Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

THE FEAST OF THE RESURRECTION (Sun, Mar 23, 2008)

2008-03-23 | 演奏会・リサイタル
人種のるつぼ、宗教のるつぼ、のNYですが、
キリスト教を最も勢力のある宗教の一つに数えることに
異論のある人はいないと思います。
今日は、そのキリスト教において、ある意味、キリストの誕生日であるクリスマスよりも
重要であるともされている復活祭の日曜日(イースター・サンデー)。

そのイースター・サンデーに教会で行われるセレモニーでは、主に金管楽器が使われます。
NYにどれほどの数の教会があるか、正確な数字はわかりませんが、
このイースター・サンデーの日には金管楽器の奏者はひっぱりだこに。
クラシックのオーケストラのメンバー、ブロードウェイで演奏している人たち、
フリーランスの奏者、はたまたジュリアードをはじめとする音楽学校の生徒までが、
教会に狩り出されることとなります。

NYの中でも比較的に裕福な人たちが暮らすとされているアッパー・イースト・サイドに位置する
このとある教会では、例年、メトロポリタン・オペラのオケの金管奏者を何人か確保しており、
私、本当のところを申し上げると、典型的な日本人と同じく無宗教、
強いていえば、今は、仏教の教えが一番しっくり来る、というのが本音なのですが、
その、メト・オケの奏者たちが含まれている演奏者の方々の音楽の演奏が聴きたい、ということもあり、
今日はその教会にやってまいりました。
というわけで、罰当たりにも、この記事のカテゴリーも演奏会扱い。
でも寛容なイエス・キリストはお許しくださる、と身勝手に解釈して。

とはいえ、さらに説明させて頂くと、小さい時に英語を習ったのが地元の教会だったため、
いつの間にか英語のレッスンの後には土曜学校にデフォルトで通うことになってしまっていたり、
十代の中頃、一年だけ住んだアメリカでは毎週教会に通ったし、
またその後進んだ大学はカトリック系だったこともあり、色々聖書に関する授業をとったり、
クリスチャンではありませんが、人並みにはキリスト教に興味も敬意も持っていることは付け加えておかねばなりません。
いえ、キリスト教はある意味、西洋の世界観を形作っている基礎ですから、
オペラヘッドである以上、興味を持たないわけには行かないのです。

少しだけ宗教の話をすれば、私個人はキリスト教の教えそのものには、
素晴らしいものがあると思いますが、しかし、教会が発達していったその過程で、
複数の流派とその対立を生み出し、派によっては聖書を自分たちの都合のよいようにしか読まない、
といった姿勢が見られるのが気になります。
キリスト教に限らず、今や世界中の宗教が多かれ少なかれその傾向にあるようにも感じますが、
人々の間に素晴らしいものをもたらすと同時に、邪悪なものももたらしている場合もあるのではないかと、、。

話がそれましたが、今日のこの教会は、米国聖公会という派に属する教会で、
信者には富裕層が多く、全てのキリスト教諸派の中で、最もリベラルとも言われている流派です。

朝の十時、まずは金管の五重奏でスタート。
曲はジョヴァンニ・ガブリエリのCanzona per sonare No. 4。
実は去年も、この教会でイースター・サンデーを過ごしたのですが、
去年は、アマの奏者と思われる方が何人か含まれていたうえに、
曲も妙に野心的な新しい作品が多く、アンサンブルがぐちゃぐちゃで、
???とびっくりさせられた重奏ナンバーもあったのですが、
まず、今年は選曲がとてもよいうえに、プロの奏者率があがって、ずっと聴き応えのあるものとなっています。
(↑ だから、演奏会じゃないっつーのに!)
非常に短い曲ながら、きらびやかな金管の音が、これからの式の気分を盛り上げます。

続いて、その5人にオルガンとティンパニー(珍しい!)が加わって、
リチャード・ヒラートの”Three Pieces for Brass Quintet, Timpani, Organ"から、Canzonaを。
このヒラートという人は比較的現代の人なのですが(1923年生まれで、
まだ生きていらっしゃるようですから、比較的現代という言い方はいけませんね。
きっぱり、現代、です。)、
曲はむしろトラディショナルな宗教曲のような雰囲気。
ティンパニー??と最初は思うのですが、意外と全く違和感がなく、
ティンパニーがスパイスを効かせた感じでなかなか。

続いてはオルガンの演奏で、ハーバート・ハウエルズの"Six Pieces for Organ, No. 2"から、
Saraband (For the morning of Easter)。
いやー、本当に色んな曲があるんですね、この世には。
あえてイースター用に書かれた曲。なんともニッチな、、。
演奏されたとしても、年に一回ですからね、、。

そして、式の前の最後の音楽は、ヘンデルの『メサイア』から
”ラッパが響いて The Trumpet Shall Sound  ”。
新約聖書のコリント人への手紙 第一 第15章51-52節にある、
”聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、
みな変えられるのです。終わりのラッパと共に、たちまち、一瞬のうちにです。”
というレチタティーヴォ(叙唱)の部分から始まって、
その後に、”ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。”
というアリアが続きます。
通常はバスによって歌われるアリアのようですが、
今日歌ったのはバリトンのデイヴィッド・マクフェリン David McFerrinという方。
今すぐ、メトの舞台に立って歌えるかというとそれは厳しいですが、
しかし、歌の基礎はきちんとしているし、なかなかまろやかでかつ繊細な魅力的な声で、
きちんと観客の目を見据えて歌う度胸もなかなか。(←これ、オペラ歌手になる人には大事な要素です。)
帰宅して調べてみるに、すでにサンタフェ・オペラや、フロリダ・グランド・オペラの舞台に立っており、
なんと今年のナショナル・カウンシル(メト版スター誕生)の、
ニュー・イングランド地区二位に選ばれた実力の持ち主のようです。



しかも、この方、写真の通り、かなりの美青年。
はい、教会の中だって、見るべきものはきちんと見ますよ、私は。
いつの日にか彼が歌でブレイクして、
『今”観て”聴いておきたいオペラ歌手~男性編』に食い込んでくれるのを本当に楽しみにしております。
少し前半緊張していたのか、細かい音符の動きが少し甘く感じられるところもありましたが、
繰り返しの部分が重なるにつれて、どんどん良くなっていったので、研鑽あるのみ!

トランペットの演奏を務めたのは、
今日のメンバーの中で数少ないノンプロのアーサー・マレーという方。
後で聞いたところでは、なんと、この曲のスコアを持ってくるのを忘れたらしく(ちょっと、、あなた、、)、
記憶のみで吹いたそうです。すごすぎ、、。
この方、少し見た目がアンドロイドっぽいのですが、それが功を奏したか、
ものすごく落ち着いて見えたし、この話を聞くまで、そんなことがあったとは
思いもよらないような演奏でした。
少し肺活量が少ないのか、長めの音のお尻が苦しそうでしたが、大健闘といわねばなりません。
しかし、この曲は名曲ですね。もう一気に気分は復活祭です!!!

いよいよ式次第本体に突入。

聖書からの抜粋が読み上げられる隙間に、教会に参列した人は賛美歌を歌うのですが、
いやー、日本人に比べてアメリカ人は楽譜を読めない人が多いんでしょうか?
言っておきますが、私は音楽といえば、学校で習ったことしか知りませんし、
楽器を弾けるわけでもありませんが、音の長さと音が上がるか下がるかの違いくらいはわかります。

もう、あちこちから聞こえる奇声、変な拍子のオン・パレードに、
”ここは音が上がるんだってば!!”とか、
”四分音符二つじゃなくって、ここは付点四分音符と八分音符でしょうが!!!”
と叫びたくなりました。
音楽の心得のある方には耐えられない場所だと思います。

そんなアッパー・イーストサイドの住民の珍歌唱が聴けた曲は、
ラルフ・ヴォーン・ウィリアムズが作曲した、"Salve festa dies"、
パレストリーナの”Victory"、ヒンツェの "Salzburg"、
1708年に書かれたLyra DavidicaからのEaster Hymnなど。

また、合唱隊によって、ウィリアム・バードの"Anthem"なども歌われました。
この合唱隊、曲によっては、参列者とともにうたう中、通路を歩き過ぎていったりするのですが、
二、三人、お、これは?と思わせられる素晴らしい声の人もいるのですが、
あとは、若い子が多いせいか、喉声歌唱のメンバーが多い。
もう、これは基本的に発声をトレーニングしなおしていただきたい、合唱指揮の人に。
あのバリトンの方も、どさくさにまぎれて一緒に歩かされていて、私のすぐ横を通り過ぎていきましたが、
やはり、側で聴いても、全然発声方法が違いますね。
明日から、猛トレーニングに励んでください!合唱隊の方!!!

あと、ハンドベルのチームもいて、我々の頓珍漢歌唱に合わせて、ベルを鳴らしてくださいました。

やがて、ヨハネの福音書の20章1-18節の朗読があり、牧師のお話に続くのですが、
このヨハネの福音書からの抜粋が、もはや宗教の枠を越えて、非常に感動的な場面なので、
ここに紹介しておきます。

”さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。
そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。
「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。
シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、
離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、
まだ理解していなかったのである。
それで、弟子たちはまた自分の所に帰って行った。
しかし、マリヤは外で墓の所にたたずんで泣いていた。
そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、
ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」
彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。
しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」
彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、
どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」
彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(=先生)。」とイエスに言った。
イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。
わたしはまだ父のもとに上っていないからです。
わたしは兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、
わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。
マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、
また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。”

牧師のお話は、コロサイ人への手紙 第3章1-2節にある、
”こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、
上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。”という聖書の言葉をベースに、
上にあるもの、天にあるものとは、すなわち自分の中にあるもの。
世の中を変えるために天の助けを借りるとは、すなわち、私たち自身の力を信じ、私たちの中から変えていくこと、
そうすれば、この世の不幸やいさかいにも少しは解決が見えるはずです、と、
その簡潔なメッセージの中に、この牧師の方の、今のアメリカが陥っている戦争をはじめとする
数々の不条理な事態に対するやるせない怒りが感じとれ、
短いながらも感動的な説教となっていました。

同じ牧師さんの去年の説教は長々としていて、途中で気を失いそうになるほどでしたが、
今年の説教の方がずっと参列した人の心に響いたはずです。

その後、牧師の言葉をきっかけにまわりの方と"Happy Easter"と声を掛け合いながら、
握手をしたり、抱き合って挨拶したり。

やがて、各列に銀色のお皿がまわってきて、いよいよ寄付の時間。
これは強制されるべきものではないので、額はいくらでもよいのですが、
場所柄もあり、中には高額そうな小切手を折って載せる人も。
開いてどんな金額が書かれているのか、確認したい衝動をぐっとこらえる。
このお金の一部は、このミサのすぐ後に開かれるホームレスの人たちのための、
無料ランチサービスなどに使われるよう。

間あいだに賛美歌が挟まる中、ホスチア(小麦粉を薄く焼いた白い食べ物で、
イエスの体をあらわす)と
ぶどう酒(イエスの血をあらわす)を頂きに、参加者一人づつ、順番に祭壇のそばまで行きます。
何列かにわかれているとはいえ、大きい教会だと、相当な時間がかかります。

座席に戻ると、隣のかなりお歳を召した女性に、”今日でこの教会に来るのは何度目?”
と聞かれたので、”二度目です”と答える。
(前回は去年のイースター。それから今日まで一度も来てません、とはとても言えない、、)
すると、その女性、どんどんおしゃべりのモーターがかかりはじめ、
”もうずっといらしているんですか?”と尋ねると、”もう何年もよ!”
そして、”毎年、『トッカータとフーガ』の演奏を楽しみにしているのに、
今年は、『メサイア』になっちゃったのよ。なんでかしらね。”とおっしゃる。
いや、そんな、来るのが二度目の私に聞かれても、、、。
後で確認すると、確かに、この女性がおっしゃるとおり、
去年までは、毎年、『トッカータとフーガ』が演奏されていたそうです。
音楽を楽しみにしていた人がいるというのは嬉しいものです。

と、そんな会話をしていたら、オルガンと合唱隊の歌で、
ドナルド・フィシェルという作曲家の"Alleluia No. 1"が。
すると、このおばさま、”ああ!これは私の大好きな!”と叫ばれ、
確かに美しいメロディーだな、と思いながら、二秒後におばさまを見ると、
瞼にハンカチをあてて涙ぐんでおられました。早っ!
でも、何か思い出、思い入れのあるメロディーなのかもしれませんね。
または、純粋に信仰の力で出た涙?
いずれにせよ、微笑ましいものです。音楽の力は偉大なり。

最後にいくつか賛美歌を歌って、Alleluia!と叫んで、全ての式次第が終了。

金管楽器と合唱によって、再びヘンデルの『メサイア』から、
”ほふられた小羊こそは Worthy is the Lamb "が演奏される中、
人々はお互いに挨拶しながら教会を後にしたのでした。

教会の外にでると、先にふれた無料ランチをあてにして、集まりはじめたホームレスの人々が。
私のような超よそ者(だいたい、私はこの教会に通っている信者でもないし、
そもそもこの教会に通っている人たちのアジア系率も猛烈に低い。)でも、
イースターという特別な機会ということもあってか、色々と話しかけてくださったり、
あたたかく受け入れてくれたのに対し、
教会の外のホームレスの人たちには、優しい言葉も、Happy Easter!という言葉すらも
かける人は一人もおらず、あの銀の皿に乗った小切手の姿が目に浮かんでは、
”お金は出すから、私たちには関わらないで。”ということなのかな、と
やや寂しい気持ちで帰途についたのでした。

***Easter Day The Feast of the Resurrection of Our Lord***