森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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自律の先に社会的関心はあるのか? ― 日本の個人主義
日本における個人主義という、壮大なテーマに若い世代の著者がどう挑んでいるのかに興味をもち、期待もした。
著者は、自律という言葉について、「自ら立てた規範に従い、自らの力で行動すること」という定義を採用する。この自律という言葉と個人主義の関係だが、著者は、個人の自立を称揚し、そのための方策を考察し実施するべきことを主張する思想を、個人主義と定義づけている。
その上で、個人の自律にかかわる諸問題こそ、今日の日本においてもっともアクチュアルなテーマという論立てで本書ははじまる。要は「自律の時代」ということである。
なぜなら、著者によれば、「構造改革は単にあれやこれやの経済制度をかえようとするものではない。その先には、日常生活そのものを総体としてかえるという課題が、ぼくら一人ひとりをまっている。そして、独立自尊や自助努力や自己責任、ひとことでいえば自律にもとづくライフサイクルを採用することが称揚される。構造改革政策は、ぼくらに自律することを求めているわけだ」からである。
しかし、これは正しいのか。この入口のところで私は立ち止まらざるをえなかった。
自助努力や自己責任の名で、国民に痛みを強いてきたのが構造改革であった。構造改革は、別のことばでいえば、経済制度にとどまらず国のあり方をかえるものだと理解する。国の責任の範囲を軍事や治安などに限定し、国民生活により密接な社会保障や教育を予算上も削減縮小してきたのがほかならぬ構造改革ではなかったか。この断行のためのイデオロギーが「自立自助」、「自己責任」などであった。臨調「行革」や国鉄民営化などの流れをひきつぎ、今日あるのが小泉「構造改革」であろう。
私は以上の理解にたっているので、本書の入口ともいえる構造改革についての、著者小田中のそもそも説くところは正直、理解しがたい。
たしかに構造改革を「不況に対する処方箋であるのみならず、日本経済のあり方そのものを根底からかえる手段」と著者は指摘してはいるが、これと先にあげた文脈「構造改革は単にあれやこれやの・・・。構造改革政策は、ぼくらに自律することを求めているわけだ」とは明らかに異なる。本書は構造改革について論じるものではもちろんないが、「構造改革政策は、ぼくらに自律することを求めている」という強調は、それは構造改革の本質を隠すものだともいえる。繰り返すが、構造改革は、国のあり方をかえるのである。
さらに、私は、自律と自立は区別されなければならないと考えている。「自ら立てた規範に従い、自らの力で行動すること」という自律の定義と、自立は異なる。著者が依拠する『岩波国語辞典 第二版』でも、自立とは、「自分以外のものの助けなしで、または支配を受けずに、自分の力で物事をやっていくこと」とあって区分されているのだ。構造改革が要求しているのは、明らかに自立の方なのである。
いま一つ、自律と社会的関心の関係についての小田中の所説をあげたい。
「自律の先に社会的関心はあるのか」という著者の記述にも示されているとおり、著者は、自律と社会的関心をもつことを、自律から社会的関心へというように二段階的にとらえているといってよい。けれども、他者への社会的関心なくして、小田中のいう「自ら立てた規範に従い、自らの力で行動すること」がはたして可能なのか。個人にとっての規範と規範外の峻別は、社会的関心が前提とされるものだと私は思う。
大塚久雄の言説を参照しながら、著者は論を展開している。かつて小熊英二は、映画『七人の侍』を経ながら「封建的人間像」と「近代的・主体的人間像」の対比を鮮やかに切り出し、大塚も評価の対象とした。大塚がめざしたものは当然ながら「近代的・主体的人間像」であったのだが、その大塚の言説を超えた著者の考察が、どこかに提示されたのだろうか。著者がめざしたであろう「自律」をめぐる問題は、『教養の再生のために』(6月7日)の所説がはるかに説得的で分かりやすい。本書を一読し見えてくるのは、現実を懐疑しそれと格闘するのではなく、所与の条件として無防備に現実を受け入れる著者小田中の姿、ではなかろうか。
小田中直樹『日本の個人主義』(ちくま新書)
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