんかして、地が出ちゃったかな?”という体のウィーン・フィル。
私は完全余裕の彼らよりも、こんなウィーン・フィルの方が好きです。

アンコール一曲目は、”ラベラ”という曲で、
ヴァイオリンがまるでシャンシャン、と鈴のような音に聞こえる曲。
ウィーン・フィルはこういう肩の凝らないピースを演奏すると本当に天下一品です。

そして二曲目は、英語でWithout Worries(心配なしに)という意味のドイツ語らしい、
”オーナ・ソルガ(ドイツ語筆記ではOhne Sorgeか?) ”。
もうこの曲は、オケが完全掌中に収めていて、指揮など要りません、という感じ。
ゲルギエフも、ほとんど指揮せず、一緒に踊って(!)ます。
途中でオケのメンバーが歌う”はっ!はっ!はっ!”という笑い声が楽しいのですが、
繰り返しの箇所では、ゲルギエフがいきなり観客席の方を振り向き、”みなさんもご一緒に!”。

いろいろと考えさせるところと聴きごたえのあった今年のウィーン・フィルの演奏会。
昨日と今日のような演奏が聴けるならば、もちろん、私も他の子犬と一緒に
尻尾をふって、来年彼らが帰ってくるのを待つのです。

VERDI Overture to La forza del destino
LISZT Les preludes
TCHAIKOVSKY Symphony No. 5

Conductor: Valery Gergiev
Parq A Odd
Carnegie Hall Stern Auditorium
***ウィーン・フィル Vienna Philharmonic Orchestra***

VIENNA PHILHARMONIC ORCHESTRA (Sat, Mar 1, 2008)

2008-03-01 | 演奏会・リサイタル
ウィーン・フィルは、いや、ヨーロッパのメジャーどころといわれるオケは、
多分NYを含むアメリカの聴衆のことを田舎者だと思っていることでしょう。

国の歴史の浅さはもちろん、ださださな文化的センスに、
わかりやすいものしか理解することができないノータリン、と、
まあそこまで極端ではないかもしれないが、多かれ少なかれ絶対思っていると思う。

そして、それを半ば裏付けるがごとく、ウィーン・フィル様がいらっしゃるとなれば、
ほとんど、どんな演奏内容であっても、演奏後には大拍手にスタンディング・オベーション。
彼らからすれば、ほらね、やっぱり、ってなもんです。

そんな、”来年も来てね”といつも尻尾を振って追い回す子犬のようだったNYの聴衆が、
珍しく、”あれ?これ、ほんとにウィーン・フィルなの?”と突然クンクンと
恐れ多くもウィーン・フィル様の足元を嗅ぐような反応を見せた昨日の演奏会。

田舎者と思っていた相手に軽く見られることほど情けないことはない!と思ったか、
もしくはそうでなくとも、さすがにこれではまずい!と思ったか、、、。

まず、昨日のフランスもの(ベルリオーズの『ロメオとジュリエット』、ドビュッシーの『海』)で、
ことごとく外しまくっていたので、これはオケ、作品、指揮の相性が最悪なのだろうと結論づけて、
まったく期待していなかった同じくフランスものの、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』。
これが、とてもよい。
昨日のあれは何だったんだろう?と思うほど、今日のホルンはきちんと演奏してます。
10分弱という短さ、下手をするとムード音楽のようになってしまいそうなこの曲を、
甘ったるく貶めたりせず、絶妙な端正さで演奏していく様子がとてもよい。
しかも、ウィーン・フィルから、私がこれまで一度も(少なくともNYでは、、)聴いた事のなかった
ひたむきさが演奏から感じられます。
これは意外な好スタートとなりました。

二曲目は、プロコフィエフのピアノ協奏曲第二番。
ピアノはイェフィム・ブロンフマン。



写真ではわかりにくいのですが、ものすごく肩幅のがっちりとした体格で、
最上階から見ていても見た目だけですごい迫力。
そして、音が出て二度びっくり。肩幅どおりの、ものすごくがっちりした音です。
カーネギー・ホールで今までピアノの演奏を聴いた
グリモーフジ子・ヘミングブレンデルらと比べると、音の野太さは格段。
予習に使用したユンディ・リの柳腰演奏に比べると、何と曲全体の印象の違うことか。
そして、そういえば、ユンディ・リは、見た目も柳系。
ピアノは、見た目と演奏がシンクロするのか?
(しかし、ユンディ・リのオフィシャル・サイトでは、
彼のこの第二番の演奏に、「パワフル」で「剛毅」なんて言葉を使ってます。
いやー、剛毅なんて言葉は、このブロンフマンのガテン系演奏を聴いた後では、
こっそりと引き出しの奥にしまいたくなるはず、、)

とにかく、ガンガン弾きまくるブロンフマン。
私もその路線でいきまっせー!とのりまくるゲルギエフ。
これは、まるで土木建築工事を思わせる演奏。ブロックを積み上げているよう、とでも言うのか、、。
それを冷やかに見つめるどころか、一緒にのりまくっているウィーン・フィル。
どうしちゃったの?!転んで机の角で頭でも打ったのっ?!と聞きたくなる。
すねた優等生らしさは微塵もなく、ゲルギエフとブロンフマンがせっせとブロックを積み上げる横で、
爆音を立てながらドリルで穴を開けたりして、一生懸命工事に参加しているウィーン・フィルの面々たち、、。
かと思えば、ピアノが優しく歌い上げる場面では、金管が絶妙な音量でサポートし、、。
こういう演奏を聴くと、やはりウィーン・フィルの演奏者の人たちのその音楽的能力の高さを実感します。
この演奏で、作曲家が意図した精神を体現しているかどうかは微妙ですが、
面白い演奏であることは間違いありません。
すぐ前に座っていた男性たち二人連れも、”いやー、エキサイティングだったね!”と盛り上がっていました。

ブロンフマンのアンコールは、古楽系(バッハか?)のピースで、
ウィーン・フィルの演奏者が見守るなか、一人でしっとりと演奏。
音は、先ほどの演奏とは少し違った、湿り気のある音で、非常にユニーク。
しかし、やはり体型のなせる業なのか、一瞬、カーネギー・ホールが、
マフィアか何かがたまるバーに変わって、ブロンフマンはそこでぽろろんとピアノを弾き流すおじさん、
といった風なのでした。

ここでインターミッション。

今日の座席はバルコニー。
昨日は、ドレス・サークルの最後列で鑑賞したのですが、ドレス・サークルは座席全体のすぐ頭の上に、
すぐ上階のバルコニー席の床に相当する部分が張り出していて、音響面では最悪ともいえるものでした。
しかし、バルコニー席は最上階の上に、天井まで十分に空間があるので、
少しサイドに寄っているのが心配でしたが、全く問題がなく、
音響に関してはホールの中でももっともよい位置の一つなのではないかと思います。

続いては、メインの演目ともいえるチャイコフスキーの第六番『悲愴』。
いやー、何度も言うようですが、こんなウィーン・フィルの必死な姿、初めて見ました。
演目が出身地のロシアものである、という助けがあるとはいえ、
このようにウィーン・フィルを必死にさせること自体、すごいことで、
ゲルギエフのパワーには素直に感服したいと思います。
ただ、これは好いことなのか悪いことなのか、一概には言えないですが、
ほとんど、ウィーン・フィルらしい響きを犠牲にして、ロシアっぽさを手に入れようとしているような、
それこそ『悲愴』と呼びたくなる雰囲気がなきにしもあらず。
特に弦セクションから出てきている音が、いつものつややかな感じから、
ややアーシーな(泥臭い)音になっているのが印象的でした。

ゲルギエフの指揮は、早い箇所はとことん煽りまくり、ほとんど躁的ともいえるほど。
かなりせわしないです。
そういえば、キーロフ・オケで聴いた『春の祭典』も、似た印象でした。
そして、そういった箇所の方が観客への受けもいいのですが、
しかし、私が一番出来がよいと感じたのは第四楽章。
ゲルギエフの良さは、ゆったりと音楽が流れている箇所にこそあらわれるような気がします。
もともと彼の指揮は、大枠重視、細かいところはどうでもよい(と、そこまで思ってはいないかもしれないが)
という傾向があるので、
早く演奏される箇所で、曲の細かい部分の良さがふっとんでしまうときがあるのですが、
ゆったりとした箇所では、細部が飛ばずに彼の大らかな音楽作りの長所がフルに生きてくるので
相性がよいように感じます。
作品の解釈については、観客の方それぞれで好き嫌いはあるでしょうが、
ウィーン・フィルは最後の音まで気持ちのこもった演奏で、
つっぱり青年もこんなにかわいらしい側面があった、と、金八先生のような気持ちにさせられました。
いや、まじめに、このような演奏を聴かせてくれるのなら、私はまた来年も公演に足を運びます。

『悲愴』でゲルギエフが強引に持ち込んできたロシアの熱気からまだ脱しきっていないウィーン・フィルに、
アンコールで同じくチャイコフスキーのバレエ『眠れる美女』の第二幕 第一場の
”パノラマ”を演奏させたのは、大正解。
このかわいらしい小品の演奏から感じられたロシアっぽさは、むしろ、『悲愴』以上だったかもしれません。
『悲愴』でのロシアっぽさが、やや頑張りすぎで気の毒な気すらしたのに対し、
こちらはアンコール・ピースといういい意味で気持ちがゆるんだその瞬間に
思わずこぼれたロシアっぽさという感じで、非常に自然だったのに好感を持ちました。
それに、彼らには素晴らしい演奏の技術があるのですから鬼に金棒。
こんなチャーミングな”パノラマ”はそう聴けるものではないはずです。

全く捨てピースのない今日のプログラムでしたが、私個人的には意外にも、
頭の『牧神の午後への前奏曲』と、この『パノラマ』が最大の収穫でした。
プログラムの妙と演奏のクオリティの高さに大満足の夜となりました。


DEBUSSY Prelude a l'apres-midi d'un faune
PROKOFIEV Piano Concerto No. 2
TCHAIKOVSKY Symphony No. 6 "Pathetique"

encore TCHAIKOVSKY Panorama from Act II Scene I of The Sleeping Beauty

Conductor: Valery Gergiev
Piano: Yefim Bronfman
Center Balcony H Odd
Carnegie Hall Stern Auditorium
***ウィーン・フィル Vienna Philharmonic Orchestra***



Sirius: OTELLO (Sat Mtn, Mar 1, 2008)

2008-03-01 | メト on Sirius
それまでの公演では素晴らしい歌と演奏を見せていたのに、ラジオ放送の日に限ってなぜか、
実力を発揮できない、という不幸な例をこれまで耳にしてきたので、
今日の『オテッロ』は、どうか、これまでの実演のすばらしさ(例えば2/22
私が観にいったのはこの一日だけですが、他の公演日を実際にご覧になった方からも、良い噂が届いております。)がラジオに乗りますように、と祈り続けた今日の公演。

私は残念ながら、今夜のウィーン・フィルの公演に備え、
シリウス(今日は全国のFM放送網でもオン・エアされています)で拝聴。

結論、祈りが通じてよかったです。
ボータとフレミングは、これまでの公演を凌ぐことはあっても、劣ることのない歌唱を聴かせていました。
柳の歌~アヴェ・マリアに関しては、私が観た公演日よりも、ルネ節(2/22の記事を参照)が
強く出ていたのが若干気にならなかったでもありませんし、
(私は何度もいうように、アヴェ・マリアに関しては、あまり思いいれたっぷりに歌わず、
清らかに歌ってくれる方が心に染みるのです。)
オテッロとデズデーモナの二重唱の頭に入る部分のチェロがまたしても不安定になっていましたが、
そんな小さなことはどうでもよく思えるほどでした。

そのアヴェ・マリアの後、寝室に入ってきたオテッロがデズデーモナにキスするシーンの
後ろで流れるオケの音に、すでに、二重唱のときと同じメロディーでありながら、
まるで猛烈な黒雲がわきあがっているようなこの微妙なニュアンスの違いを
描出しているオケの素晴らしさ。
指揮者のビチコフのリードも素晴らしく、
昨日、あんな無味乾燥な音楽を聴かされた後では、ウィーン・フィルに、
これでも見習え!と説教でも垂れたくなるのでした。
(そういえば、ビチコフも、ゲルギエフと同じロシア人、、)

そう考えると、全公演中の”きらりと光る率”、メトは異常に高くて、
それも、私がメトに通い続ける原動力となっているのかもしれません。

とにかく、この『オテッロ』のラン中、ずっと高いレベルの演奏を保ち続けたメインのキャストにオケ、
合唱、指揮がおおいに報われる結果となったこの放送に私は大満足。
関わった全ての人たちにWell deserved!の言葉を送りたいです。


Johan Botha (Otello)
Renee Fleming (Desdemona)
Carlo Guelfi (Iago)
Garrett Sorenson (Cassio)
Ronald Naldi (Roderigo)
Charles Taylor (Montano)
Wendy White (Emilia)
Kristinn Sigmundsson (Lodovico)
David Won (A herald)
Conductor: Semyon Bychkov
Production: Elijah Moshinsky
ON

***ヴェルディ オテッロ Verdi Otello***