森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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「牛」という漢字
髪切は、中国語では天牛。蝸牛はカタツムリですから、天牛と蝸牛との共通項である「牛」という漢字は、どうやら触覚、ツノを表すようです。牛のツノとカミキリの長い触角はどこからみても似ているとは私には思えませんが、ともかくカミキリは天牛なのです。
その天牛について、構造主義生物学者として知られる池田清彦さんは『昆虫のパンセ』のなかで、その魅力の源をつぎのように語っています。
「精巧でエレガントで、えも言われぬ品格」
私が髪切に魅かれるのも、まさにこの言葉の語るところと同じです。たとえばルリボシカミキリをみて、だれもがエレガントだと感じざるをえないでしょう。そして、その触覚や鞘翅(さやばね)の精巧さと品格に驚く人は少なくないと思います。
忙しくて放っていた連休中の髪切のなかに、ピックニセハムシハナカミキリもでてきました(写真)。このカミキリは、春から初夏にかけて出現、カエデやサワフタギなどの花に飛来するようです。写真のカミキリもやはりイロハモミジの花に来ていたものです。「図鑑21世紀」で紹介されているように、縦じま型になっています。
分布は局地的。
オリンピック幻想
これを考えるのにちょうどよい本があります。吉見俊哉さんの『万博幻想』です。
そのとびらには、こう書かれています。
「万博は一貫して、豊かさへの大衆的な欲望と国家の開発主義政策との癒着を可能にする仕掛け―万博幻想―として機能してきた」
吉見さんがとりあげているのは、大阪万博、沖縄海洋博、つくば科学博、愛知万博ですが、国家を福岡市という枠組に置き換えて考えてみると、先の引用がよくあてはまります。
著者は戦後万博の歴史をつぎのようにふりかえっています。
第一に、知識人たちの理念がくり返し博覧会協会のちぐはぐなシステムのなかで挫折してきた歴史
第二に、会場となった列島の丘陵部や沿岸部とその後背地が、他の国家的なプロジェクトと連動しながら開発され、その自然景観を変貌させられてきた歴史
第三に、そのようにして誕生した代わり映えしない未来都市に、膨大な大衆が自分たちの「豊かさ」を確認する舞台を見出していった歴史
知識人たちの役割を考える上でその理念の挫折のみをとらえることに、私は疑問が残りますが、けれど、上の3点は戦後日本の万博の本質をついていると思います。
まさに、山崎福岡市長の立候補宣言には、彼がそこまで戦略的に練り上げる能力をもつ人物かどうかは別にして、おそらくこの3つがからみあう力学が働いているのはまちがいないでしょう。万博と同じく福岡オリンピックは、とびらの言葉にあるように、豊かさへの大衆的な欲望と開発主義政策との癒着を可能にする仕掛けー幻想―として機能するのです。
働く力のなすがままになっていてはたまりません。少なくない市民がいま、この仕掛けを見抜いています。そこに私は可能性をみます。戦後の万博と同じ系譜に位置づけられることのないように、招致をストップさせる、この一点での共同が必要です。
吉見俊哉『万博幻想』(ちくま新書)
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