森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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博多山笠を勝手に観察する ― その1
博多祇園山笠は、6月吉日の棒洗いにはじまり7月15日の追い山で終焉をむかえます(写真は福岡市ホームページから)。
ことしの山笠の期間、このブログを"山笠を勝手に観察するブログ"としても運営することを宣言します。
博多のまちの人びとはもちろん、そうでない人も是非、一度お立ち寄りください。
そして、760有余年の伝統を誇る博多祇園山笠の息遣いを少しでも感じとってくだされば幸いです。
太鼓の合図にあわせ、男たちの大集団が見事に動く。山がまさに動くのです。オイサッ、オイサのかけ声とともに、山笠が勢いよく揺れ、そして動く。
サッカーを超える組織性、役割分担が準備段階から本番まできれいに貫かれる。そこに集団の美をみる人もすくなくないはずです。
山崎市長が出馬正式表明、五輪にふれず
福岡市の山崎広太郎市長は14日、12月に任期満了を迎える同市長選に三選出馬することを正式に表明しました。
6月定例市議会本会議で石村一明議員(自民)の質問に答えたもので、「地域自治の充実、行財政改革など二期8年の取り組みの総仕上げとして、11月の選挙に当選させていただきたい」と述べました。
2016年の夏季五輪招致には一言も触れませんでした。
市長は答弁で、「高度成長期が終わった今、自治の在り方について根本的にかじを取り直すのが自分の役割だ」とのべましたが、基本的にかじ取りが変わっていないことは市民であればだれでも知っている。
人工島見直しは山崎氏の公約でしたが、見直しどころか4600億円もの税金が投入されました。そしてオリンピック。市民負担が増大することがはっきりしています。だからこそ、オリンピック招致に多数の市民が反対しているのではないでしょうか。
言葉ではなく、真にかじ取りを変えることが求められています。
→山崎市長が3選出馬正式表明、福岡市議会で答弁「行財政改革など総仕上げへ」西日本新聞)
6月定例市議会本会議で石村一明議員(自民)の質問に答えたもので、「地域自治の充実、行財政改革など二期8年の取り組みの総仕上げとして、11月の選挙に当選させていただきたい」と述べました。
2016年の夏季五輪招致には一言も触れませんでした。
市長は答弁で、「高度成長期が終わった今、自治の在り方について根本的にかじを取り直すのが自分の役割だ」とのべましたが、基本的にかじ取りが変わっていないことは市民であればだれでも知っている。
人工島見直しは山崎氏の公約でしたが、見直しどころか4600億円もの税金が投入されました。そしてオリンピック。市民負担が増大することがはっきりしています。だからこそ、オリンピック招致に多数の市民が反対しているのではないでしょうか。
言葉ではなく、真にかじ取りを変えることが求められています。
→山崎市長が3選出馬正式表明、福岡市議会で答弁「行財政改革など総仕上げへ」西日本新聞)
普通種礼賛
普通種なのに、はっとさせられるような鮮やかさをもつカミキリがいます。
たとえば、このブログでたびたび登場するラミーもそうです。その1つにキイロトラをあげたい。(写真は「昆虫エクスプローラ」から)
トラカミキリの仲間では大きく、しかもスマート。飛んでいるときの羽音もすごい。何よりもその鮮やかな黄色が惹きつけます。幼虫は、クヌギ、コナラ、ヤシャブシなどを食べます。
そうはいっても個体変異もあって少し濁った黄色も多く、なかには白化したものなどもいるそうです。鮮やかな黄色といえば、やはりムネモンヤツボシなどを指すのでしょうか?
でも、普通種を礼賛するようなカミキリ好きがいてもいいのでは。
和名からカミキリを省略しています。
戦後責任
原本が出版されてすでに丸6年は経過していますが、いまだにその主張は鈍っておらず、一読に値します。 ■責任の意味本書の題名にかかわる責任ということを、高橋哲哉は、responsibilityという英語の言葉の意味、「応答可能性」という切り口でとらえようとしています。 考えてみると、高橋がいうように、あらゆる社会、あらゆる人間関係の基礎には人と人が共存し共生していくための最低限の信頼関係として、呼びかけを聞いたら応答するという一種の“約束”があります。人間が言葉を語り、他者とともに社会の中で生きていく存在であるのならば、この“約束”に拘束される。これを破棄する、つまりいっさいの呼びかけに応答することをやめるときには、人は社会に生きることをやめざるをえないし、結局は「人間」をやめざるをえません。 要するに人間はそもそもresponsibleな存在、他者の呼びかけに応答しうる存在。responsibil -ity つまり応答可能性としての責任の内にある存在であると高橋はのべています。re -sponsibilityの内に置かれるとは、そういう応答をするのかしないのかの選択の内に置かれることを指しています。 ■応答可能性としての戦後責任このような文脈で、つまり応答可能性としての責任という観点で「戦後責任」を考えるとどうなるのか、を高橋は本書『戦後責任論』で明らかにしています。 戦後責任は戦争責任と密接不可分のものです。ですから、高橋も、日本がアジア諸国を侵略し、植民地や占領地にし、さまざまな国際法違反や戦争犯罪、迫害行為をおこなったことにたいする責任であること、つまり罪責という意味での責任をまず明確にしています。その上で、この罪責としての責任も応答可能性としての責任という観点でとらえられると主張します。それを殺人を犯した人を例にとり以下のように説明します。 殺すな、殺さないでくれ、という他者のぎりぎりの叫び、呼びかけ、訴えを無視して、その他者との呼びかけ=応答関係を最も深刻な形で破壊した。そのことによって、責任=応答可能性によって成り立っている社会から自分自身を追放したのであると。そうだとしますと、その殺人者が処罰に服し、償いをするという行為は、自分自身をもう一度他者との関係の中に連れ戻す。他者の叫びに遅ればせながら応答し、この遅れはもちろんすでに絶対に取り戻せない遅れなのですが、それにもかかわらず、遅ればせながらも他者の叫びに応答して、社会関係の中に自分を置き直すことと解釈できるかもしれない。 ■戦後生まれの戦後責任それでは、戦後生まれの日本人にとっての戦後責任はどうなるのか。それは、直接には罪責としての責任ではありません。けれど、戦後生まれの日本人が問われている応答可能性としての責任は、日本の戦後責任だけではないのです。レスポンシビリティとしての責任は呼びかけや訴えのあるところに生じるからです。いつでも、どこでもそれははじまります。 そして高橋は、「日本人として」の戦後責任の問題に言及します。それは、植民地支配の罪責としての責任であり、その中心には日本の戦争犯罪者の不処罰(impunity)の問題が横たわっていることを鋭く指摘するのです。 ■『敗戦後論』をめぐる論争加藤典洋の著書『敗戦後論』をめぐる、高橋哲哉と加藤との論争はよく知られています。高橋は、加藤の平和憲法、昭和天皇の戦争責任、戦死者の哀悼という主な論点について検討し、そこに新しいナショナリズムをみたのでした。この論争で問われた点は、つまるところアジアの他者の存在だと私は思います。平和憲法にしても、昭和天皇の戦争責任にしても、戦死者の哀悼にしても、アジアの他者との関係を抜きに考えることはできないことです。加藤は、意識的にか無意識にか、アジアの他者を排除しています。他者の欠落した加藤の視座が高橋によって厳しく問われたのでした。
高橋と加藤の論争は、さまざまなところでとりあげられています。1つだけあげれば、大澤真幸は、高橋の加藤批判を最もまとまったものと評価しつつ、高橋の批判が「従来の域」を出ていないことを指摘しています(大澤真幸『戦後の思想空間』)。 高橋哲哉『戦後責任論』(講談社学術文庫)
高橋と加藤の論争は、さまざまなところでとりあげられています。1つだけあげれば、大澤真幸は、高橋の加藤批判を最もまとまったものと評価しつつ、高橋の批判が「従来の域」を出ていないことを指摘しています(大澤真幸『戦後の思想空間』)。 高橋哲哉『戦後責任論』(講談社学術文庫)
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