<前編から続く>
ヴェルディ 『イ・ロンバルディ』から
合唱 ”主よ、生まれ故郷の家から O Signore, dal tetto natio” (Coro di Crociati e Pellegrini)"
ここでOONYのオケと合唱。
クエラー女史の歌の才能発掘の才能はおおいに讃えるとしても、
指揮に関しては、、、。
ひどい言い方をすれば、高校の音楽の先生に毛が生えた程度、と言っていいかもしれません。
(高校の音楽の先生、すみません。)
要は、キュー出し程度の指揮、ということで、音楽性とか、ドラマの表現、とか
いったものからはほど遠い。
クエラー女史の、優しそうなルックスの通りの、ぬるい指揮なのでした。
さらにいうと、オケの方の平均年齢が高そうなのも気になりました。
これまでのプログラムの演奏についても、
ソロ・パートなんかは一生懸命練習されたか、そう気にならなかったですが、
むしろ、逆に歌の間に合いの手のように入る、いや、まさにこれから歌わん、とするときにはいる、
気のぬけたぱふーっという金管の音やら、まるでチャルメラのような木管の音には、
気分が萎えました。
割と単純なオーケストレーションとクラシック(交響曲系)ファンに小ばかにされている、
ベル・カントものが中心となっている今日のプログラムさえこれでは、
ヴェルディとかワーグナー、シュトラウスなんかがプログラムにたくさん入ってきたら
どんなことになるのか、、。
まあ、そもそもそういったレパートリーは演奏しない、という選択肢もありますが、、。
こういう失望は、メトのオケがバックをつとめるタッカー・ガラではありえないことで、
このあたりも、タッカー・ガラに差をつけられる原因の一つとなっているかも知れません。
逆に、メトで当たり前のように思っているオケの伴奏がいかにありがたいか、ということでもあります。
ドニゼッティ 『アンナ・ボレーナ』から狂乱の場
”あなたたちは泣いているの Piangete voi? Al dolce guidami castel natio"
ストヤノヴァ、素晴らしいです。何も言うことなし。
先にも言ったとおり、彼女の歌を聴くと、歌というよりも音楽という感じがします。
自分の歌を誇示するのではなく、あくまでオケと一体になって音楽を作る。
その自己顕示欲の一切ない姿勢が本当に素晴らしい。
ましてや、この手の、テクニックを見せることに重きがおかれている難曲でそれを実践するとは、
やはりこの方は只者じゃありません。
この曲が簡単に聴こえてしまっていた事実がさらにすごすぎます。
ベッリーニ 『清教徒』から
”君は君の敵を救わなければならない Il rival salvar tu dei.. suoni la tromba"
スティーブン・ガートナーとダニエル・モブスのデュエット。
スティーブン・ガートナーは、今シーズンのメトのルチアの一公演で、
体調を崩したクウィーチェンに変わって、途中の幕から、エンリーコを歌ったバリトン。
他の演目でも脇役でメトに登場しています。
地味ですが、非常に丁寧に歌っていて、声も綺麗。私は大変好感を持ちました。
オケと、歌手のトータルな出来では、意外にも、今日のプログラムの中で、
この曲が一番よかったようにも思います。
ドニゼッティ 『ルクレツィア・ボルジア』から
”息子が!息子が!誰か!~彼は私の息子でした
M'odi, ah m'odi, io non t'imploro.. Era desso il figlio mio"
ルネ・フレミングがいよいよ登場。
うーん。私にはなぜ彼女がしつこくこれらのベル・カント・ロールに挑戦し続けるのかわかりません。
彼女のこれらの作品へのアプローチは、間違っているとすら思います。
私が思うに、これらのベル・カントの作品は、その音符の粒を楽しむために作られている曲です。
たとえば、早いパッセージを歌うとき、そこにぎっしりとつまった粒の揃った真珠を楽しむような、、。
たとえば、真珠の首飾りを作るとき、その真珠の粒を出来るだけ揃ったものとするはずで、
(段々中心に向かって大きくする、というようなことはあるでしょうが)、
高価な真珠の首飾りで粒の大きさがでこぼこなものなんて存在しないはずです。
一つ一つの粒自体がいかにグレードの高いものであっても、です。
それが、彼女の歌の場合、この粒の大きさが違う首飾りを思わせるのです。
それは、オテッロやオネーギンを歌ったときには効果的である思い入れたっぷりな歌いぶりに原因がある気がします。
ある音に感情を込めすぎると、その音が微妙に他の音よりも伸びてしまったり、
強調されてしまうのは、当然の成り行き。
だけど、ベル・カントでは、その逆をするべきなんではないでしょうか?
つまり、極力思い入れたっぷりに音を出すことを排除して、純粋な音の美を追求する。
その美を追求した中からドラマを生み出さなければならないところに、
ベル・カント・レパートリーを歌う難しさがあるのであって、
フレミングのベル・カント・レパートリーの歌唱は、アプローチが間違っている、と私が感じるのは、
彼女の場合、ドラマが先にありき、になってしまっている点なのです。
今日のプログラムで、ドラマが先の歌唱を実践しているフレミングとミッロがことごとく玉砕し、
逆にまず音を綺麗に、粒を揃えることに専念したストヤノヴァやグティエレスの歌唱の方がすぐれて聴こえたのも、
当然と思われます。
ポンキエッリ 『ラ・ジョコンダ』から”空と海 Cielo e Mar!"
あなた、もう家にお帰りなさいよ、と言いたくなるほど不調なのに、またまた登場のジョルダーニ。
あいかわらず声はがらがらですが、最後ということでふっきれたのか、
何度か音程が怪しくなりつつも(もう声のコントロールが効いていない)、
高音をなんとか出して、しめくくりました。ご苦労様でした。
こんなにガラでひやひやさせられるのは二度とごめんです。
続いてミッロが『メフィストフェレ』のアリア、”いつかの夜、暗い海の底に
L'altra notte in fondo al mare "を歌うはずでしたが、
風邪のジョルダーニよりも一足早くミッロの方が会場を去った模様。
(最後の合唱も歌う予定だったのに姿を見せませんでした。)
何なんでしょう、この人は?まあ、聴けなくても惜しいともなんとも思いませんでしたが。
ヴェルディ 『椿姫』から ”乾杯の歌 Libiamo ne'liei calici"
全歌手で”乾杯の歌”を歌うという、ちょっとこちらがこっ恥ずかしくなるような、
こてこてのエンディング。
急にいなくなったミッロの変わりに、急遽、スコット(!)が混じって歌います。
アルフレードのパートは、ジョルダーニが全て歌い、
ヴィオレッタが歌う箇所は、全女性歌手が少しづつ持ち回りで歌いましたが、
これが非常に興味深く、こっ恥ずかしい思いをさせられたのも許そうという気にさせられました。
あのヴィオレッタが歌うメロディーを、フレミング、ストヤノヴァ、グティエレス、
ザジック、スコットの5人で分割しているわけですから、一人たった数小節、という感じなのですが、
これほどまでにはっきりと、コロラトゥーラの技術のしっかりしている人と、
そうでない人がわかれるとは、、。
そして、ミッロがご帰宅されてしまった今、技術がもっとも不足しているのがフレミングでした。
(というか、ミッロは、もしやそれを隠蔽するための帰宅?)
グティエレス、この人もあの趣味の悪い装飾歌唱をなんとかできれば、今すぐにでもヴィオレッタを歌えそうだし、
ストヤノヴァに関して言えば、彼女が一フレーズ歌っただけで、
私はあの、スーパー・パフォーマンスが脳裏に蘇ってきました。
この二人はやっぱり技術がしっかりしてます。
そして、楽しかったのはザジック。メゾが決して歌うことのないパートなので、
おどけて楽譜を掲げながら熱唱。
もちろんグティエレスやストヤノヴァのように、軽いソプラノの役を持ち役としている歌手の声ほど
軽くは動きませんが、彼女もテクニックはしっかりしていて、フレミングよりずっと音が転がってました。
しかし、私がもっともあぜんとさせられたのはスコット。
この方が若かりし頃、ベル・カントを得意としていた、というのは聞いたことがあっても、
実際の舞台では体験したことが当然なかったのですが(彼女は1934年生まれ、現在74歳)、
彼女から一フレーズ出てきてびっくり。
もちろん、お歳のせいもあって、声量はないですが、その一音一音のいかに粒が揃っていることか、、。
長年かけて実につけた真のベル・カントの技術は年齢を重ねても消えることはないのだわ、
と感動の思いでした。
ということで、先にあげたミッロの『トロヴァトーレ』の歌唱で、
彼女のコロラトゥーラの技術が冴えないのは決して年齢のせいではない、
との思いをますます強くしたのでした。
アンコールには、再び”乾杯の歌”。
タッカー・ガラの時にも感じましたが、同じ曲を二度やるってのは、ちょっとダサいです。
来年からは二曲目のアンコールの準備をお願いしたい。
* 3/8現在、NYタイムズのレビューに、ミッロとザジックが『ノルマ』からの曲を歌ったような
記述がありますが、正しくありません。NYタイムズの公演レビューは、時に、
きちんと全てを見聴きしないで書いているのではないかと思わせる場合があり、
フィガロ・ジャポンに続いて、けしからん話です。
** 追記:3/9には、上のNYタイムズのレビューに、何の表示もなく修正が入り、
(通常は、最初の稿に修正が入るとその旨の表記がある。)
今度は、ドローラ・ザジックがスティーブン・ガートナーと共に
『トロヴァトーレ』からの二重唱を歌ったことになっていますが、これも誤り。
そもそも、この二重唱は、ソプラノであるレオノーラとバリトンのルーナ伯爵の二重唱なのであって、
メゾのザジックが歌うわけない。
しかもザジックとミッロ、全然違う色のドレスを着てたのに、何で間違うんだろう?
いい加減すぎです。
*** 追々記 その後、やっと正しい表記に修正された模様。(3/10)
Renee Fleming, Soprano
Eglise Gutierrez, Soprano
Aprile Millo, Soprano
Krassimira Stoyanova, Soprano
Dolora Zajick, Mezzo-soprano
Bryan Hymel replacing Stephen Costello, Tenor
Marcello Giordani, Tenor
Stephen Gaertner, Baritone
Daniel Mobbs, Bass-baritone
Host: Renata Scotto, Soprano
The Opera Orchestra and Gala Chorus
Conductor: Eve Queler
Parq B Even
Carnegie Hall Stern Auditorium
***OONY Gala Opera Orchestra of New York オペラ・オーケストラ・オブ・ニュー・ヨーク ガラ***
ヴェルディ 『イ・ロンバルディ』から
合唱 ”主よ、生まれ故郷の家から O Signore, dal tetto natio” (Coro di Crociati e Pellegrini)"
ここでOONYのオケと合唱。
クエラー女史の歌の才能発掘の才能はおおいに讃えるとしても、
指揮に関しては、、、。
ひどい言い方をすれば、高校の音楽の先生に毛が生えた程度、と言っていいかもしれません。
(高校の音楽の先生、すみません。)
要は、キュー出し程度の指揮、ということで、音楽性とか、ドラマの表現、とか
いったものからはほど遠い。
クエラー女史の、優しそうなルックスの通りの、ぬるい指揮なのでした。
さらにいうと、オケの方の平均年齢が高そうなのも気になりました。
これまでのプログラムの演奏についても、
ソロ・パートなんかは一生懸命練習されたか、そう気にならなかったですが、
むしろ、逆に歌の間に合いの手のように入る、いや、まさにこれから歌わん、とするときにはいる、
気のぬけたぱふーっという金管の音やら、まるでチャルメラのような木管の音には、
気分が萎えました。
割と単純なオーケストレーションとクラシック(交響曲系)ファンに小ばかにされている、
ベル・カントものが中心となっている今日のプログラムさえこれでは、
ヴェルディとかワーグナー、シュトラウスなんかがプログラムにたくさん入ってきたら
どんなことになるのか、、。
まあ、そもそもそういったレパートリーは演奏しない、という選択肢もありますが、、。
こういう失望は、メトのオケがバックをつとめるタッカー・ガラではありえないことで、
このあたりも、タッカー・ガラに差をつけられる原因の一つとなっているかも知れません。
逆に、メトで当たり前のように思っているオケの伴奏がいかにありがたいか、ということでもあります。
ドニゼッティ 『アンナ・ボレーナ』から狂乱の場
”あなたたちは泣いているの Piangete voi? Al dolce guidami castel natio"
ストヤノヴァ、素晴らしいです。何も言うことなし。
先にも言ったとおり、彼女の歌を聴くと、歌というよりも音楽という感じがします。
自分の歌を誇示するのではなく、あくまでオケと一体になって音楽を作る。
その自己顕示欲の一切ない姿勢が本当に素晴らしい。
ましてや、この手の、テクニックを見せることに重きがおかれている難曲でそれを実践するとは、
やはりこの方は只者じゃありません。
この曲が簡単に聴こえてしまっていた事実がさらにすごすぎます。
ベッリーニ 『清教徒』から
”君は君の敵を救わなければならない Il rival salvar tu dei.. suoni la tromba"
スティーブン・ガートナーとダニエル・モブスのデュエット。
スティーブン・ガートナーは、今シーズンのメトのルチアの一公演で、
体調を崩したクウィーチェンに変わって、途中の幕から、エンリーコを歌ったバリトン。
他の演目でも脇役でメトに登場しています。
地味ですが、非常に丁寧に歌っていて、声も綺麗。私は大変好感を持ちました。
オケと、歌手のトータルな出来では、意外にも、今日のプログラムの中で、
この曲が一番よかったようにも思います。
ドニゼッティ 『ルクレツィア・ボルジア』から
”息子が!息子が!誰か!~彼は私の息子でした
M'odi, ah m'odi, io non t'imploro.. Era desso il figlio mio"
ルネ・フレミングがいよいよ登場。
うーん。私にはなぜ彼女がしつこくこれらのベル・カント・ロールに挑戦し続けるのかわかりません。
彼女のこれらの作品へのアプローチは、間違っているとすら思います。
私が思うに、これらのベル・カントの作品は、その音符の粒を楽しむために作られている曲です。
たとえば、早いパッセージを歌うとき、そこにぎっしりとつまった粒の揃った真珠を楽しむような、、。
たとえば、真珠の首飾りを作るとき、その真珠の粒を出来るだけ揃ったものとするはずで、
(段々中心に向かって大きくする、というようなことはあるでしょうが)、
高価な真珠の首飾りで粒の大きさがでこぼこなものなんて存在しないはずです。
一つ一つの粒自体がいかにグレードの高いものであっても、です。
それが、彼女の歌の場合、この粒の大きさが違う首飾りを思わせるのです。
それは、オテッロやオネーギンを歌ったときには効果的である思い入れたっぷりな歌いぶりに原因がある気がします。
ある音に感情を込めすぎると、その音が微妙に他の音よりも伸びてしまったり、
強調されてしまうのは、当然の成り行き。
だけど、ベル・カントでは、その逆をするべきなんではないでしょうか?
つまり、極力思い入れたっぷりに音を出すことを排除して、純粋な音の美を追求する。
その美を追求した中からドラマを生み出さなければならないところに、
ベル・カント・レパートリーを歌う難しさがあるのであって、
フレミングのベル・カント・レパートリーの歌唱は、アプローチが間違っている、と私が感じるのは、
彼女の場合、ドラマが先にありき、になってしまっている点なのです。
今日のプログラムで、ドラマが先の歌唱を実践しているフレミングとミッロがことごとく玉砕し、
逆にまず音を綺麗に、粒を揃えることに専念したストヤノヴァやグティエレスの歌唱の方がすぐれて聴こえたのも、
当然と思われます。
ポンキエッリ 『ラ・ジョコンダ』から”空と海 Cielo e Mar!"
あなた、もう家にお帰りなさいよ、と言いたくなるほど不調なのに、またまた登場のジョルダーニ。
あいかわらず声はがらがらですが、最後ということでふっきれたのか、
何度か音程が怪しくなりつつも(もう声のコントロールが効いていない)、
高音をなんとか出して、しめくくりました。ご苦労様でした。
こんなにガラでひやひやさせられるのは二度とごめんです。
続いてミッロが『メフィストフェレ』のアリア、”いつかの夜、暗い海の底に
L'altra notte in fondo al mare "を歌うはずでしたが、
風邪のジョルダーニよりも一足早くミッロの方が会場を去った模様。
(最後の合唱も歌う予定だったのに姿を見せませんでした。)
何なんでしょう、この人は?まあ、聴けなくても惜しいともなんとも思いませんでしたが。
ヴェルディ 『椿姫』から ”乾杯の歌 Libiamo ne'liei calici"
全歌手で”乾杯の歌”を歌うという、ちょっとこちらがこっ恥ずかしくなるような、
こてこてのエンディング。
急にいなくなったミッロの変わりに、急遽、スコット(!)が混じって歌います。
アルフレードのパートは、ジョルダーニが全て歌い、
ヴィオレッタが歌う箇所は、全女性歌手が少しづつ持ち回りで歌いましたが、
これが非常に興味深く、こっ恥ずかしい思いをさせられたのも許そうという気にさせられました。
あのヴィオレッタが歌うメロディーを、フレミング、ストヤノヴァ、グティエレス、
ザジック、スコットの5人で分割しているわけですから、一人たった数小節、という感じなのですが、
これほどまでにはっきりと、コロラトゥーラの技術のしっかりしている人と、
そうでない人がわかれるとは、、。
そして、ミッロがご帰宅されてしまった今、技術がもっとも不足しているのがフレミングでした。
(というか、ミッロは、もしやそれを隠蔽するための帰宅?)
グティエレス、この人もあの趣味の悪い装飾歌唱をなんとかできれば、今すぐにでもヴィオレッタを歌えそうだし、
ストヤノヴァに関して言えば、彼女が一フレーズ歌っただけで、
私はあの、スーパー・パフォーマンスが脳裏に蘇ってきました。
この二人はやっぱり技術がしっかりしてます。
そして、楽しかったのはザジック。メゾが決して歌うことのないパートなので、
おどけて楽譜を掲げながら熱唱。
もちろんグティエレスやストヤノヴァのように、軽いソプラノの役を持ち役としている歌手の声ほど
軽くは動きませんが、彼女もテクニックはしっかりしていて、フレミングよりずっと音が転がってました。
しかし、私がもっともあぜんとさせられたのはスコット。
この方が若かりし頃、ベル・カントを得意としていた、というのは聞いたことがあっても、
実際の舞台では体験したことが当然なかったのですが(彼女は1934年生まれ、現在74歳)、
彼女から一フレーズ出てきてびっくり。
もちろん、お歳のせいもあって、声量はないですが、その一音一音のいかに粒が揃っていることか、、。
長年かけて実につけた真のベル・カントの技術は年齢を重ねても消えることはないのだわ、
と感動の思いでした。
ということで、先にあげたミッロの『トロヴァトーレ』の歌唱で、
彼女のコロラトゥーラの技術が冴えないのは決して年齢のせいではない、
との思いをますます強くしたのでした。
アンコールには、再び”乾杯の歌”。
タッカー・ガラの時にも感じましたが、同じ曲を二度やるってのは、ちょっとダサいです。
来年からは二曲目のアンコールの準備をお願いしたい。
* 3/8現在、NYタイムズのレビューに、ミッロとザジックが『ノルマ』からの曲を歌ったような
記述がありますが、正しくありません。NYタイムズの公演レビューは、時に、
きちんと全てを見聴きしないで書いているのではないかと思わせる場合があり、
フィガロ・ジャポンに続いて、けしからん話です。
** 追記:3/9には、上のNYタイムズのレビューに、何の表示もなく修正が入り、
(通常は、最初の稿に修正が入るとその旨の表記がある。)
今度は、ドローラ・ザジックがスティーブン・ガートナーと共に
『トロヴァトーレ』からの二重唱を歌ったことになっていますが、これも誤り。
そもそも、この二重唱は、ソプラノであるレオノーラとバリトンのルーナ伯爵の二重唱なのであって、
メゾのザジックが歌うわけない。
しかもザジックとミッロ、全然違う色のドレスを着てたのに、何で間違うんだろう?
いい加減すぎです。
*** 追々記 その後、やっと正しい表記に修正された模様。(3/10)
Renee Fleming, Soprano
Eglise Gutierrez, Soprano
Aprile Millo, Soprano
Krassimira Stoyanova, Soprano
Dolora Zajick, Mezzo-soprano
Bryan Hymel replacing Stephen Costello, Tenor
Marcello Giordani, Tenor
Stephen Gaertner, Baritone
Daniel Mobbs, Bass-baritone
Host: Renata Scotto, Soprano
The Opera Orchestra and Gala Chorus
Conductor: Eve Queler
Parq B Even
Carnegie Hall Stern Auditorium
***OONY Gala Opera Orchestra of New York オペラ・オーケストラ・オブ・ニュー・ヨーク ガラ***