Long Ming Diary ~I'll show you myself honestly~

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ことばと国民性

2008年03月19日 23時04分37秒 | つれづれ日記
先日、先輩と何気なく話をしていたときのことです。

先輩が、「日本語には英語の"I"に当たる言葉がたくさんあるね」ということを言ったんです。

確かに、一人称単数をあらわす言葉が、英語では"I"だけ。ところが日本語では"I"に当たる言葉だけでも「わたし」「ぼく」「おれ」「わたくし」とかある。もちろん、方言をいれればもっとたくさんになるけれど、一応、標準語を基準に。中国語では「我」だけ。スペイン語でも"Yo"だけ。

同じく、2人称単数の"you"に当たる言葉を考えてみると、「あなた」「きみ」「おまえ」となる。中国語では「イ尓」だけ。スペイン語は"tu"と"usted"の2語。

コレは非常に国民性に依存してるんですよね。日本人が話す日本語にはなぜにこんなにたくさんの言い方があるのか。それは、「日本人は他人を介してじゃないと自分が見えない」から。言い方を変えると「自分のことを他人という鏡に跳ね返してみてる」ということなんですよ。

その証拠に、日本語には『敬語』というものがあります。もちろん、外国語にも『敬語』に当たるものはあります。が、特徴なのは「謙譲語」ですね。「自分がへりくだる」というのはいかにも他人を介して自分を決めるということですよ。

相手がどんな感じなのかで自分の立ち位置、そして言葉遣いまでを決めてしまう。日本語を学ぶ外国人が謙譲語が難しいと考える理由のひとつですね。

こういうところをとって、「日本人にはアイデンティティがない」なんてことを言う人もいますが、それはちょっと違うと思うんです。アイデンティティはちゃんとあるんですが、それを映す鏡が丸いもの、四角いもの、あるいは乱反射してしまうものと、さまざまなのでその時々で見え方が変わってしまうだけだと思うんですね。ま、それを外国人が見たら「自己がない」って見えてしまうんですが。

星に例えると、「恒星」と「惑星」みたいなものですかね。自分で光り輝けるか、他の光を受けて輝けるかの違いで、どっちも見た目は素晴らしく輝いてるわけで、自分で輝けない惑星が恒星に劣るなんて話はでないのと同じでしょうかね。

こういう風に、「ことば」とそれを話している人の文化、特性、風土なんかをあれこれ考えるのが「外国語学部」の勉強で、「文学部」との大きな違いだと思ってます。

今でも時間とお金があれば、もう一度ちゃんとこの辺の勉強をしてみたいなぁと思ってるんですがね。