ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1944年
発売:1970年7月
LP:日本コロムビア DXM-101-UC
このLPレコードは、第二次世界大戦中にフルトヴェングラーがウィーン・フィルを演奏した、いわゆるまぼろしの録音といわれていたもので、戦後(1953年)、米国のマイナーレーベルであったレコード会社「ウラニア」から突如発売され(通称:ウラニア盤)、世界のクラシック音楽ファンの度肝を抜いた歴史的名盤である。幸いに当時ドイツの録音技術は世界最高のレベルにあり、既にテープ録音が可能な状態で、このLPレコードも、現在聴いても通常の鑑賞には一向に差し支えないレベルにある。これにより、“神様”フルトヴェングラーの指揮ぶりが克明に捉えられ、ウィーン・フィルの熱演とも相俟って、ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」の決定盤といっても過言でない程の演奏内容の録音を、我々リスナーは現在聴くことができるのである。これは1970年7月に日本コロムビアから発売されたLPレコードであり、これによって日本おいてもフルトヴェングラーの指揮の真髄を初めて耳にすることが出来た記念碑的録音であった。この録音を聴くと、ここまで緊張感をもって演奏できるのであろうかと、信じられない程の集中力に唖然とさせられる。そして重厚なウィーン・フィルの響きを聴くと、地の底から湧きあがって来るような迫力に圧倒される思いがする。このLPレコードは、あらゆるクラシック音楽の録音の中でも、それらの頂点に立つ、不朽の名盤であることをつくづくと感じさせられるのである。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886年―1954年)は、ドイツ、ベルリン出身の20世紀前半を代表する指揮者のひとり。ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー等のドイツ音楽の本流をくむ作品を得意としていた。フルトヴェングラーは、1906年カイム管弦楽団(現在のミュンヘン・フィル)を指揮しデビュー。1922年アルトゥール・ニキシュの後任として、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団およびベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。1927年フェリックス・ワインガルトナーの後継としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。1931年バイロイト祝祭劇場に初めて登場し、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」を指揮する。1934年ベルリン・フィル音楽監督、ベルリン国立歌劇場音楽監督に就任。第二次世界大戦後の1945年、戦時中におけるナチへの協力を疑われ、演奏禁止処分を受けるが、1947年裁判で「非ナチ化」の無罪判決を受け、音楽界に復帰。ベルリン・フィルの終身指揮者となる。(LPC)
ベートーヴェン:交響曲第1番
交響曲第2番
指揮:アルトゥーロ・トスカニーニ
管弦楽:NBC交響楽団
録音:カーネギー・ホール(第1番:1951年12月21日/第2番:1949年11月7日、1951年10月5日)
発売:1973年
LP:ビクター音楽産業(RCA) SRA‐8004(M)
アルトゥーロ・トスカニーニ(1867年―1957年)は、イタリア出身の指揮者で、フルトヴェングラーやワルターなどとともに一世代を築いた大指揮者であった。その指揮ぶりは、あいまいな表現を一切排除したものでありながら、その曲の核心を突いた演奏に終始し、その後の指揮界に大きな影響を残している。それが、現在の指揮者にも連綿として引き継がれ、今現在においても、トスカニーニの精神は残されていると言っても過言ではないほどだ。このLPレコードのライナーノートで渡辺学而氏は「トスカニーニの演奏には情緒的な先入観がない。そして、これが現代の演奏法の根本であるように思う。彼が、一たび作品の再創造という行為に入ったならば、楽譜から得られる音そのものの響きから、彼の鋭い感性によって最大限の音楽を作り上げようとする。そして、これは19世紀以来中心となってきた後期ロマン派的な情緒偏重主義の演奏法との決別を意味している」と書いている。このLPレコードは、そんな大指揮者のトスカニーニが死の6年ほど前に録音したベートーヴェンの交響曲であるが、いずれもこれらの曲の代表的録音と言ってもいいほどの完成度の高い、名演を聴かせてくれている。ただ、トスカニーニの録音全般に言えることであるが、もう少し鮮明な音質で録音されていたら、と何時も思うのである。せめて、フルトヴェングラーやワルターの録音並みの音質であったなら、と思うことしきりである。なお、NBC交響楽団とは、トスカニーニの演奏をラジオ放送する目的のため米国で編成されたオーケストラであった。アルトゥーロ・トスカニーニは、1885年パルマ王立音楽学校をチェロと作曲で最高の栄誉を得て首席で卒業。1886年トリノのカリニャーノ劇場でカタラーニの歌劇「エドメア」でプロ指揮者としてデビューを果たす。1898年31歳の若さでスカラ座芸術監督に任命される。1913年メトロポリタン歌劇場にて管弦楽指揮者としての米国デビュー。1927年ウィレム・メンゲルベルクと共にニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者に就任。1930年ニューヨーク・フィルを率いて欧州演奏旅行を行う。また、バイロイト音楽祭で非ドイツ系指揮者として初めて指揮する。1940年 NBC響を率いて南米演奏旅行。1948年NBC響との演奏会が初めてテレビ中継される。1950年NBC響を率いて米国内の演奏旅行を行う。1954年カーネギー・ホールでNBC響と最終演奏会を行い、68年間に及ぶ指揮者人生を終えた。このLPレコードでトスカニーニは、緊張感あふれる鋼鉄のような名指揮ぶりを聴かせる。(LPC)
ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
LP:東芝音楽工業 AB・8057
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886年―1954年)は、ドイツの指揮者として、過去の指揮者の中でも別格的存在であり“神様”みたいな存在だ。当時、フルトヴェングラーが一度オケの練習場に姿を現せば、それだけでオケの全員がそれまでの演奏とは違うレベルの高い演奏をしたという。要するにカリスマ的存在であったわけである。我々リスナーにとってもフルトヴェングラーの存在は偉大そのものであり、私などは今でも、それまでの姿勢を正し、正座して聴かなければならいような雰囲気を感じてしまうのである。そんな“神様”のフルトヴェングラーが、ベートーヴェンの「田園」をウィーン・フィルを指揮したのがこのLPレコードである。ベートーヴェンがウィーンの郊外を散策して作曲したと言われる「田園」ではあるが、その頃からベートーヴェンの耳は聴こえなくなりつつあり、どうも我々が考える田園風景をただ単に描写した交響曲といった印象とは少々違った側面を持つ曲なようだ。このフルトヴェングラーの残した「田園」を聴くと、単なる田園描写の曲でなく、ベートヴェンが目で見て、心で感じた田園風景を五線譜に書き留めたということが、手に取るように分る類稀な演奏であることが聴き取れる。つまり、この演奏は、表面的な描写は避け、心で感じた田園を表現し、それと同時に交響曲としての骨格を充分に表現仕切っている。ベートーヴェン自身この交響曲第6番「田園」の各楽章に次のような表題を付けている。第1楽章:田園に着いた時の愉快な気分の喚起、第2楽章:小川のほとりの風景、第3楽章:田園の人々の楽しい集い、第4楽章:雷雨と嵐、第5楽章:牧歌―嵐の後の喜ばしい感謝にみちた感じ。通常の指揮は、これらの標題に相応しく演奏されるのが常であるが、フルトヴェングラーは、このLPレコードにおいて敢えてそうはしていない。普通「田園」の演奏というと、我々が常日頃感じている自然、つまり、陽気な明るさ、さわやかさ、牧歌的な表現に徹するのが普通であるが、全体の演奏スタイルはごくオーソドックスなスタイルをとってはいるものの、フルトヴェングラーの「田園」は、重々しく、どちらかというと哲学的であり、確固とした構成美の上に成り立っている。ベートーヴェンにとって自然とは、神の如く慈悲深く、偉大で、絶対的なものであった。フルトヴェングラーの演奏は、ベートーヴェンのそんな自然に対する思いを的確に表現しているのだ。やはりフルトヴェングラーは“神様”であった。(LPC)
ベートーヴェン:交響曲第1番
交響曲第4番
指揮:ウィルヘルム・フルトヴェングラー
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1952年11月24日&27~28日(交響曲第1番)
1952年12月1~2日(交響曲第4番)
LP:東芝EMI WF‐60001
このLPレコードは、不世出の大指揮者であったウィルヘルム・フルトヴェングラー(1886年―1954年)が、ベートーヴェンの2つの交響曲を録音したもの。交響曲第1番は、1800年の初頭に完成したが、その時ベートーヴェン29歳であった。初演はベートーヴェン自身の指揮で、同年4月2日にウィーンのブルク劇場で行われた。一方、交響曲第4番は、1806年に短期間のうちに書き上げられたと考えられている。この年にベートーヴェンは、後に破談となるテレーゼと婚約しており、幸福感に満たされていた。このため第4交響曲は明るく清々しい気分に全体が覆われている。第3番「英雄」と第5番「運命」の間に挟まれた交響曲として、シューマンは「北欧神話の二人の巨人に挟まれたギリシャの乙女」と評した。フルトヴェングラーは、1886年にベルリンで生まれたが、指揮者としてのデビューは1906年。1922年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団およびベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任する。さらに、1927年ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任し、当時の指揮者として世界の頂点に立つことになる。しかし、第二次世界大戦後に、戦時中のナチ協力を疑われ、演奏禁止処分を受ける。1947年、裁判で無罪判決を受け、楽壇に復帰する。そして、ベルリン・フィルの終身指揮者に就任するなど、戦前の勢いを取り戻すかのような名演を聴かせた。フルトヴェングラーのベートーヴェンの交響曲の指揮は、何か宿命的な出会いを思わせる。ベートーヴェンは、その生涯を通して人間の自由と真の解放を願って作曲したという、それまでの作曲家には見られない類稀な作曲家であった。このようなベートーヴェンの作品を指揮するフルトヴェングラーの指揮ぶりはというと、曲の本質を的確に探り出し、それを情感激しく聴衆にぶつけ、その曲が持つ真価をオーケストラに最大限に発揮させる。つまり、この両者が出遭った時は、1+1が2ではなしに3や4にでもなるような相乗効果をもたらすのである。このLPレコードの交響曲第1番の出だしを聴いただけで、他の指揮者とは異なる、異様な高まりを聴き取ることができる。このLPレコードでのフルトヴェングラーは、第1番ではあくまで若々しく、力強く、しかも軽快な指揮をする一方、第4番の方はというと、後期の交響曲を連想させるようなスケールの大きい、深遠な表現が特に印象に残る。いずれも、この二つの交響曲を代表する録音として、記念碑的意味合いを持つを持つLPレコードといえる。(LPC)
ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」
指揮:ロリン・マゼール
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1980年11月5日、名古屋市民会館ホール(ディジタル・ライブ録音)
LP:CBS・ソニー 32AC 1240(45回転)
このLPレコードは、ロリン・マゼール(1930年―2014年)がウィーン・フィルと共に来日した時(50歳)のライブ録音盤である。当時としては、珍しかったデジタル録音で、45回転(通常は33回転)と高速回転となっているため、かなりの高音質で聴くことができる。マゼールは、1965年にベルリン・ドイツ・オペラとベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)の音楽監督に就任。さらに、1972年にクリーブランド管弦楽団の音楽監督、そして1982年にはウィーン国立歌劇場の総監督に就任した。つまり、ウィーン国立歌劇場総監督就任の2年前の来日で、まだ、ウィーン・フィルとの付き合いができたばかりの時の録音だ。そのためか、演奏にかなりの緊張感が漂っていることが聴いて取れる。互いに自己主張をし合っているようでもあり、互いに手の内を読みあっているようにも聴こえる。そのことが逆に面白く聴こえ、結果的にかなり質の高い「運命」に仕上がった。指揮者として絶頂期のマゼールの演奏が聴ける貴重盤であるが、特に終楽章は、その後のマゼールとウィーン・フィルの活躍を占うかのように、壮大で力強さが前面に立った名演となった。最後の熱烈な拍手の音を聞くと、当時の聴衆が大喜びしている情景が目に浮かぶようだ。CDを含め、私がこれまで聴いてきた数多くの「運命」の録音の中でも、このLPレコードは最上クラスの1枚に挙げることできる。何回聴いても少しの飽きがこないどころか、聴くたびに新鮮な気分に浸ることができるのは驚嘆すべきことだ。ロリン・マゼールは、フランスで生まれたが、間もなくアメリカに移住する。8歳の時にニューヨーク・フィルを指揮して指揮者デビューを飾ったというから驚きだ。10代半ばまでには全米のほとんどのメジャー・オーケストラを指揮したというから、指揮者になるために生まれてきたも同然。ピッツバーグ大学在学中は、ピッツバーグ交響楽団においてヴァイオリニストとして活躍。その後指揮者としては、順調にキャリアを積み重ね、将来が約束された指揮者と認められていた。しかし、思わぬ不幸が待ち受けていた。それは、カラヤン辞任後のベルリン・フィルの音楽監督のポストを逃したことであった。当時、誰もがベルリン・フィルの次期音楽監督はマゼールと信じて疑わなかった。それがアバドに決まり、この時の本人の落胆は大きかったという。来日公演は、1963年以来30回を超え、日本にも多くの熱烈なファンがいた。(LPC)