Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

OONY GALA (Thu, Mar 6, 2008) 後編

2008-03-06 | 演奏会・リサイタル
前編から続く>

 ヴェルディ 『イ・ロンバルディ』から
合唱 ”主よ、生まれ故郷の家から O Signore, dal tetto natio” (Coro di Crociati e Pellegrini)"
ここでOONYのオケと合唱。
クエラー女史の歌の才能発掘の才能はおおいに讃えるとしても、
指揮に関しては、、、。
ひどい言い方をすれば、高校の音楽の先生に毛が生えた程度、と言っていいかもしれません。
(高校の音楽の先生、すみません。)
要は、キュー出し程度の指揮、ということで、音楽性とか、ドラマの表現、とか
いったものからはほど遠い。
クエラー女史の、優しそうなルックスの通りの、ぬるい指揮なのでした。

さらにいうと、オケの方の平均年齢が高そうなのも気になりました。
これまでのプログラムの演奏についても、
ソロ・パートなんかは一生懸命練習されたか、そう気にならなかったですが、
むしろ、逆に歌の間に合いの手のように入る、いや、まさにこれから歌わん、とするときにはいる、
気のぬけたぱふーっという金管の音やら、まるでチャルメラのような木管の音には、
気分が萎えました。
割と単純なオーケストレーションとクラシック(交響曲系)ファンに小ばかにされている、
ベル・カントものが中心となっている今日のプログラムさえこれでは、
ヴェルディとかワーグナー、シュトラウスなんかがプログラムにたくさん入ってきたら
どんなことになるのか、、。
まあ、そもそもそういったレパートリーは演奏しない、という選択肢もありますが、、。
こういう失望は、メトのオケがバックをつとめるタッカー・ガラではありえないことで、
このあたりも、タッカー・ガラに差をつけられる原因の一つとなっているかも知れません。
逆に、メトで当たり前のように思っているオケの伴奏がいかにありがたいか、ということでもあります。

 ドニゼッティ 『アンナ・ボレーナ』から狂乱の場
”あなたたちは泣いているの Piangete voi? Al dolce guidami castel natio"
ストヤノヴァ、素晴らしいです。何も言うことなし。
先にも言ったとおり、彼女の歌を聴くと、歌というよりも音楽という感じがします。
自分の歌を誇示するのではなく、あくまでオケと一体になって音楽を作る。
その自己顕示欲の一切ない姿勢が本当に素晴らしい。
ましてや、この手の、テクニックを見せることに重きがおかれている難曲でそれを実践するとは、
やはりこの方は只者じゃありません。
この曲が簡単に聴こえてしまっていた事実がさらにすごすぎます。

 ベッリーニ 『清教徒』から
”君は君の敵を救わなければならない Il rival salvar tu dei.. suoni la tromba"
スティーブン・ガートナーとダニエル・モブスのデュエット。
スティーブン・ガートナーは、今シーズンのメトのルチアの一公演で、
体調を崩したクウィーチェンに変わって、途中の幕から、エンリーコを歌ったバリトン。
他の演目でも脇役でメトに登場しています。
地味ですが、非常に丁寧に歌っていて、声も綺麗。私は大変好感を持ちました。
オケと、歌手のトータルな出来では、意外にも、今日のプログラムの中で、
この曲が一番よかったようにも思います。

 ドニゼッティ 『ルクレツィア・ボルジア』から
”息子が!息子が!誰か!~彼は私の息子でした 
M'odi, ah m'odi, io non t'imploro.. Era desso il figlio mio"
ルネ・フレミングがいよいよ登場。
うーん。私にはなぜ彼女がしつこくこれらのベル・カント・ロールに挑戦し続けるのかわかりません。
彼女のこれらの作品へのアプローチは、間違っているとすら思います。
私が思うに、これらのベル・カントの作品は、その音符の粒を楽しむために作られている曲です。
たとえば、早いパッセージを歌うとき、そこにぎっしりとつまった粒の揃った真珠を楽しむような、、。
たとえば、真珠の首飾りを作るとき、その真珠の粒を出来るだけ揃ったものとするはずで、
(段々中心に向かって大きくする、というようなことはあるでしょうが)、
高価な真珠の首飾りで粒の大きさがでこぼこなものなんて存在しないはずです。
一つ一つの粒自体がいかにグレードの高いものであっても、です。
それが、彼女の歌の場合、この粒の大きさが違う首飾りを思わせるのです。
それは、オテッロやオネーギンを歌ったときには効果的である思い入れたっぷりな歌いぶりに原因がある気がします。
ある音に感情を込めすぎると、その音が微妙に他の音よりも伸びてしまったり、
強調されてしまうのは、当然の成り行き。
だけど、ベル・カントでは、その逆をするべきなんではないでしょうか?
つまり、極力思い入れたっぷりに音を出すことを排除して、純粋な音の美を追求する。
その美を追求した中からドラマを生み出さなければならないところに、
ベル・カント・レパートリーを歌う難しさがあるのであって、
フレミングのベル・カント・レパートリーの歌唱は、アプローチが間違っている、と私が感じるのは、
彼女の場合、ドラマが先にありき、になってしまっている点なのです。

今日のプログラムで、ドラマが先の歌唱を実践しているフレミングとミッロがことごとく玉砕し、
逆にまず音を綺麗に、粒を揃えることに専念したストヤノヴァやグティエレスの歌唱の方がすぐれて聴こえたのも、
当然と思われます。

 ポンキエッリ 『ラ・ジョコンダ』から”空と海 Cielo e Mar!"
あなた、もう家にお帰りなさいよ、と言いたくなるほど不調なのに、またまた登場のジョルダーニ。
あいかわらず声はがらがらですが、最後ということでふっきれたのか、
何度か音程が怪しくなりつつも(もう声のコントロールが効いていない)、
高音をなんとか出して、しめくくりました。ご苦労様でした。
こんなにガラでひやひやさせられるのは二度とごめんです。

続いてミッロが『メフィストフェレ』のアリア、”いつかの夜、暗い海の底に 
L'altra notte in fondo al mare "を歌うはずでしたが、
風邪のジョルダーニよりも一足早くミッロの方が会場を去った模様。
(最後の合唱も歌う予定だったのに姿を見せませんでした。)
何なんでしょう、この人は?まあ、聴けなくても惜しいともなんとも思いませんでしたが。

 ヴェルディ 『椿姫』から ”乾杯の歌 Libiamo ne'liei calici"
全歌手で”乾杯の歌”を歌うという、ちょっとこちらがこっ恥ずかしくなるような、
こてこてのエンディング。
急にいなくなったミッロの変わりに、急遽、スコット(!)が混じって歌います。
アルフレードのパートは、ジョルダーニが全て歌い、
ヴィオレッタが歌う箇所は、全女性歌手が少しづつ持ち回りで歌いましたが、
これが非常に興味深く、こっ恥ずかしい思いをさせられたのも許そうという気にさせられました。
あのヴィオレッタが歌うメロディーを、フレミング、ストヤノヴァ、グティエレス、
ザジック、スコットの5人で分割しているわけですから、一人たった数小節、という感じなのですが、
これほどまでにはっきりと、コロラトゥーラの技術のしっかりしている人と、
そうでない人がわかれるとは、、。
そして、ミッロがご帰宅されてしまった今、技術がもっとも不足しているのがフレミングでした。
(というか、ミッロは、もしやそれを隠蔽するための帰宅?)
グティエレス、この人もあの趣味の悪い装飾歌唱をなんとかできれば、今すぐにでもヴィオレッタを歌えそうだし、
ストヤノヴァに関して言えば、彼女が一フレーズ歌っただけで、
私はあの、スーパー・パフォーマンスが脳裏に蘇ってきました。
この二人はやっぱり技術がしっかりしてます。
そして、楽しかったのはザジック。メゾが決して歌うことのないパートなので、
おどけて楽譜を掲げながら熱唱。
もちろんグティエレスやストヤノヴァのように、軽いソプラノの役を持ち役としている歌手の声ほど
軽くは動きませんが、彼女もテクニックはしっかりしていて、フレミングよりずっと音が転がってました。
しかし、私がもっともあぜんとさせられたのはスコット。
この方が若かりし頃、ベル・カントを得意としていた、というのは聞いたことがあっても、
実際の舞台では体験したことが当然なかったのですが(彼女は1934年生まれ、現在74歳)、
彼女から一フレーズ出てきてびっくり。
もちろん、お歳のせいもあって、声量はないですが、その一音一音のいかに粒が揃っていることか、、。
長年かけて実につけた真のベル・カントの技術は年齢を重ねても消えることはないのだわ、
と感動の思いでした。

ということで、先にあげたミッロの『トロヴァトーレ』の歌唱で、
彼女のコロラトゥーラの技術が冴えないのは決して年齢のせいではない、
との思いをますます強くしたのでした。

アンコールには、再び”乾杯の歌”。
タッカー・ガラの時にも感じましたが、同じ曲を二度やるってのは、ちょっとダサいです。
来年からは二曲目のアンコールの準備をお願いしたい。

* 3/8現在、NYタイムズのレビューに、ミッロとザジックが『ノルマ』からの曲を歌ったような
記述がありますが、正しくありません。NYタイムズの公演レビューは、時に、
きちんと全てを見聴きしないで書いているのではないかと思わせる場合があり、
フィガロ・ジャポンに続いて、けしからん話です。

** 追記:3/9には、上のNYタイムズのレビューに、何の表示もなく修正が入り、
(通常は、最初の稿に修正が入るとその旨の表記がある。)
今度は、ドローラ・ザジックがスティーブン・ガートナーと共に
『トロヴァトーレ』からの二重唱を歌ったことになっていますが、これも誤り。
そもそも、この二重唱は、ソプラノであるレオノーラとバリトンのルーナ伯爵の二重唱なのであって、
メゾのザジックが歌うわけない。
しかもザジックとミッロ、全然違う色のドレスを着てたのに、何で間違うんだろう?
いい加減すぎです。

*** 追々記 その後、やっと正しい表記に修正された模様。(3/10)

Renee Fleming, Soprano
Eglise Gutierrez, Soprano
Aprile Millo, Soprano
Krassimira Stoyanova, Soprano
Dolora Zajick, Mezzo-soprano
Bryan Hymel replacing Stephen Costello, Tenor
Marcello Giordani, Tenor
Stephen Gaertner, Baritone
Daniel Mobbs, Bass-baritone
Host: Renata Scotto, Soprano
The Opera Orchestra and Gala Chorus
Conductor: Eve Queler

Parq B Even
Carnegie Hall Stern Auditorium
***OONY Gala Opera Orchestra of New York オペラ・オーケストラ・オブ・ニュー・ヨーク ガラ***

OONY GALA  (Thu, Mar 6, 2008) 前編

2008-03-06 | 演奏会・リサイタル
イヴ・クエラー率いるオペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク(OONY)は、
コンサート・スタイルのオペラを年に数本公演しているオペラ・カンパニーですが、
年に一回開催されるガラも人気のようです。

私の場合、どちらかというとガラよりもオペラの全幕公演のほうが好きなのと、
ガラの場合、歌ってくれる歌手がよくないと話にならないので、
ガラのチケットの購入に関しては超慎重です。
例年、メトが主催するガラとリチャード・タッカー・ガラくらいにしか行かないのはそのせいでもあります。

しかし、今年のOONYのガラのラインアップを見て私の目は釘付けに。
私が長年お慕い申し上げているドローラ・ザジックに、
去年の『椿姫』のスーパー・パフォーマンスと、今年の『カルメン』のミカエラでも大活躍だった
クラッシミラ・ストヤノヴァ、
そして『ルチア』のアルトゥーロおよびエドガルドでの歌唱を聴き
今シーズン最も注目した新進テノールの一人、スティーブン・コステロ。
いや、もうこの三人だけでも、絶対聞きに行きますですよ。

その上に、ルネ・フレミング、マルチェロ・ジョルダーニ、アプリーレ・ミッロ(!)などが加わり、
そしてホストは、なんとレナータ・スコット!!!という豪華な布陣。

会場のカーネギー・ホールに到着し、開演前にお茶でも、とラウンジに行くと、
隣に立っていたお兄さんが、
”君は、今日、誰を聴きに来たんだい?”というので、
”ストヤノヴァとコステロに、、”と言い始めると、
”どの楽器の人?”と言われ、は?

”どの楽器って、、、歌ですけど、、、”っていうか、
大変失礼だとは思いながら、有名オケじゃあるまいし、歌以外の個別の楽器なんて聴きに来てる人、
ここにいるの?って感じなのですが、よくお話を聞くと、どうやら、合唱で参加している
ソプラノの方のボーイ・フレンドだそうで、ソリストよりもOONYのオケや合唱のメンバーの人に
お知り合いが多いよう。
なるほど、地元のカンパニーだけあって、身内の人も多いんだわ、と納得。
そして、ガール・フレンドのお名前も教えてもらって、”知ってる?”といわれたのですが、
”いえ、知りませんね。”と言うしかありませんでした。
ごめんなさいね、でも本当に聞いたことがないから、、。

さて、チケットを取る際、事務局から”素晴らしい席が残ってる”と言われてあてがわれた座席ですが、
ガラが始まって、嘘つけ!と叫びたくなりました。
確かに、平土間前から二列目ということで、歌手の方の表情なんかは、
距離的にはっきり見えるはずで、それはそれでよろしいのですが、
座席は、かなり舞台上手側に寄っていて、
一人で歌うピースの場合、ことごとく歌手が指揮者クエラーの向こう側(つまり下手側)で
歌うので、クエラーの影になって、ほとんど姿が見えない。
デュエットの時だけは、舞台の上手側に二人とも来て歌ってくれたので、
歌手の姿が見えるのはその時だけ、、。
ルネ・フレミングの姿が完全にクエラーの、びらびらした妙なドレスにかぶさって見えなかったときには、
隣のオペラヘッドのおばちゃまも半分あきらめ状態で、"Oh, god! (まったく!)"とお嘆きでした。
来年も行くとしたら、舞台下手側限定で、と固く決意。

しかし、声はきちんと聴こえましたので、聴いてきたとおりのことをレポートさせていただきます。

さて、いきなり舞台に姿を現した事務局の男性。
”おそらくお気づきになるとおり、プログラムが少し前後したりすることはありますが、
(これも大嘘。前後したのみならず、変更になったり、なくなったプログラムもあった。こちらは後ほど。)
全ては予定どおりです。
EXCEPT... (でたーっ!ゲルプ氏も最近使う落とし技。”次のことを除いては”の意。)
スティーブン・コステロが気分がすぐれず(feeling indisposed)、リゴレットからのアリアは、
ブライアン某が歌います。”

もう、私はこのアナウンスを聴いた時点で、めまいを起こして倒れるかと思いました。
ブライアン某、って誰よ!私のコステロはどうしたのよ!!!!
しかも、ブーが飛ぶかと思えば、皆さん、割りと大人しくふーん、という表情で聞いている。
もっと、コステロの知名度を高める運動を起こしていかなければ、との決意を新たにしたのでした。
しかし、考えてみれば水曜日のルチアのアルトゥーロで少し不調に感じられたのは、やはり、、。
確かに、今の彼のようにまだ評価が確立していないところで無理をおして歌って、
このガラも土曜のメトのルチアのアルトゥーロも中途半端になっては致命的ですから、
彼の歌を今日聴けないのは、私としては非常に残念ではありますが、
しかし、この決断は正しく、勇気あるものとして支持したいと思います。

事務局の男性に代わって現われたホスト役のレナータ・スコット。観客からリスペクトの拍手がとびます。
スコットは70年代を代表するソプラノで、ベル・カントものも得意でしたが、
段々と重ための役に移行していき、
蝶々夫人やミミ役で素晴らしい歌唱を残しているのは、オペラヘッドの方ならご存知の通り。
1/19には、その彼女が1977年にパヴァロッティと歌ったラ・ボエームがラジオで放送されました。
現在は、後進の指導等にあたっていて、ネトレプコの歌の先生でもあります。
あいかわらず元気一杯の彼女。
いつぞやのラジオ放送の例もあるとおり、スコットは喋りだすと止まらないので、
いつマイクを離してくれるか心配でしたが、何とか一曲目にたどり着いた模様。

さて、その一曲目に予定されていた『ワリー』のアリア、”さようなら、ふるさとの家よ Ebben?.. Ne andro lontano"
を歌うはずだったラトニア・ムーアというソプラノもキャンセルしたために、
このアリアはカット。
そうそう、そういえば、このガラにフィリアノーティも出演するような話がある時点ではあったはずですが、
今、『ルチア』のエドガルドをメトで歌っている彼の名前もさりげなくプログラムからはなくなっていました。
コステロと共に、正しいチョイスです。

というわけで、ブライアン某のリゴレットのアリアからスタート。

 ヴェルディ『リゴレット』から”風の中の羽根のように(女心の歌) La donna e mobile "
いつまでもブライアン某ではあんまりなので、フルネームを。
Bryan Hymel。ブライアン・ハイメル?聞いたことないです。
いきなりのリプレイスメントで大変だったと思いますが、残念ながら、
今日登場している他の歌手とは、少しレベルが違うかも。
ものすごく緊張していたようで、特に前半で声が揺れていたのと、
最後の高音が微妙にフラットしていました。
しかし、緊張で声が揺れるなんて、
あのナショナル・グランド・カウンシルの参加者たちには一人もいなかった。
緊張するのは自然な現象で悪いことでも決してないですが、舞台で活躍していくためには、
その緊張が声に出ないようコントロールする力を身につけていかなければいけないと思います。

 ベッリーニ 『清教徒』からエルヴィラの狂乱の場 
”あなたの優しい声が Qui la voce sua soave... vien diletto"
エグリーズ・グティエレスというソプラノ、私は今回初めて聴きました。
お隣のオペラヘッドのおば様が”彼女はいい歌手よ”という通り、
声は素晴らしいものをもっていると思いました。
きれいで、しかも温かみのある声で、コロラトゥーラの技術もなかなか。
ただし、私が彼女の歌で決定的に好きになれない理由が一つ。
それは、ヴァリエーション(装飾音のつけ方)のセンスが悪すぎること。
それこそ、”なんじゃ、こりゃあ?!”と叫びたくなる音が一つや二つではありませんでした。
綺麗な声なので誇示したくなる気持ちもわからなくはないですが、
変な箇所で通常歌われる音の一オクターブ上の音を出そうとするのは趣味が悪すぎないですか?
そして、それが必ずしもぴったりの音が出ていないときすらあり、
なんでまたあえてそんなことを、、、と泣きたくなってきます。
普通に歌ってくれていれば、素晴らしい歌が聴けたであろうに、、。
技術があるのに、その使い方が間違っている例。
でも、ヴァリエーションのセンスばっかりは洋服の趣味と同じで、
なかなか治らないかもしれないので、私は非常に心配です。
きちんと歌唱のひだを治してあげられる先生がつけば、素晴らしい逸材なのに、本当にもったいない。

 マイヤベーア 『ユグノー教徒』から ”それはもう聞いた Tu l'as dit "
ストヤノヴァとジョルダーニの二人。
ちょっと、ちょっと、ちょっと。ジョルダーニ、楽譜を持って出てきましたよ。
ありえません。ガラで歌う曲を楽譜を見ながら歌うなんて、ふざけるな!と言いたい。
彼が第一声を発した時から、”こりゃ終わってる”と思いました。
というのも、風邪か何かか、声のコンディションがひどい。
が、しかし、それだけではありません。私はこのブログでも、なぜ彼の歌唱を買わないか、ということを
口をすっぱくして訴えてきましたが(例えば、ここ)、
風邪のせいで増幅されているとはいえ、今日のこの曲での彼の歌唱には、
彼がいつも持っている歌唱の欠点が凝縮されていると思いました。
うろ覚えのように聴こえるメロディー、音のずりあげ、、、
そのうえに風邪のために高音も出ていないのですから、最悪です。
よく、これで出てきて歌ったものです。コステロなんかと違って、自分はそこそこの名声があるので、
一回くらいひどい歌唱でも傷がつくまい、とでも思っているのか?
代役がいなくてやむをえず登場したのだとしたら気の毒ではありますが、
それでもこんな歌唱は、いくらなんでも観客に不誠実ではないでしょうか?
しかも、キズがつかない程度の名声がすでに自分にはある、と思っているところも、何とも能天気ではあります。
それにひきかえ、ストヤノヴァ。
この人は、いつもこうやって、貧乏くじばかりをひいているような気がしますが、(カルメンの件といい、、)
いつも全力投球なのが素晴らしい。
しかも、それぞれの曲のスタイルをきちんと理解して歌っているところも素晴らしければ、
どんな曲を歌っても、”私、私”とならずに、
きちんとバックのオケと声が溶け合っているところがすごいです。
彼女のプロフィールによれば、オケのヴァイオリニストとして音楽のキャリアを始めたという経緯があり、
その辺のことが、その高い音楽性にあらわれているような気がします。
それから、写真で見るよりもこの人は実物の方が綺麗。
髪を黒く染めたようですが、ショートカットとあって、とても似合っていました。
舞台でも常にまわりの人に細かい気遣いを見せ、がつがつしていないところが素敵だな、と思います。
なんと、その彼女のNYデビューはメトの舞台ではなく、このOONYの舞台だったそうですから、
彼女の才能にいち早く目をつけたクエラー女史はなかなか見る目があると言わねばなりません。

 ヴェルディ 『トロヴァトーレ』から 
二重唱 ”私の願いを聞いてください Mira, di acerbe lagrime "
アプリーレ・ミッロが80年代から90年代を代表するすぐれた歌手だったことを認めるのにやぶさかではありませんが、
こちらのDVDで彼女の最盛期の頃の歌が聴けます)
そろそろいい加減にしていただきたい、と思わないでもない。
妙な固定ファンがついていて、ほんの数年前までメトの舞台でも主役をはったりしていましたが、
もう歌は正直、ほとんど聴いてなんら魅力のあるものではありません。
それでも、ザジックと『ノルマ』からの二重唱を歌ってくれる予定だったので、
それなら、、と我慢もしようと思っていたのですが、
いきなりスティーブン・ガートナーと組んだ『トロヴァトーレ』に変更。
まあ、この『トロヴァトーレ』の旋律に現われる細かいパッセージもミッロはぼろぼろだったので、
『ノルマ』を歌ったとしても推して知るべし、という感じです。
というか、そもそも、声が衰えているからという問題よりも、きちんとしたコロラトゥーラの技術が
この人にはないのではないかとすら思わされました。
この件については、後ほどまたふれようと思うので、この辺で。

 ドニゼッティ 『ファヴォリータ』から
”おお、私のフェルナンド O mon Fernand "
ザジックの登場。この人はやっぱり貫禄の歌唱。
ただし、ものすごく細かいことを言えば、迫力ある高音と低音は健在ですが、
むしろ、その間の中間の音での微妙なニュアンスが昔ほど繊細に表現できなくなっているような
印象を持ちました。
以前の彼女は、高音から低音まで非常になめらかな音程と音量の調節が可能で、
それが魅力の一つだったのですが、、。

後編に続く>

(写真は、右上から時計まわりにアプリーレ・ミッロ←ちなみに今は恰幅が出て、
全然こんなかわいらしいルックスじゃない。いつの写真よ、これ?
マルチェロ・ジョルダーニ、クラッシミラ・ストヤノヴァ、レナータ・スコット。)


Renee Fleming, Soprano
Eglise Gutierrez, Soprano
Aprile Millo, Soprano
Krassimira Stoyanova, Soprano
Dolora Zajick, Mezzo-soprano
Bryan Hymel replacing Stephen Costello, Tenor
Marcello Giordani, Tenor
Stephen Gaertner, Baritone
Daniel Mobbs, Bass-baritone
Host: Renata Scotto, Soprano
The Opera Orchestra and Gala Chorus
Conductor: Eve Queler

Parq B Even
Carnegie Hall Stern Auditorium
***OONY Gala Opera Orchestra of New York オペラ・オーケストラ・オブ・ニュー・ヨーク ガラ***