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Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

L'ENFANT ET LES SORTILEGES (Sun, May 3, 2009) 前編

2009-05-03 | メト以外のオペラ
先行きのわからない経済不況に、アメリカの比較的小規模のオペラハウスの中には
閉鎖に追い込まれたものまで出始めていますが、そんな中、ふと私は気づきました。
今まで、アメリカのオペラハウスでは、メトとNYシティオペラとアマート・オペラ以外には
行ったことがない、ということに。
これはいけませんっ!!
特に、このカンパニーや劇場は一目見ておかないと後悔するかもしれない!という場所は、
今のうちに行っておかないと、いつ何が起こるかわからないこのご時世、
”ああ、あの劇場を存命中に観ておくんだった、、!”と後悔しても後の祭りです。

全米のオペラハウスを訪ねてまわるほどの時間と金銭の余裕は今の私にはありませんが、
前から行きたい!と気になっていて、NYからの日帰り射程距離内にあるのが、
フィラデルフィアにあるアカデミー・オブ・ミュージックを本拠地の一つとする
オペラ・カンパニー・オブ・フィラデルフィア(以降、フィラデルフィア・オペラと表記します)です。
アカデミー・オブ・ミュージックはフィラデルフィアのランドマーク的存在ともいえる建物で、
フィラデルフィア・オペラの他にもペンシルベニア・バレエなど、複数の団体が公演に使用しています。




所有は”あの”フィラデルフィア管弦楽団で、最新鋭のホール、キンメル・センターが出来るまでは、
彼らもこのアカデミー・オブ・ミュージックを本拠地としていました。
開場は1857年。
もともとオペラハウスとして建てられた建築物で、
当初の目的通りに現在も機能しているグランド・オペラハウスとしては、全米最古のものです。
(ご存知の通り、メトは1966年にブロードウェイ39丁目の旧所在地から、
現在のリンカーン・センターに移っているので論外なのですが、その旧メトですら、開場年は1883年。
アカデミー・オブ・ミュージックは、それよりも歴史のあるオペラハウスということになります。)
この劇場で歌った歌手には、マリア・カラス、エンリーコ・カルーソらが含まれ、
スコセッシの映画『エイジ・オブ・イノセンス』には、このアカデミーで撮影されたシーンも含まれています。

現行のオペラシーズンの方も、メトにも登場している
若手歌手を交えた魅力的なキャスティングが時々見られ(いつもではありませんが)、
また、フィラデルフィアは音楽教育の水準も非常に高い街で、カーティス音楽院や
AVA(アカデミー・オブ・ヴォーカル・アーツ)がありますから、
メトよりは小規模ながら、きっと充実した公演を繰り広げているのだろう、と、
ずっと”いつかは行きたいオペラハウス・リスト”の上位に入っていたのです。

実は数ヶ月前に、フィラデルフィアで『トゥーランドット』の公演があって、
これは、リューをあのエルモネラ・ヤホ嬢が歌い、トゥーランドットがフランチェスカ・パターネーが歌うということで、
ものすごく観に行きたかったのですが、あまりにメトの鑑賞スケジュールが立て込んでいて、
日帰りが出来る旅程は組めないということが発覚。
ショックを受けた頭でしつこくフィラデルフィア・オペラのサイトを閲覧していたところ、
5月の『子供と魔法』と『ジャンニ・スキッキ』という不思議な取り合わせのダブル・ビルの後者の方に、
スティーブン・コステロが出演することを発見し、これなら何とかメトの公演の隙間の日曜日を使って
日帰り出来そうな見込みがたったので、早速チケットを購入しました。

各オペラハウスで初めてのチケットを買う時というのはいつも一苦労です。
というのは、劇場の大きさや空間の感覚もわからないし、どの席が良いか、というのも座席表を見ながらの勘。
結局、パーケット・サークルと呼ばれるエリアのボックス席の後ろの外野席最前列をネットで確保。
$118という値段も地方(シカゴに続いて地方、地方言うな!と怒られそうですが。)の劇場にしては、
まあまあな値段ですし、座席表で見る限りは、悪かろうはずがないではありませんか!
一年ぶりにコステロが聴けるのですもの、久しぶりの日帰り旅行ですもの、これくらいの座席は当然!です。

開演は昼の2時30分ということなのですが、
オペラだけ観て帰ってくる、というのもあまりに愛想がないので、
朝は早めに家を出て、フィラデルフィアでフィリー・チーズステーキでも昼食に食べて、
ぷらぷらと街を探索して、オペラ鑑賞!という具合に漠然としたプランを前日に頭の中で立てていたのですが、
当日起床してあまりの部屋の薄暗さにびっくり。何でこんなに暗いんだろう、?と思ったら、
きゃーっ!! 雨がざんざか降ってますぅ 

せっかくの日帰り旅行デーになんでこうなるのーっ!!!!

最近、さらに拍車がかかっている私のオペラヘッドぶりに”なんか最近の君、こわい、、。”が口癖な私の連れは、
今回は仕事が忙しく同行不可。
オペラを観るためにフィラデルフィアに行くと言い出したのに至って、
やっと何を言っても無駄だとあきらめがついたようで、
日曜の朝9時に傘を抱えてすっかりやる気満々で外出モードに入っている私を快く送りだしてくれました。
行ってまいります!!!!

フィラデルフィアに行く方法は何通りかありますが、車を所有しない私はアムトラックによる列車ルートを。
NYのペン・ステーション(NYにあるペンシルベニア駅のこと)から、フィラデルフィアに行くアムトラックの列車は、
ノースイースト・リージョナルをはじめとする一般のサービスと、
アセラ・エクスプレスという名で知られている超特急があります。
(感覚としてはこだまとのぞみ、みたいな感じでしょうか。)
この二つ、アセラの方が数十ドルお高いのですが、断然リージョナルがおすすめ。
というのは、アセラはボストンからワシントンDC間の大きな都市ををつないでいる超特急列車で、
おそらくアムトラックの中では最も快適な列車ではあるのですが、本当に良く遅れます。
30分なんていうのはざら。しかも列車はすでに北からやってきたお客さんで寿司づめ状態です。
高い料金を払っても意味なし、です。(ちなみに、フィラデルフィアはNYの南。)
ノースイースト・リージョナルは、ボストンからヴァージニアのニューポート・ニュース間を結ぶ路線で、
アセラより停車する駅が多いのですが、
なぜかアセラより座席が空いている傾向にあって、しかも、フィラデルフィアだと、
もともとたった一時間半程度の走行時間なので、アセラとかかる時間はほとんどかわりません。
リージョナルなら何か特別な日でもない限り、ネットでチケットを予約しなくても、
駅の券売機で買うので十分。30分おきに一本くらいのペースで列車があるので、
座席がとれない、なんてことは滅多にないです。

ちなみに、フィラデルフィアから帰ってくる方も、私は券売機で一番直近の便を買うのが便利だと思いました。
というのも、終演後、どれくらいで駅に行けるかというのを計るのは難しいですし、
リージョナルでももちろん遅れはあるのですが
(アムトラックに日本のJRのようなサービスを期待してはいけない。)、
ネットで固定された時間の列車のチケットを買ってしまうと、窓口で交換しない限り、
その指定の便が来るまで意味なく待ちぼうけ、ということになってしまいます。
券売機は予定発車時刻を過ぎていても、まだ列車が実際に駅に到着していない便については、
きちんと選択肢として上がってくるので、”本当はすでに発車しているはずの遅延列車”に運良く滑り込むことが可能です。
今回、私も実際、滑り込みました。
ただし、恐ろしいのは、さすが、アムトラック、
時に、すでに発車してしまった便までスクリーン上の選択肢にあがってくる場合もあることで、
そんなチケットを買っても何の意味もないことは言うまでもありません。
(乗車時のアムトラック職員によるチェックで、”この切符は無効です。”と言われる。
このチェックは結構厳重で、以前、私は乗り遅れてしまった一本前の列車のチケットを、
新しいものに交換せずにゲート突破しようとしましたが、あえなく、職員に駄目出しされました。
よって、列車内で切符の購入はできない、ということなのだと思います。)
なので、どの列車が到着待ちになっているか、ボードに目を光らせつつ、
その便のチケットを素早く購入するのがポイントです。
ちなみにリージョナルのチケットも時間帯やらによって微妙に値段が違っているのですが、
片道で60ドルから90ドルの間あたりにおさまります。

一時間半列車内で爆睡するもよし、iPodするもよし、NJの殺風景な風景を眺めるもよし、、
言っているうちにすぐ到着してしまうのが、フィラデルフィア30丁目駅です。
ここから市の中心地までは、タクシーで。
タクシーはもう駅前にうようよ停車しているので、あぶれる心配はまずありません。
NYのイエローキャブみたいな統一した制度はなく、
日本同様、私営のタクシー会社が個別にサービスを提供する形になっています。
ものの5分ちょっとで街の中心に到着。
いくつかの大きな目抜き通りを除いては、NYよりもこじんまりとしていて、
平均して1ブロックはNYのそれより小さめです。

アカデミー・オブ・ミュージックは、ブロード・ストリートとローカスト・ストリートが
交わるところにありますが、開演30分前にならないと開場しないですし、
劇場付きのボックス・オフィスも私が到着した11時の時点では開いていませんでした。
しかし、ノー問題!
北に一ブロック半行くと、例のフィラデルフィア管の現レジデンス・ホールである
キンメル・センターがあり、
ここのボックス・オフィスが、まだ開いていないアカデミー・オブ・ミュージックのボックス・オフィスの
代わりの役目を果たしてくれます。
こちらの名前を伝えると、感じのよいおばさまがすぐに印刷されたチケットを持ってきてくださいました。

開演までおよそ3時間半あるので、雨が猛烈に降るなか、
”フィラデルフィアのヴィレッジ(注:NYのグリニッチ・ヴィレッジのこと)”とも形容される、
リッテンハウス・スクエア地区に向かって歩いてみました。
オペラハウスのある場所から歩いても、せいぜい10分くらいでしょうか?
地図で見ると大きく見えますが、中心エリアは十分、徒歩で賄える距離です。
NYよりも通りが細く、ほとんどが一方通行なので、ここで車を運転するのは慣れるまで大変そうですが、
歩いている分には、アメリカの都市にしてはヨーロッパ的な落ち着いた雰囲気を感じさせる部分もあって、
なかなかチャーミングな街です。
しかも、食べる場所にはこと欠かない感じで、かわいいお店がたくさんあります。

フィラデルフィアは、フィリー・チーズステーキという、
ホットドッグのウィンナーの変わりに、パンに牛の細切れ(玉ねぎが入っている場合も。)を炒めたものをはさみ、
その上にどろんとしたチーズ(注:このチーズが、各お店の特徴の決め手になっていて、
チーズウィズという練りチーズのようなものから、アメリカン・チーズを使用するお店など色々。)
がかかっている、という、いかにもアメリカ的な不健康そうな、
食べただけで血管が詰まりそうな食べ物が名物で、最初はせっかくフィラデルフィアに来たので、
これを食べよう!と意気込んでいたのですが、
リッテンハウス・スクエアに割と最近開店したらしいという、人気店の支店を目指して歩いたところ、
まさに、これから野球観戦をしようかという”野郎ども”にこそ似合いそうな店の佇まいに、
これからオペラを観るのに、これはないよな、、という気分になってしまいました。

なので、雨が降る中を日用品の買い物に出てきたらしい、ローカルのおじ様を捕獲。
このあたりでおすすめの食事どころを尋ねると、PARC(パルク)というお店を紹介してくれました。
(ウェブサイトは音楽が出ますので、ご注意を。)
リッテンハウス・スクエアを真正面に見据える18丁目のべたべたなロケーションですが、
中がものすごく広くて、適度な騒々しさがかえって居心地いいカフェです。
こういうレストランのレセプションにいる女性って、ルックスはいいのに
ちょっととぼけている、というタイプの人が多いですが、
このお店、すごく人気があって、長蛇の列だったので、”待ち時間はどれくらいですか?”というと、
”外のテラス席ならすぐに座れますが。”と言われた時には固まりました。
こんな土砂降りに何を言っとんじゃ!という感じなので、彼女をすっ飛ばして、
隣に居たフロアを取り仕切っている男性マネージャーに交渉すると、
すぐに奥のスペースの座席に案内してくれました。
ブランチのメニューが充実していますし、味も悪くなく、劇場からも割と近いので、
オペラの公演前に食事をするには好都合のお店。
フィリー・チーズステーキの屋台のような店よりは、オペラ前の食事としては
こちらの方が雰囲気かもしれません。
ローカルのおじさん、グッド・ジョブ!です。

さて、降りしきる雨の中を逆行し、再びアカデミー・オブ・ミュージックへ。
天候のせいで外が暗いからでしょうか?それともマチネでもいつもそういうしきたりなのか、
エントランス外にある大きなランタンに本物の火が掲げられているのは雰囲気あります。
開場当時、馬車で公演を観にやってきた観客は、ここで降り立ったのかな、と想像させます。

開演35分前。雨の中、観客が狭い玄関口に溢れかえっているというのに、
律儀にも扉は閉じられたまま。5分くらい融通利かせてくれればいいのに、、。
いよいよアッシャーたちが扉を開くと、現代のフィラデルフィアのオペラヘッドたちがわらわらと入場。

いくら古い劇場とはいえ、あちこちきちんと手直しをしていることもあって、
ホールの外にいる間はそれほど感じないのですが、
劇場の座席エリアに足を踏み入れた途端、ああ、やっぱり古い建物なんだなあ、というのが
一気に実感として襲ってきます。
アカデミーの正式な座席数はわかりませんが、空間の感覚としてはメトの半分くらいの感じでしょうか?



メトはオーディトリアム内の写真撮影は禁止になっているので、
当然のことながら、この、国の登録史跡にも入っている由緒あるアカデミー・オブ・ミュージックで
カメラのシャッターを切るのはご法度だろうと思いきや、
アッシャーに確認すると、”開演前ならご自由にどうぞ。”という拍子抜けするような返事。
逆にそんな歴史のある文化資産だからこそ、写真撮影OKなのかもしれません。



柱の装飾、天井画など、細かいところが、凝りに凝っているのですが、
開演前もものすごく薄暗く、ほとんど光がないため、私の撮影した写真ではお伝えしきれないのが残念です。
(冒頭の写真はアカデミーのサイトのものなので、詳細が良く見えると思います。)
この劇場のシンボルの一つともなっているシャンデリアは開場当時、
ガス・バーナー式だったそうですが、現在はもちろん普通の電気。
ただし、ものすごく大きくて重そうなシャンデリアで、
今度来ることがあっても、あれの下には絶対に座らないでおこう、と思いました。


(今シーズンの頭にリノベーションされたシャンデリア。
こちらの写真もアカデミーのサイトより。右下の人のサイズと比較してみてください。)

劇場は地階から上に向かって、パルケット、バルコニー、ファミリー・サークル、
アンフィシアターという順に名前がついているのですが、
私が座ったパルケットはメトでいう平土間席。
ただし、メトと明らかに違うのは、平土間の真ん中に半楕円形を作るようにして、
ボックス席が設置されていること。(座席表はこちら。)
そのボックス席を境に内側は野球の内野のような感じなのですが、外側はさしずめ外野席。
私はこの外野席の一番前の座席だったのですが、ボックス席の客が現れてぼー然。
なぜなら、ボックス席の椅子が異様に背が高いのです!!
そして、その上にとどめを刺すかのように、私の目の前のボックスに着席したのはデルモのような男、、
私の隣に座っていた小柄なおばあちゃまは、頭から湯煙をあげながら、
”ちょっと!あんた!あたし、こんな視界のために高いチケット代払ったんじゃないのよ!”と大激怒。
申し訳なさそうなデルモ男はおばあちゃんが見えやすいように、、とボックスの壁に擦り寄りましたが、
それ、私が座ってる目の前なんですけど、、、これでは、何も見えん、、。
激怒のあまり、”ありがとう”の言葉が出ないおばあちゃまに、
デルモの連れの女が嫌みったらしく”どういたしまして!”と叫ぶ。
(お礼の言葉、忘れてねえか?というのをこういう嫌味で表現するのです。)

しかし、考えてみればボックス席に座っている彼らは私たちより高額なチケットのはずなわけで、
彼らが遠慮しながら観なければいけない、というのも、おかしな話。
これは、今の感覚で言うと、設計ミスに入るようなとんでもない欠陥ですが、
かつて、オペラハウスの中に、はっきりと金持ちと般ピー&貧乏人の観客の間に壁があった頃の
明らかな名残で、非常に面白いな、と思いました。
当時はこれが当たり前だったわけです。
金を持ってない人間は我慢しろ、ちゃんと舞台が観れるなどと思うな、ということです。
ああ、この堂々とした露骨さ!!
当時はおばあちゃまみたいに金持ちに、”サイドに寄って!”なんてことを言える貧乏人はいなかったことでしょう。
平等な世の中になったもんです。
現在のメトは、基本、この”平等な世の中”の理念のもとに設計されているんだな、というのを
つくづく感じました。
目の前に自分の座席より背の高い椅子があるような不条理な座席はメトにはありませんから。

結局、開演直前になっても真後ろの席が埋まらなかったので、一列下がることが出来ましたが、
これだけで、視界は大違い。
間違っても、ここではボックス席の真後ろの列に座ってはいけない。いい勉強になりました。

<公演については後編に続く。キャスト等も後編に掲載します。>


*** ラヴェル 子供と魔法 プッチーニ ジャンニ・スキッキ Ravel L'Enfant et les Sortileges
Puccini Gianni Schicchi ***

LA BOHEME (Sun Mtn, Jan 13, 2008)

2008-01-13 | メト以外のオペラ
オペラにのめりこむようになって一番変化したこと、それはカラオケに行く回数かもしれません。

学生時代には、バイト先の社長さんがそれこそカラオケ狂いだったこともあり、
”今日も、これ、行く?”とマイクを持つ手振りをすれば、
ほとんど断ることなくお供をさせていただいたために、
それこそ週一から週二ペースで、社長お気に入りの地元のスナックを貸切状態にして、
九時頃スタートして、夜中の一時、二時まで歌いまくったものでした。

しかし、オペラを聴くようになってからというもの、
1)ごく近い年齢のごく親しい友人と行く場合
2)仕事上の接待など、断りきれない場合
以外は一切行きません。

それは、オペラで魂にふれる歌を知り、そして歌手の人たちがそのような歌を歌うために
どのような精進と努力を積んでいるかを知るにつけ、
カラオケで、自分で歌うのはもちろんのこと(←下手くそ)、
人の歌を聴くのも(←上手い人であっても)なんだか違和感を感じるようになってしまったのです。
週一でカラオケに通った過去を持つ私ですから、
歌を歌う楽しさ、というのはわかるのですが、人に聴いて頂く、という部分がひっかかるのだと思います。
こればっかりは、理屈でなく、ただそう感じるようになってしまったので、しようがありません。

ただ、1の場合は、もはや懐メロの域に達している我々の青春時代の歌(邦楽、洋楽ともに)
を思い出しつつなごむ、というまったく別の次元の楽しみがあるので、許容範囲。

このような考えを持つうえに、オペラの最高の楽しみと喜びは、
”心に響く究極・至福の公演に出あうこと(ブログのプロフィール欄参照)”にあり、と断言しているくらいなので、
それを可能にする最高の才能と努力と精進が出会う場所を求めるのは自然のなりゆきであり、
そして、NYに居たらば、メトがまさにその場所であることに異議を唱える方はいないことでしょう。

NYにはメトの他にもオペラを上演している組織はシティ・オペラをはじめいくつかありますし、
彼らの公演の中には感動的なものも、すぐれたものもあるでしょう。
しかし、それを言い始めると、プロ、アマふくめ、すべてのオペラ公演に通わざるを得なくなります。
私のモットーには、”限られた時間と財力でいかに究極の公演に出会うか”という
しばりもありますので、
確率の問題として、私はメトに通い続ける。
これが、私がNYではメト以外のオペラにほとんど行かない理由です。

そんなメト・オンリーの私に、先週末、連れが、言い出した。
”ちょっと理由があって、アマート・オペラに行きたいんだけど。”

アマート・オペラ、、、、

今年60周年を迎える(ということは、1948年創立!)、
アマート夫妻によって運営され続けて来たオペラハウスで、
(ただし、奥様のサリーさんは2000年に他界されたので、現在はアンソニーさんが切り盛りしている。)
ロウアー・イースト・サイドのバワリー通り沿いにあります。
本当かどうかは知らないけれど、歌い手さんの中には、お金を払って歌わせてもらう人もいるとか、、。
と、そういう話を聞くと、なんだかカラオケのイメージがダブって、
つい気分もげんなりしてしまうのですが、しかし、オペラはオペラ!と気を取り直して演目しらべ。
13日に『ラ・ボエーム』の最終公演日があって、その後の公演は『ドン・パスクワーレ』か。。
って、『ドン・パスクワーレ』なんて歌える歌手、連れてこれるの!?
(ちなみに、一昨年のシーズンのメトの『ドン・パスクワーレ』は、
ネトレプコとフローレスのコンビで、それはそれは楽しい舞台でした。)

このアマート・オペラのオペラハウスの雰囲気からしても、
話の筋、演目の長さ(短め!)からいっても、『ラ・ボエーム』がいいだろう、ということで、
演目は『ラ・ボエーム』に決定。

さっそく、オペラハウスに電話してチケットを手配。
クレジット・カードの番号を電話で伝えて、チケットは当日引取りということにしたのですが、
この電話をとったおじさんが、かなりやばい。
最初に、”来週日曜日マチネのラ・ボエームを二枚、一番いい席でお願いします”と言うと、
”明日のラ・ボエームね?で、何枚?”
・・・・。
”明日じゃなくって、来週の日曜で、二枚です。”
”そうそう、来週の日曜だった、来週の日曜。で、何枚?”
と、こんな調子で、ちーっとも話がすすまない。

それでも、やっと座席の指定の段階までたどりつく。
”一番いい席がいいんですが”と重ねていうと、
”いい席っていってもね、教室くらいの大きさだからね。どこからでもよく見えるけどね。
おっと!でも、バルコニー席の一番前列が空いてるよ。ここがいいね!”
ということなので、そのバルコニー席の最前列を指定。
”席番AAの5と6、しっかりメモってね。”というので、
”あんたもね!”と思いながら、AAの5と6、としっかり手元のメモに明記。
さっきまで、まるで志村けんがコントで演じるおばあちゃんを相手に話しているのかと
錯覚させるおとぼけぶりをかましていたおじさんが、
こちらのクレジットカード番号をメモる段階になると、なんだか急にてきぱきとしだした。
なんなんだ?

さて、そんなかみ合わない予約の電話から一週間。いよいよ公演の当日になりました。

開演20分前。オペラハウスの、というか、普通のビルをオペラハウスに改造したものですが、
(NYにお住まいの方は、普通のタウンハウス一軒分の幅を想像ください。)
周りにはお客さんの姿が。



今日の演目、『ラ・ボエーム』のポスターが掲げられています。



一番お客さんの到着の激しい時間に着いてしまったようで、
一人きりで全てをさばかなければいけない受付の女性はかなりテンパってます。
名前で探してもお取り置きされているチケットが見あたらない様子。
どんどん現れるお客さんのもぎりもしないといけないため、”ちょっとそこで待っていてください”
と言われたまま、ずっと立ちっぱなしでどんどん時間が過ぎていく。
もう一人、やはり私たちと同様に電話でチケットを手配した女の子も同じ目に遭い、
三人で立ちぼうけ。
やっと別のおじさんが現れて、私の座席番号を見ると、”おかしいなー、5番と6番は連番じゃないんだよねー。
奇数同士が連番だから、5番と7番っていうならわかるんだけど。”
”いや、そんなの知りませんよ。電話で5と6って言われたんですから。”と言うと、
じゃ、とりあえず、、、と、バルコニーの5番と7番に案内され、いざ座席にお尻が着こうとしたその瞬間、
またしても、いきなりさっきのおじさんが舞い戻ってきて、”ちょっとその座席待ったー!”と言う。
”その席は他の人のものかも知れない”といわれ、またしても入り口に戻された。
”なんだよー、この手際の悪さはー!”(しかも、立たされている場所がめちゃくちゃ寒い)と、
連れと例の女の子と私の三人でいらいらが最高潮に達しているところに、
おじさんが私に言い放った。
”君のチケット、名前でも番号でも見当たらないんだよねー。
だけど、覚えてるんだよ、確か、僕が電話の応対したよね。そうだよね?”

・・・。
そんなの知らないってば!!!
大体、あなたとも初対面なら、何人予約の係の人がいるかも知らないんですけど、こっちは。

でも。
このとんちんかんぶりは、確かに、あなたかもしれない。
というか、あなたに違いない!
そして、あんただな。でたらめな5番と6番なんて数字を寄こしたのは!!

結局、我々は最後まで散々立って待たされたあげく、平土間の後方の簡易座席、
メトだと、私が絶対座らないあたりの座席に無理やり着席されたのでした。

オペラハウスは、建物のベイスメント(地下)からおそらく3階までをぶち抜いた作りになっていて、
地下が平土間、二階がバルコニー席になっています。
きちんとオケピットもあって、その上(一階あたりか?)がちょうど舞台になっています。
舞台の幅は先ほどふれたとおり、普通のタウンハウスの横幅分マイナス緞帳がかかっている幅ですから、非常に狭い。
8畳のお部屋分くらいしか、自由に歌手が動き回るスペースはありません。

私たちが座っている座席のすぐ後ろには、お茶とおやつのコーナーがあって、
上演中ずっとコーヒーの香りが。
右隣すぐに、この平土間席の入り口があるため、空気の出入りが激しく、
暖房が効き始めるまで、異様に寒い。

一幕、ロドルフォたちが、貧乏生活をして、寒さに凍えているシーンも、リアルです。
なぜなら、実際、こっちも座席で凍えているから。
だって、観客みんな、外に居るときと全く同じ格好で震えながら座っているんです。
コートも何もかも身につけたまま、、、。

歌手については、レベルが珠玉混合。
お金を払って歌わせてもらっているという噂もなるほどと思わせるような、歌詞を棒読み、のレベルの人(ショナール役)から、
きちんと歌詞と音符は追っているものの声のスケールがプロのレベルでやって行くには厳しい人(マルチェロ役)、
そして、おや?かなりいい人がいるではないですか?と思わせる人(コリーネ役)、
はたまた、正しい指導とトレーニングを受けていれば、オペラの世界でやっていけるかもしれないのに、
と残念に思わせるくらいのレベルの人(ミミとロドルフォ)と本当にいろいろ。

あらゆる役の人のレベルがその役なりに高く、安心して見ていられるメトと違って、
アンサンブルの場面で、一人が音を外してぶち壊し!というパターンが多い。

それから、オケは当然フルのオケではなく、ピアノ中心の伴奏に、ホルン、トランペット、
オーボエ、くらいの超小編成オケなのですが、
(おそらくアンソニーさんが、このオケ用にスコアをアレンジしていると思われる。)
こちらも、歌がなかなか聴かせている!と思いきや、
あいの手で入った金管がぱぷーっ!と、素っ頓狂な音を立てたりして、
え?と驚かされます。

そんな感じで、音楽の面ではメトと比べようというのが無理な話なのですが、
しかし、一幕、ニ幕、と、聴きすすめているうちに、なんともいとおしい気分になってくるのです。
例えば、純粋に音楽的なことをいえば、多分ピアノの伴奏だけの方が、
あらも少なくてすむでしょう。
でもあえて、金管やら木管やらを入れる心意気。
一生懸命に演奏する奏者に、わざわざピアノ譜を使うだけでなく、自分の手をかけて、
金管と木管のアレンジを加えたアンソニーさんの心。

それを言えば、セットも。
私の小学校の学芸会で使った体育館の舞台の方がまだ大きかったと思わせる狭苦しい舞台に、
ぎっしりと組まれたセット。もちろん、メトのあの洗練された大道具には叶わないけれど、
各シーンのエッセンスが本当に上手く込められていて、これは、本当にオペラを好きな人でないと
組めないセットだな、と思わされる。
色使いなんかもなかなか巧み。

セットにしても、演出にしても、思いっきりメトのゼッフィレッリ版『ラ・ボエーム』
(今シーズンライブ・インHDで上映予定の『ラ・ボエーム』も、そのゼッフィレッリ版です。)
から失敬させていただいた!という箇所があるのですが、
それにしたって、”いいものはいい。頂いて何が悪い!”という心意気すら感じる。

そう、このオペラハウスでは、アンソニーさんをはじめとする、
このオペラハウスに関わる人の、尋常ならざるオペラへの愛を感じるのです。

それから、面白いな、と感じたのは、薄いオケと部分的に貧弱な歌唱のせいで、
よりプッチーニの音楽を直に感じれること。
特に、”冷たい手を”から”私の名はミミ”へのシークエンスは、
つい、オペラヘッドにとっては歌手の技量勝負の場面になってしまっていて、
メトなんかで聴くときには、”さあ、今日のテノールとソプラノはどんな歌を聴かせてくれるか?”
とそればっかりに集中してしまいがちですが、
歌手の力技以前に、まずは素晴らしい音楽が根底にあり、そしてそれにそっと寄り添うような歌詞があって、
もともと素晴らしい場面なんだな、ということを再確認できたのが、目からうろこ、でした。
厚いオケも何もなくっても、あの、”冷たい手を”が始まる導入部分のメロディーが響くと、
一瞬にして、ロドルフォとミミの二人が目の前の明かりが消えた部屋の中で語り合っていて、
そこはパリで、自分がNYのアマート・オペラにいるという事実を忘れてしまいそうになりました。

ロドルフォ役を歌ったインカルナートは、歌い方が粗野ですが、
良い指導を受ければ、非常に面白い素材を持っていると思わせるテノール。
”冷たい手を”のハイCは失敗してしまいましたが、連れも私も思うには、
その周りの音を聴くに、リラックスして、正しい体の使い方をもって歌えば、
彼の声なら必ずや出せるはずです。

一方、ミミ役を歌ったカイトリーは、一幕で少し声があたたまっていない、
息が浅いような響きだったのが気になりましたが、
ニ幕の後半あたりから、どんどんみずみずしい声になっていって、


(ニ幕、カフェ・モミュスのセット)

第三幕の、ムゼッタ&マルチェロの二人と畳み掛けるように歌うロドルフォとの四重唱(Addio dolce svegliare)
での歌唱はなかなか聴きごたえがありました。


(三幕、アンフェール門のセット)。

前後しますが、ニ幕、カフェ・モミュスのシーンでは、
いきなり私たちの右隣の扉が開いて、パリの人々に扮した出演者が登場。
ムゼッタが、”きゃーはっはっは!”と言って、同じくこの扉から現れるシーンでは、
私の連れが耳の鼓膜を破られるかと思ったくらい、ムゼッタ役を歌ったCrouseの声が大きかった。
しかし、彼女の声は、少しオペラ的でないというのか、
あまりに地声に近い発声がやや私には気になりました。
特に上でふれた四重唱では、カイトリーの発声がものすごく綺麗だったので、余計に。
ミミ、ロドルフォが大変美しい歌を聴かせている舞台の反対側で、
ムゼッタとマルチェロが吠える。これも、アマート・オペラならではかもしれません。

一幕と二幕の後の休憩時間(ちなみに、休憩は3回。各幕後。)には、
ニ幕で、パリの子供たちの役の一人として舞台に立っていた女の子が、
運営費を集めるため、ラッフルのチケットを売りに来ます。
チケットを買って、最後の休憩で当選番号が発表され、
当選すると、アマート・オペラ特製のTシャツがもらえる仕組み。
ほしい。なので、二人揃ってチケットを購入。
この女の子が本当にかわいくって、写真を撮らせてもらいました。
どういういきさつでアマート・オペラに関わっているのかわかりませんが、
お休みの日にこうしてオペラの公演に参加してくれる子供たち、
オペラヘッドとしては本当に抱きしめて、お礼を言いたい!!



さて、そうするうちに、扉のところに現れた予約係のおじさん。
”あんたのチケット、あったよ!”
見せられた封筒には、スペルが間違った私の名前が。。
”やっぱり、バルコニー席だったよ。だけど、その席ね、他の人がもう座っちゃったから。
でも、こっちの方がいい席だから、絶対。”

開演前、0.5秒だけ座ったあのバルコニー席最前列は、間違いなく、このクソ寒い、平土間後方席よりはよかった。
しかも、一番良い席下さい、ってお願いして、バルコニー席をくれたのはあなたでしょうが!!!
いい加減なことをいうのもたいがいにしてほしい。
そんなにこの平土間がいい席なら、今から私たちの席に座ったという幸運な人たちに、
もっといい席が平土間にあるからと、連れてきてごらん!と言いたくなった。

アマート・オペラ。オペラハウスと公演自体は非常に味があってチャーミングなのだから、
この、テキトーな予約係はどうにかしたほうがいい。

さて、気をとりなおして。
この時点で、108席(107席説もあるが、劇場の資料には108席とあった。)満席で始まったこの公演、ほとんど途中で帰るお客さんなし。
もちろん、マナーも素晴らしく、掛け声もプロフェッショナル。
だめなものには温かく拍手、素晴らしいものには、Bravo, Brava, Braviといった言葉が
ばんばんとびまくります。
公演する側もする側なら、客も客。本当にみんなオペラが好きでたまらない!というのが痛いくらい伝わってきます。

四幕開始前に、舞台に上がってきた男性、これがアンソニー・アマート氏。
もう本当に素敵なおじいちゃまなのです。
オペラへの愛が昂じて、オペラハウスを建設、演出も自力なら、
自分で指揮までして(そうそう、オケの指揮はアマート氏です。)
オケのためにスコアのアレンジもし、若手や芽の出ないオペラ歌手にチャンスを与える、という、
これぞ、オペラヘッドのお手本、大、大、大先輩ともいうお方。
しかも、何か、この方のまわりにはものすごく温かい気が流れているのです。



このオペラハウスと舞台に流れるなんともいえない魅力は、
この方の力とパーソナリティに負うところが多いのではないかな、と思いました。
これからの公演についての説明と、ラッフルの抽選があり(例の写真の女の子がアシスタント)、
残念ながら我々はTシャツを逃しましたが、アマート氏とお会いできて大満足なのでした。

第四幕

もうこの幕に至る頃には、私はすっかりこの公演に心を奪われていて、
ミミとロドルフォが語りあうあたりから泣いてしまいました。
この小さな舞台空間、歌手との至近距離、といったことが原因の一つかも知れませんが、
舞台に立つ歌手との一体感がものすごく強くて、まるで、自分も彼らと同じアパートにいるような気分になる。
これは、メトのような大劇場では、よっぽどエモーショナルな演奏や歌唱でない限り、
経験するのが難しいものだと思いました。
お芝居なんかも、決して洗練されていないのですが、
しかし、あまりに歌手の方が一生懸命でこちらも引きずり込まれてしまいます。

気がつけば、メトで『ラ・ボエーム』を観たどのときよりも号泣してしまっていました。

人の心を動かすには、何も完璧である必要はない。
これは、私の連れが言った言葉ですが、大変興味深い事実だな、と思いました。

このアマート・オペラの公演を通して、私は二つの発見がありました。

1. 好き、という気持ちが突き詰められると、技術は完璧でなくても、
とても魅力的なものが生まれる。

2. しかし、だからこそ、そこに完璧な技術がのったものはより賛嘆の対象となる。

決して一級でない歌、頻発するオケの失敗、しょぼく見える寸前のセット、
これらの欠点を、独自の魅力へと昇華させたアマート・オペラ。
世界一級の歌、それを支えるオケの演奏、これ以上望めない贅沢なセット、
完璧さと贅沢さの追求という形でオペラ界を支えているメト。

タイプは違えど、どちらもその原動力は、すさまじいまでのオペラへの愛情。
深く深く尊敬してしまいます。
アマート・オペラをカラオケとだぶらせるなんて、失礼千万だった!
オケピットから、観客に見られずに舞台上の緞帳の向こうにまわれるような気のきいた階段を設置するスペースがないため、
舞台前に設置された小さな階段を、終演後、観客からまきあがった拍手を背にかけのぼるアマート氏。
緞帳のこちら側から向こう側へ消えたと思ったら、ずっとそこにいたような澄ました表情で、
キャストと手をとりあって挨拶。

最後までBravoなお方でした。究極のオペラヘッドに万歳!!

Cristina Keightley (Mimi)
Nick Incarnato (Rodolfo)
Claudia Crouse(Musetta)
James Wordsworth (Marcello)
Joseph Keckler (Colline)
Daniel Rothstein (Schaunard)
Dominique Rosoff (Benoit)

Conductor: Anthony Amato
Production: Anthony Amato

Amato Opera
ORCH

***プッチーニ ラ・ボエーム Puccini La Boheme アマート・オペラ Amato Opera***


GOTTERDAMMERUNG (Sat, Jul 21, 2007)

2007-07-22 | メト以外のオペラ
リンカーン・センターフェスティバルとメトの合同企画で行われた
キーロフ・オペラ(マリインスキー劇場)、ゲルギエフ指揮によるリング。
今回は2サイクルの公演。
いずれにせよスケジュール的に1サイクルすべて、全4日を見るのは厳しかったのと、
プロダクション・デザインの写真を見たところ、
危険な香り(=妙なプロダクションである予兆)がぷんぷんしていたので、
今回は一演目だけにしておこう、ということで、
第2サイクルの『神々の黄昏』を選択。
もしもスタンダードな演出でキャストもよければ、何とか都合をつけてでも全日見たかもしれませんが。。

さて、会場につくと、ヘルメットをかぶってコスプレしている人が数人。
(しかもいい歳したおばちゃんたちまで。。)
すごい!ロッキー・ホラー・ショーのようなのり!オペきち野郎の熱い魂を感じさせます

でも、本人は多分、こういう感じをイメージしているのだと思うのだけれど、



間違いなく、仕上がりはこちらに近い。悲しい。



さて、悪い勘とはぴったりとあたるもので、
今日のプロダクション、キーワードは
①アフリカ民族系(それも、”土人”っぽい。)
②水木しげるの世界
③ゴス
あたりでしょうか?

今回プロダクションに関わったといわれるゲルギエフ。
あえて言ってしまおう。あなたは指揮だけしていてください。

とはいえ、ゲルギエフがデザイン画を書いたりするとはとても思えず、
おそらく、実質の芸術面ではこのTsypinという人物がとりしきったと思われるのだが、
悪趣味な演出の罪で、オペラ刑務所に留置決定いたしました。
バジェットが足りなかったというのもわかります。
でもその少ないバジェットの配分の仕方にも問題ありありなのです。

舞台は序幕、3人のノルンのシーン。
プロジェクターを使っていろいろなイメージが背景に浮かび上がります。
例えば、ブリュンヒルデがいる岩山を表現するのに火のイメージが使われたり、と全幕に渡ってプロジェクター大活躍。
正直言って、いまどきプロジェクターを使った背景なんて、珍しくもなんともないけれど、
少なくともストーリーの邪魔立てはしていなかったので、これはよしとしましょう。

しかし、許せないのは、そのプロジェクションの前に置かれたメトのステージの高さ一杯にそびえたつ二体の土偶のような人形。
こわすぎる。
それが突然エメラルドのような光を放ったかと思うと、
中が半透明になっていて、片方の土偶の中に、
ダッチワイフ状のものが泳いでいるのです!(すみません、これ以外に適当な表現が見つからないほど悪趣味なので。。)

ここは確か岩山のシーンだったと思ったのですが、なぜだか水中っぽい。
わけがわかりません。

ノルンのシーンは3人とも声楽的に弱くて、いきなり退屈!
これで5時間弱の演奏を乗り切れるのかと(←私の方が)猛烈に心配になってきた。
そういえば、予習にはメトのDVDを今回使用したのですが('89か'90年の演奏)、
いつもこきおろしてばかりのアンドレア・グルーバーが何と第3のノルンを歌っていて、
これがなかなか頑張っているのです!
まだ若かりし頃のグルーバー、声が瑞々しくて、気合も十分だし、
こんなに歌えた人が今やトスカやトゥーランドットでいまいちな結果しか出せないとは、
17年の年月とは本当に残酷です。
で、そんなDVDと比較しているものだから余計に退屈に思われるのかも知れないのですが。
しかも、綱が切れるシーン、DVDでは、ノルンたちが順に歌う”綱が切れた”の一言が、
三人三様ニュアンスが違っていて、なんともいえない後味をかもし出しているのに比べて、
キーロフは、一人の人が全部歌っているのじゃないかと思えるほど、のっぺらぼうで、
何の解釈らしきものも見えなくてがっかり。

さて、そのかったるいノルンのシーンが終わると、
いよいよプロジェクターが川の水面の映像を映し出し、”夜明け”の旋律が。

ブリュンヒルデを歌ったOlga Sergeevaは、歌唱の90パーセントはいいのに、10%が致命的。
特に最高音域で、音が土台を失ってふらふらするのがとても痛い。
最悪のケースだと、音がへしゃげる、というのか、それまで出してきた声と全く異質の声が出てきたり。
中音域、高音域では頑張っているのだけど、それももう半周りサイズが大きかったらなあ、と思わせる部分もなきにしもあらず。
で、こういったブリュンヒルデの役に必要とされるクオリティを持っていないとしたら、
彼女がこの役を歌うべきなのか?という身も蓋もない議論に行きついてしまうのです、残念ながら。

しかし、このブリュンヒルデ、違和感あり、と思ったら、
衣装がとてもゴスっぽいのであります。
なんだか、こんな感じ。



前髪が、陰陽の模様のように波打っていて(モヒカンのアレンジか?)、
そして、足元は革ブーツ。
ブリュンヒルデって神の娘でありながら、ゴスっ子??!
たしかに、ヴォータンにたてついたりして根性はありそうだけれども。
でも、私の好みはもうちょっと、そんな蓮っ葉な中にもどこか神々しさ(だって、実際、神の娘なんですもの。。)、
エレガンスのようなものを感じさせるブリュンヒルデなのです。

しかし、もっとびっくり仰天はジークフリート。まるで80年代のラテン・ヒップ・ホップチームのメンバーみたい。。
赤いタンクトップに、赤いバギーパンツ、獅子のようなあたまにヘアバンド。
とどめに白いメッセンジャーバッグのようなものをたすきがけ。
こんなダサい人がジークフリートだなんて無理がありすぎる。
しかも、立ち上がりのこのブリュンヒルデとのシーン、声量でも彼女に押されていてださすぎる。
私が最近”沈む声”と名づけている、声がオペラハウスの後ろに届く前に、
前の方の観客の頭のあたりでぽとん、と落下するような感じの声。
二人揃うと、消え入りそうなジークフリートに、高音で怪しい音を立てるブリュンヒルデ。。
ああ、まじですか?
これで5時間弱は絶対無理。

”ラインへの旅”を経てようやく第一幕へ。

グンター役のEvgeny Nikitinにおよんで、
やっと、声量十分で、役に必要なカラーも持ち合わせている歌手が出てきた、と安心。
グートルーネ役のValeria Stenkinaは、どことなく最近のネトレプコを思わせるような、
少し暗いロシア色の強い声で、ワーグナー作品には若干の違和感があるものの、
遠めで見る限りは細めで見た目がかわいらしく、歌いまわしも割りと丁寧で好感が持てるので、
この役は魅力的でなければいけない!と考えている私には、ある意味ではありがたかったです。
たびたび引き合いに出してしまいますが、例のメトのDVDでは、このグートルーネの役を、
Hanna Lisowskaというソプラノが歌っているのですが、
この人がすごいおばさんで、お世辞にも魅力的とはいえないルックスな上に、
前歯がすきっ歯なのか、一本歯がないのか、
歌うたびにかぱっ!と黒い穴が開いているのには、本当にぎょっとさせられるのです。

忘れ薬を飲まされたとはいえ、大恋愛の相手のブリュンヒルデを忘れてまで
ジークフリートが夢中になるというグートルーネが歯抜けばばあでは、ちょっと。。
その点、こちらのグートルーネはかわいらしくて、
安心して見ていられました。
ここでもまだジークフリートは見た目も歌唱的にもださださ。

しかし、第三場で事態が劇的に変化するとは誰が予想したでしょうか?
まず、Olga Savova演じるヴァルトラウテ。
ジークフリートにもらったものだからと頑なに指輪に固執するブリュンヒルデに、
こんこんと、みんな(特に神ですが)の将来と幸せのために指輪を捨てるよう説得するヴァルトラウテ。
ここは、この作品の最後でブリュンヒルデが自分の犯した間違いを悔いるところ
(”自分の悲しみと苦痛を経て、やっとわかった”)
につながっていく部分なので、とても大事だと思うのだけれど、
このヴァルトラウテは、大上段な歌い方ではないのですが、とつとつと訴える様子がいじらしい。
しかし、最後にブリュンヒルデに、
”あなたのように本当の恋をしたことのない人間に何がわかるの!”(なんて傲慢なゴス女、ブリュンヒルデ!)
に逆ギレされ、退散。

そこに現れた、グンターの仮装をして現れたジークフリート。
忘れ薬の効果により、すっかりブリュンヒルデと愛を誓い合ったことも忘れ、
グンターの妹グルトルーネに入れあげ、
彼女との結婚を許してもらうために、グンターが結婚したがっているブリュンヒルデを、
彼と結婚させるために、ジークフリートが火で囲まれた岩山から連れ出すシーン。
この岩山は、世界でもっとも勇敢な人物、つまりジークフリートしか飛び込めないはずなのに、
いきなり別の男が現れてびっくり仰天のブリュンヒルデ!
(傲慢だった罰よ!)

ここのジークフリートが、さっきまでの情けなさ、だささとはうってかわって、素晴らしい!
仮装したついでに、違うテノールが乗り移ったかのよう。
といっても、ここは、ジークフリートがギュンターの振りをしているところなので、
幕の最後に(ブリュンヒルデには聞こえていないという設定で)本来の声を出すまで、低い音での歌唱なのですが、これが実にうまいのです!
しかも、その幕最後に、本来の声でグンターとの友情を守るのだ!と宣言するシーンでは、
さっきまでの消え入りそうだった声量がうそのように高らかな歌いっぷりで、
俄然、パフォーマンスに熱がこもってきました。
ああ、よかった。ここまでで休憩なしの二時間。
途中、不安を感じさせられたものの、これなら最後まで大丈夫そう。

ここで休憩をはさんで、第二幕。

ハーゲンに、指輪を取り返すよう説得する父、アルベリヒ。小人族。
そんなの、腹黒いハーゲンがとっくに考えているどころか、一歩も二歩も先手を打って計画を練りまくっているのも知らず、
ぴーちくぱーちく指示を飛ばしてうざいアルベリヒ。
このアルベリヒが、またどこかで見たぞ。。と思いきや、
バットマン・リターンズのペンギン男のよう!!!



まあ、ある意味小人ですけど。。

さて、ハーゲン、とてもとても大事な役であるにもかかわらず、
全然キャラがたってこなくて不満が募る。
見るからに腹黒く演じるもよし、見た目はスマートだけどヘビのようにねちねちと計算高いタイプ、
または出自ゆえに世界に復讐をもくろむかわいそうな人、というように、
それこそ無数の解釈の仕方があると思うのだけれど、
Mikhail Petrenko、ただ歌っているだけ、という感じで、
彼の演じているハーゲンがどんな人物なのか、ちっとも伝わってこない。
この日最後までハーゲンに関してはその不満がくすぶり続けました。

グルトルーネに、ブリュンヒルデと一夜同じ場所にいたことを問い詰められて、
”東と西の間に北があるように、(彼女は)近くにはいたけど遠くに離れていた”
とかなりいかした言い訳をジークフリートがするシーン。
今回劇場の椅子の背に現れるサブタイトルの英訳が、意訳が多くて、
この方角に関する言い回しなども、すっかり省かれていたのが残念。
ワーグナーは細かい台詞におもしろさや深遠さが隠されているので、
できるだけそのまま訳してほしいと思うのは無理な注文か?

第三場の男性の合唱のシーン、なかなか力強くていい味を出してました。
少し荒々しいけれども、それが雑にならずに持ち味になっているし、声質もヒロイック。

ブリュンヒルデは、ジークフリートの姿を見つけ、愕然とし、
彼女をここまで連れてきた悪人がはめていたはずの指輪が彼の指に光っているのを見て、
やっと二人が同一人物であることを理解し怒り心頭に達するブリュンヒルデと、
忘れ薬の効果絶頂で、あくまでしらを切りとおすジークフリート。
二人の対決が今回の公演中、歌唱つきのシーンでは、もっとも見ごたえのあった場面の一つだったかもしれません。
ジークフリート役のVictor Lutsukがもうこのあたりでは、
すっかり本調子を出していて、声量も特に不足を感じさせず、
本来のヘルデン・テノールとはちょっと異質かも知れませんが、
ある意味このジークフリートという役の本質=ヒロイックさ、無邪気さ、また無邪気さゆえの残酷さ、
をうまく表現していたと思います。
これは最初には思いもしなかった拾い物!
また、一番馬鹿を見たグンターの苛立ちを、Nikitin、よく表現していたと思います。
全キャストの中で、彼は演技力も一歩抜きんでている印象を受けました。

いよいよ復讐心に燃えるあまり、ハーゲンにジークフリートの急所を教えてしまうブリュンヒルデ。
ここはちらっとアイーダのアムネリスが浮かんだりもするのですが、
アムネリスがほとんどすぐにラダメスを僧たちに売ってしまったことに後悔の念を持つのに対し、
さすがは思い込んだら頑固なゲルマン系、ブリュンヒルデ。
ちーっとも反省なんかするどころか、”やっちまって頂戴!”と、
しまいにはハーゲン、グンターとともにバレーボールの試合のような円陣を組んでしまう始末。
こわいです。
歌唱的にはここが最高の盛り上がりを見せました。

二回目の休憩をはさみ、いよいよ第三幕。

貝がくっついたドレスを着たラインの乙女たちのアンサンブル。(上の写真参照。)
と思ったら、そのラインの乙女たちのうしろに一反木綿のような化け物がひらひら、ひらひら。。



なんだ、これ?と思ったのですが、よく見ると、
頭から蛍光塗料付きの麺状のかつらをかぶった女性ダンサーたち。
ああ、水草を表現しているのね。。

狩に出ていた男性一行。
ジークフリートは興にと、自分の出自を話しはじめ、気がついたらとまらない、
なんとブリュンヒルデと愛を誓い合ったことまで一気に話してしまいます。
これを口実にハーゲンに惨殺されるジークフリート。もちろん真の狙いは指輪。
ジークフリート、最後までなかなかの熱演、グンターがまたよい!

ここで、いよいよジークフリートの葬送行進曲。
ここまであえてオケについての印象を書くのを回避していたのですが、
一気にここで。
まず、今日の序幕の頭、最初の和音を聞いたときには、正直、あれ?という感じでした。
なんというか、細かい部分への注意にかけるというのか。。
音符の長さ、音の強さ、引っ張り方のニュアンス等、のっけから難しい和音だと思うのですが、それが意外と雑い印象を受けました。
で、その印象が葬送行進曲の直前まで続いてしまった。
また、もう一つはこれは何とも言葉で表現するのが難しいのですが、
おそらくその雑であるということはこの問題の一部なのだとも思うのですが、
少しドイツらしさというものの表現が希薄だったように思います。
実はキーロフ・オペラでイタリアもの(ヴェルディの『運命の力』)を何年か前に聴いたときも、
どこかスタイル感のなさというのが気になったのですが、
ロシアものだと、例えばバレエ音楽なんかでも素晴らしい演奏を聞かせてくれる彼らなので、
今回あえてワーグナーなんて演奏しなくても、できればロシアものが聞きたかったな、と思うのは私だけでしょうか?

それから、この葬送行進曲にいたるまでは、おそらくゲルギエフの指示によるものと思われるのですが、
本来オケが出せる音に対して、かなり余裕のある、
つまり小さめな音での演奏だったように思いました。
歌手陣が若干スケールが小さめなので、それに配慮したのかもしれません。
メトのワーグナーものは、それが盲目的によいとはいいませんが、常に大音量なので、
キーロフの静かな演奏が目立ちました。
しかし、バイロイトではオケピットが隠れている、という事実を思えば、
キーロフの演奏の方がバイロイトなんかで聞ける音量に近いのかもしれません。
また、箇所によっては極端に早く演奏されていた部分があったのが、目(耳)を引きました。

一言で言うと、葬送行進曲までの演奏は、なんとなくジェントリファイされているとでもいうのか、
はっきりしたカラーがなくて、あらゆる意味で中庸な印象の演奏でした。
それでも、実力があるのでそこそこ持ってしまうのですが。。

しかし、葬送行進曲。これは特筆しておかねばなりません。

当然のことながら、音量を小さめに演奏していたのは、彼らが大音量で演奏できないからではない!
葬送行進曲の大音量は、メトのオペラハウスが揺れるかと思うぐらいの轟音でした。
そして彼らのすごいところは、そんな大音量でも、
音がつぶれたりディストーションを起こしたりせず、綺麗な響きを保ったままで、
まだもっと大きい音が出せるのではないか?と思わせるほどなところ。
また、このオケは、負のパワー、悲しみ、陰鬱さ、というものの表現には本当に長けています。
ここで、やっとやっとオケのエネルギーが一点集中して、ものすごいパワーを感じさせてくれたのでした。
満足。

しかし、そんな素晴らしい音がオケから鳴り響いているというのに、
ジークフリートの亡骸が撤去される間、
舞台上ではゾンビのような化け物がはりついた赤い車輪のようなもの
(どこかしら、ハムスターの車輪に似ている。。しかし、水木しげるの漫画にも、
こういう妖怪がいたような気がします。)
がくるくる回っているのであります。めまいがしてきました。
目を閉じちゃいましょう、この際。

そのジークフリートの亡骸といえば、その棺桶が、なんだかナイル川に浮かんでいるカヌーのよう。。
しかも、それを言えば、舞台上の土偶の雰囲気といい、
グンター、ハーゲン、グートルーネに腰まで落としたスカート状の衣装に、
背中に張り付いた土人アートのような模様といい、
妙にアフリカを感じさせるのです。
このプロダクション、ロシアの土着文化のエッセンスを取り入れたことになっているそうですが、
私にはどう見てもアフリカ。。

まあ、ロシアにせよ、アフリカにせよ、土着の文化に目をつけたことは間違いないようなのですが、
それは、この指輪の話自体が人間の原始的な罪、過ち、赦し、救済といったことを描いているからなのでしょうか?
しかし、重ねていいますが、異様です。
趣味が悪すぎます。
演出家の野心はすごいと思いますが、何度もいうように、
作品の本質を抉り出さなければ、野心だけが空回りしても。。
特にあの舞台上に設置された巨大な土偶に費やされた予算、
あれをもうちょっと他のものにまわしましょうよ!と思います。

やはり否定しようとしまいと、この作品にはドイツらしさがそこはかと流れているのです。
ワーグナーのこのあたりの作品が人間の根源的な要素を描いている、という意見は私も決して否定するものではありませんが、
ワーグナーはその要素をドイツの自然というフォーマットに置いて演奏されたときに、
もっとも効果が出るようなやり方で、この作品を作っていったと思うのです。
そのワーグナーの、ライン川、いえ、ドイツの景色すべてに対するあつい思い。
それがナイル川に勝手に変更されるようなことがあっていいものでしょうか??!!

さて、当然予想できた結末ですが、
ハーゲンが、指輪のために、グンターまでをも殺害し、
ついにその指輪に手をかけんとした途端、
ブリュンヒルデ登場!さっきまで一緒になって復讐に加担していたのに、
突然憑き物が落ちたかのように、真実を見通し始めるのです。
ジークフリート(つまり人間全体)の愚かさを知りつつも、
それも込みで愛しましょう、というブリュンヒルデの大きな愛が歌われ、
遂に遂に、指輪がラインの乙女たちの手に返されます。

ここはオケの演奏ともあいまって、つい胸が熱くなります。
だが、しかし!そのままで終わらないのがこのプロダクション。
突然その感動的なシーンのうしろにハーゲンが現れ、”指輪からさがれ!”と言いながら、
岩山のセットの裏に飛び降りつつ、退場。
観客、失笑。

このシーンは、ワーグナーがこんな台詞を書いてしまったがために、
ハーゲンを登場させなければいけない鬼門なのですが、
どうやれば上手く処理できるのか。。。

このキーロフのプロダクションでは、一度ハーゲンが完全に退場して、
この言葉まで一度も姿を見せないので、余計に唐突な感じがぬぐいきれないのです。

このプロダクション、どこかオペラのストーリーを完全に消化しきっていないような、
気持ち悪さが残ってしまうのでした。
この作品の音楽とストーリーを壊さずに、舞台化するのは大変な作業であることは理解しつつ。

この変てこりんさをわけあうために、お写真を一つ。
お、真ん中に見えるはペンギン男!
こんな舞台で、ゴス女やヒップホップチームの男や、一反木綿が暴れまわるわけです。

(ただし、『神々の黄昏』以外の日の公演からの写真。コンセプトは伝わるかと。。)



Victor Lutsuk (Siegfried)
Evgeny Nikitin (Gunther)
Mikhail Petrenko (Hagen)
Victor Chernomortsev (Alberich)
Olga Sergeeva (Brunnhilde)
Valeria Stenkina (Gutrune)
Olga Savova (Waltraute)
Conductor: Valery Gergiev
Production Concept: Valery Gergiev and George Tsypin

Metropolitan Opera House
ORCH Y Even

***ワーグナー 神々の黄昏 Wagner Gotterdammerung キーロフ・オペラ The Kirov Opera of the Mariinsky Theatre***