森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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卒論1文字5円という商売
大学の卒業論文やリポートの執筆を有料で請け負う代行業者が登場し、波紋を広げている。
学生がインターネット上で見つけた資料をリポートなどに引き写す「コピー&ペースト」が教育現場で問題となっているが、これを上回る究極の「丸投げ」で、文部科学省は「事実とすれば、到底認められない行為」としている。
ネット検索大手のグーグルも、「こうした代行は不正行為にあたる」と判断、代行業者のネット上の広告掲載を禁止する措置に踏み切った。
「国立大の学生・院生を中心としたチームなので安心の品質」「6年で740件の代行実績」。ある代行業者のホームページ(HP)には、そんなうたい文句が並ぶ。別の業者のHPは「社員は学生時代に必要最低限の勉強量で優やAを取ってきた精鋭ぞろい」とアピールしている 。
こんな商売が出回るとは正直、思いもつきませんでした。
私はとっさにこう考えてしまいました。
400字詰め原稿用紙に200枚だとすると、8万字。そうすると、40万円か。嗚呼、どうしよう。
私の頃は、多くが日本育英会の奨学金を受けていましたから、理屈でいえば、親の所得がそう高くはない家庭の子弟が多かったということでしょう。今から数十年も前のこと、長髪でTシャツにジーパン、これがはやりでした。こうしたいでたちと実際の学生の生活は、少しもかけ離れたものではなかったように思います。例えば、私は、奨学金と家庭教師のアルバイトで、間借の支払いと日々の生活費をまかなうことに苦労をすることはなかったのかもしれません。結果的に私の環境は恵まれていたともいえるようです。
しかし、当時の私が仮に40万払えたでしょうか。無理です、無理でした。カネが残るなど、到底ありえませんでした。親にせびるのも心苦しいという思いが一時も離れたときはなかったように勝手に自分では少なくとも思っていました。
数十年経った今、果たして40万円、ポンと払える学生がどれだけいるのでしょう。おそらくそう多くはないのではないかと思うのです。
一方では、逆にこうも考えるのです。
学生になるための条件として、日本では今、少なくとも中流(それもその中の上の)家庭以上でないとそれを満たさないということです。国立大学を例にとると、かつてとはちがって、いまでは年間50万円以上の授業料を準備しなくてはなりません。
こんな条件を満たすのも、今の日本ではなかなか大変なことではないでしょうか。私は、心から学びたいと思っているすべての若者に教育は提供すべきだという考えに立っているので、この現状をけっして快く思いません。学びたいという意思をもつ若者に、国家はまず最大の援助をすべきだという立場をとりたいと思うのです。
この立場にたてば、二重の意味で、記事にあるような方向には賛成できません。
そもそも学ぼうという意思がどこにあるのか、問われるのはこの限りで学生以外にはありません。卒論という制度の良し悪しを仮に今、横におくとすれば、卒論に自らの4年間あるいは2年間の集大成を記すのは、自らが自らを表現する最も確かな方法でしょう。それを他にゆだねるというのは、自らの4年間を否定することにおそらく等しいといわざるをえません。
卒論の代行書きは、受験の代行、受講の代行などと陸続きの重みをもっていると私には映ります。こうなると、少なくとも教育とまったく異なる世界に大学教育が置かれてしまうことにつながりかねません。その兆しは、たとえば大学受験に一人の高校生が学校側の要請にこたえて、およそ考えられないほどの大学を受験し、合格し、最終的に高校の実績としてカウントされ、名をあげることにすでにみえています。そして、応分の「報酬」を受けるという、「資本主義日本の今日的姿」をそこに私は感じるわけです。
思想的には、社会的に認められるのは一部の「特権」を与えられた者でよい、その他はどんな形であれ、どんな経過をたどろうと我関せずという、国家による差別と分断を感じざるをえないのです。
日本という国家の中にあって、どんな役回りであれ、今後担っていかざるをえない若者に胸をはって教育を選び取ってもらうためにも、こんな方向と、これに賛成するものがあれば、反対の意思を強く表明することが要ると思うのです。
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あなたはどうする? 通勤時の暇つぶし
年を重ねるたびに、本を読む量が次第に落ちてきました。
何もたくさん読むことが必ずしもいいことではないのでしょうが、どことなく知らない世界にふれることで視野が広がるような……。こんな思いに憑かれたように、本を読んできたような気がします。でも、最近は忙しさと歳とで、思うようにいかない。
だから、こんなアンケート結果もよけいに気になるようになりました。かつてならば、必ずや「本を読む」と私ならはき捨てるように答えたでしょう。聞かれなくても、時間があれば大方、私のすることは本を読むことと決まっていました。
アンケート調査とは「公共機関を利用する通勤の時の暇つぶしランキング」。
「公共機関を利用する」と、頭についているのがミソなのかもしれません。ようは通勤時間という気ぜわしい、限られた時間での、その使い方なのでしょう。
通勤に2時間も、それ以上もかかれば条件はまた違うのかもしれません。調査によれば、通勤時間の平均は34.2分、30分以上60分未満の人が全体の約30%ですから、私もその3割に入ります。
結果は、やはり「本を読む」がトップでした。時間があれば本を読むという、私などの短絡的思考に皆さんがまさか陥っているわけではないでしょうが、それともお手頃なのでしょうか。記事によれば、日本人の読書量は諸外国と比較して決して多いものではありません。とすれば、日本人はかつての私のように、憑かれたように、本を読む気配がいまでも漂っているのかもしれません。そうせざるをえないように思い込まされている。ふりかえってみて、新書であっても、それに集中することは少なくとも私はなかなかできなかったし、今でも集中しているとは思えません。だから、意外と電車やバスの中では本を読むもの、あるいは持つものという「文化」が日本に根付いているのかなとも思ったりします。
最近では、かつてのウォークマンのように、かなりの人がiPodをバッグやポケットに忍ばせていますし、ケータイのゲームに熱中している人も結構の数です。時の移り変わりをこんなところで感じることができます。
もっとも興味深いのは、「車内の人間観察をする」が10位に食い込んでいること。これに拍手を送りたい。人が集中し、しかも動的でないとき、「自分の時間」があれば何をするのか、そしてどんな格好をしているのか、これを観察することは、社会の中を生きていく上で意外と役に立つのかもしれません。自分の立ち居地も逆にみえてこようというものです。
記事にもあるように「寝る」という選択をした人が第2位。どこでも、だれもが口にし、耳にするようになった格差社会。車中で寝るのは、その中での労働のあり方の反映かもしれません。働く時間はむろん自分の時間ではありません。働く場にいくまでの「自由な時間」。それをどのように使うかにその人の生き様も表れる。その人を眼にすれば、見る人は想像力をおそらくたくましくするでしょう。
公共交通機関の中という社会全体からは切り取られた空間ではありますが、それは、社会という空間とはけっして別物ではないはずですから。そこに、社会のありようが見えてくるのではないでしょうか。
あなたにもウォッチングを押しつけようなどとは夢ゆめ思いませんが。
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マイケル・ムーア「sicko」公開間近
メールで、ポスターなどが届きました。紹介します。
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アメリカには、国の運営による健康保険が存在しない。よって、国民は民間の保険会社に加入するしかなく、6人に1人が無保険で、毎年1.8万人が治療を受けられずに死んでいく。今やアメリカでは、事故、犯罪、テロ、戦争ではなく、治療費を払えないという理由で命を落とす人数のほうが圧倒的だ。「こんな医療制度はビョーキ(sicko)だ!」ムーアが吼えると、医療業界は厳戒態勢!ブッシュも大慌て!? エンターテインメントの枠を超えて、もはや社会現象となった本作が、医療改革にゆれるニッポンを直撃!超大国の病んだ現実を暴いた「シッコ」が、アメリカの医療制度改変を実現させ、病気や怪我に苦しむ人たちを救うことができるかもしれない―
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このアメリカの医療の凄まじさの一端を、エントリー;市場原理主義の怖さ;アメリカの実情は日本の将来図でのべました。
紹介したのは、ある日本人がアメリカを訪問中の日本人が結局、治療の甲斐なく死亡したという一件。
海外旅行医療保険とカード会社から計2800万円のお金がおりたものの、生存中に底をつき、約500万円を日本から送金しなければならなかった。それでも足りずに、死亡後、家族は2億数千万円の追加請求を受けたというのです。この金額に、家族は茫然自失になったという事例です。
何よりも医療費負担の高額なことに驚かざるをえません。米国のこの姿は、医療分野でも市場原理主義を徹底した究極の姿かもしれません。
マイケル・ムーアは、このアメリカの姿をどのように描き、弱い立場の人びとの眼から米国社会をどう告発するのか、楽しみです。
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【関連エントリー】
マイケル・ムーア作品「シッコ」公開へ;米医療制度を批判
マイケル・ムーアの告発は対岸の火事か?
塩酸メフロキンと自衛隊派遣兵の自殺
抗マラリヤ薬を服用していた6人が自殺したという(しんぶん赤旗8・16)。政府答弁書で明らかになった。
答弁書によれば、
1997年以降の10年間に東ティモール、インドネシア、パキスタン、ネパールに派遣された自衛隊員約3200人に投与されました。このうち、2002年から03年にかけて国連東ティモール支援団(UNMISET)に派遣された陸上自衛隊員1765人のうち6人が自殺しました。294人に1人という高率です。
答弁書は、「塩酸メフロキン(*1-引用者)の予防投与との因果関係は低いと考えている」としていますが、自殺との関連性を全面否定していません。一方、製薬会社が使用上の注意として「副作用に留意し、投与期間は原則として12週間まで」としているにもかかわらず、3000人以上の隊員に対して12週間を超えて投与したことも明らかにしています 。
この6人という数字は、同紙が、「米国では02年、アフガニスタンでの「対テロ」作戦から帰国した米陸軍特殊部隊兵士の自殺が2件、妻の殺害が四件、立て続けに発生しました」と伝えていることと比較しても自殺率は高いののではないかと推測される。米軍は、イラク派兵部隊については他の予防薬に切り替えているということだ。
当ブログでは、エントリー;自殺つづくイラク帰還自衛隊員でつぎのように自衛隊内の自殺についてふれた。
イラクに派遣された自衛隊員に自殺が相次いでいます。帰還後の自衛隊員に自殺者が増えていることについて、防衛省広報課はイラクに派兵された自衛隊員(5500人)の自殺者が陸上自衛隊で6人、航空自衛隊で1人と回答したといいます(『しんぶん赤旗』1・14)。
昨年3月には防衛庁(当時)は国会で、イラク派兵隊員の自殺者について陸自が4人、空自が1人と答弁していました。それ以後、あらたに2人の自殺者が出たことになります。
イラクから帰還したアメリカ兵の間に、今「PTSD=心的外傷後ストレス障害」が増え、昨年NHKがこれを伝えた。
アメリカの医学雑誌(*2)が米軍の協力のもと行った調査によると6人に1人がPTSDなど深刻な精神的な問題を抱えているという。イラク武装勢力との戦いの中、いつどこから襲われるかわからない恐怖、民間人を誤殺してしまった罪悪感などが兵士の極度のストレスを生んでいる。
しかし、この事態が米国だけのものではないことを、今回の答弁書はあらためて私たちに伝えたのである。90年代の後半から自衛隊内に自殺者が増えはじめた。これは自衛隊の海外派兵が開始されたのと一致している。
実際に戦争を体験していない私は、戦争という極限の環境の中で、人間の受ける精神的ストレスと恐怖が増幅される可能性を推測するほかはない。
明らかにされた事実は、こんな形でも人間を死に追いやり、傷つけるという戦争の残酷な一面をあらためて告発しているように思えてならない。
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*1;おくすり110番の解説(塩酸メフロキン)→ここ
アルコールと一緒に飲むと毒性が強まるとあります(赤下線)。
*2;たとえばJANJAN(ここ)。
アメリカ精神医学ジャーナル→http://ipsnews.net/news.asp?idnews=35061
ps;アメリカ精神医学ジャーナルのリンクが正しくありませんでした。修正しました(16日pm17:40)
人間を監視するということ~ユビキタスと刑務所
5月にハイテク刑務所のことを書いた。
そのときは、民営化、つまり全国初の民間移譲の刑務所という点に焦点をあてた。移譲の様式は、刑務所としてははじめてのPFI方式を採用したものである。
民営化もここまで;刑務所
この刑務所で新たな認証システムをもちいた管理手法が用いられている。刑務所だから、管理とはすなわち人間の管理、受刑者の監視である。
そこで、新しい管理手法にもちられる技術とは、ICタグ(*1)を指している。チップの中に超小型のアンテナが組み込まれている。
ハイテク刑務所=美祢刑務所には、従来のような高いコンクリート塀や鉄格子がない。受刑者の移動に看守が付き添うこともないという。
ただし、受刑者には、ユビキタスの眼が張り巡らされている。ようは、受刑者の上着には、識別情報を埋め込んだICタグがつけられている。どこにいても、中央警備室のモニター画面に映し出され、現在位置が確認できる。上着の取替えなど不正を摘発するために、部屋の出入りの際には指静脈画像による本人認証がおこなわれる。職員もICタグ内蔵の職員証を着用し、総勢1500人のユビキタス・ネットワークが構築されている。
つまり、この刑務所での新しい管理手法の導入は、同時にユビキタス・ネットワーク(*2)の検証の機会としても位置づけられている。
受刑者が監視を意識する、しないのレベルではなく、「意識できない」うちに中央管理されているということができる。受刑者=囚人の監視といえば、フーコー(*3)を思い起こす人もおられるのではないか。
今後、職場や学校などへの拡大が構想されている。
アメリカで9・11テロ以後、大きく変化したもののひとつに監視体制がしばしば指摘される。
人間の監視の問題は、安全はだれでも望むものだから、たとえば権力の監視強化を批判するのはなかなかむずかしいところがある。
一般には、ユビキタスとは、生活のすべての面で自分の正体が明らかにされる方向に今、開いている。以下の注釈に記しているように消費社会でうまくも活用されるし、たとえば治安維持にも活かせるというものだ。まさに、監視カメラとICタグを用いた認証システムが今後、普及すれば、これからは職場や学校だけでなく、たとえば中高生が「立ち入り禁止」とされるゾーンに一度、足を踏み入れたとたんに警察官が駆けつけるという事態も推測されるわけだ。いつでも、どこでも匿名にはなれない、不特定多数の中に一人になれないという不気味さを、私は失いたくはない。
ここまでくると、ユビキタスという概念を着想したマーク・ワイザーのもとから、概念が一人歩きしてしまっているようにも思えてならない。
いつでも、どこでも、意識できないところで監視される世界が普遍化される事態を前にして、一人ひとりの日常生活を支えるためのものであったはずだと、肩を落とす彼の姿を想像してしまう。
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PS;刑務所運営をセコムがどう位置づけているかが、ここに示されています。
*1;suica(JR東日本)やICOCA(JR西日本)、おサイフケータイなどもICタグを活用したものです。
*2;この刑務所の競争入札で落札したのは、セコム、日立製作所、日本ユニシス、清水建設、竹中工務店、新日本製鉄、小学館プロダクションで構成する美祢セコムグループ。これにニチイ学館も協力企業として参画。
*3;ミシェル・フーコー(Michel Foucault)
=====
『監獄の誕生』において、フーコーは、17世紀から18世紀にかけて、人間の身体を支配の対象とする思想が形成されたと考えている。そして、権力に従順な身体を作り出すために閉鎖的な空間に個人を配置して位置を決定し、時間を細かく配分する。また、この配置は、試験を課すことにより、入れ替えることができる。それに不合格となった者は処罰され、それへ合格した者は真理への近さを誇り、それを人に強制できる権力を手に入れる。こうして個々人を把握することにより、一斉に命令を行なうことができるようにする。フーコーはこれをディシプリン(規律)と呼んでいる。この試みを建築に表現したものがパノプティコン(一望監視装置)であり、中央の監視塔から囚人を監視するという構造は、監視されていると感じることによって個人の中に内なる監視者を設けさせ、少数者の監視ですみずみまで管理の眼差しが広がることになった。こうして、パノプティコンは近代資本主義社会のモデルとなり、権力に従順な道徳的な主体が作り出されたとフーコーは考えている。
=====
右利き=多数派が正しいのか。
東国原知事が、記者を前に「今日のように発表事項が重要でない時も必要なのか」「統一選に対する見解も飽き飽きするくらい言ってきた。今さら何を聞きたいのか」「あなたたちが聞きたいことが、必ずしも県民の聞きたいこととイコールだとは思わない」と否定的な見解を述べた際のことだ。
記者クラブをどのような根拠で信用されているのか判りませんが県民が知りたいことはインターネットでいくらでも県とやりとりができる現状なのをご存じですか?
逆に記者クラブ発の報道の具現化・・・要するに「新聞記事」とか「テレビニュース」はそれぞれの会社の「編集権」とやらでその局(社)の都合の良いように歪めて発信されるのが普通です。
つまり東国原知事の本当に県民に伝えたいことが報道各社の思惑というフィルターを通して我々に届くわけですよ。本当のところが伝わる保証はありません。あなたはそんなにマスコミを信用されているのですか?知事はその絡繰りが良く判っているから県民と直接会話した方が百万倍もましだと思っていらっしゃるのだと思いますよ 。
いくらでも突っ込みどころはあるが、この方がインターネットを過信していることとネット環境にない人は埒外におかれていることについてのみ返答した。「記者クラブをどのような根拠で信用されているのか判りません」という字面から判断して、逆にこの人はインターネットを信用しすぎている。さもネットの世界は真実を伝えているとでもいわんばかりだ。
私が強調したいのは、ネット環境にない人、関心のない人をあらかじめ「排除」しているということである。インターネットを利用している人口は総務相調査では06年で8800万人になろうとしている。だから文字どおり多数派なのである。自戒気味にいえば、インターネットやブログというバーチャルな世界はすでに少数者を切り捨てて、あるいは排除して成り立っているともいえる。ブログの力を論じているものを散見するが、そこには「ユーザーの民主主義、平等主義」はあるかもしれないが、そもそもただその枠内のことにすぎない。
「左利きはつらいよ」 少数派の気持ち伝える企画を開催(朝日新聞電子版8・13)
自分が左利きだからいうのではないが、なかなか興味深い記事だった。
上の文脈とのかかわりでいえば、少数者への配慮という観点がこの記事の核心だと思う。配慮とは、別の言葉でいえば眼差しだろうか。
私は、左利きが少数者だから肩身が狭いと感じたことはなかった。けれど、箸と鉛筆だけは右で使うようにしつけられた。しかし、見る人にとっては、なんともぎこちないそうである。たとえば鉛筆を握るその微妙な角度や指の添え方がやはり右利きの人とは異なるらしい。それでも、余り気にすることなく、なんとかここまできた。
記事中にあるように、「日常風景に右利きが正しいという価値観がしみこんでいる」と思われることはしばしばこれまで感じてきた。だが、今日、あちこちで鉛筆を、箸を左手で握る人をみるようになった。
それでも、日本はまだ左利きにとって住みにくい社会ということを記事は訴えているのだろう。
人間は他者を前提に生きている。その他者と自らを比べてみて、ほとんど同じもの、同じ属性はおそらくそうたくさんないだろう。違っていて当たり前である。
左利きか右利きかという問いと区別だけでなく、日本の社会では、しばしばあらゆることを峻別し、多数派につこうとする性向を感じることが少なくない。当ブログでは、そのことをこれまで頻繁に語ってきたが、少数者への眼差しを欠く社会から脱出できる日は果たしていつの日だろうか。
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「おにぎりが食べたい」その後

主治医は「市側には、症状が軽快し軽作業は可能とはいったが、普通就労ができる状態ではなかった」と説明していると伝えられています。
市が作成した症状調査票の「主治医の意見」について、実際の説明とは異なる内容が記載されていたことになります。
ここ(小倉タイムス8・10)には、作成された症状調査票の意見欄に、「肝機能も良化傾向にあるため、就労は可能である」とはっきり記載されています。
自殺が報じられたとき、市はこう語っていました。そして、死亡した男性の日記には、市側からの圧力がうかがわれることについてエントリーで以下のようにのべました。
同市の当該区役所課長は「辞退届は本人が自発的に出したもの。男性は生活保護制度を活用して再出発したモデルケースで、対応に問題はなかったが、亡くなったことは非常に残念」と語っていますが、本人の日記によるかぎり、行政の側からの圧力を相当、感じ取っていたようです。だから、辞退させられたに等しいと思わざるをえません。
一票に託せず;生活保護「辞退」で死亡
北九州市は昨年の市長選で民主党元代議士が市長に当選。それ以前の、悪名高い同市の「水際行政」の実態を明らかにする検証委員会が設置されています。厚労省の生活保護受給抑制政策を「最も忠実に、しかも最も過激に」実践してきた同市の生活保護行政。同市の非人間的な対応にメスが入れられるのは当然ですが、その前提となったセーフティネットたる生保行政がはたしてこれでよいのか、厳しく問われる必要があるのではないでしょうか。
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PS;報道を受けて、市側は本日午前、記者会見をしたことが伝えられています。
西日本新聞(8・10夕)
「読売」はジャーナリズムか。社説で「政権担当能力に疑問符」
そこで考えたいのは、小沢氏がアメリカの要請を断ったことに関しての読売社説についてだ。
ここでは2つの問題点をあげたい。
その一つは、事実にもとづかない論説ということである。2つ目は、ときの権力を監視し、それが国民の利益に反していたり、強権横暴の実態があれば、それを打破する論陣をはるというのがジャーナリズムの役割だと思うのだが、それに照らしてどうかという点だ。社説は、このようにジャーナリズムをとらえるとすれば、明らかにそれを踏み外しているといわざるをえない。読売の立場は、ジャーナリズムの精神を忘れた、権力のプロパガンダ紙になっているとさえ思う実態にある。
事実にもとづかないという点で、一つあげておく。
読売は、「ブッシュ大統領は『これは米国の戦争だ』と、国際社会のコンセンサスを待たずに戦争を始めた」と小沢民主党党首がのべたのにたいして、シーファー米大使を弁護している。同大使は国連安保理決議1746にふれて、アメリカの軍事行動を「国連が認めた活動」だといっているが、これは誤りだ。この点では小沢氏が正しい。
安保理決議1746(*)は、国際連合アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)に関するものであって、米軍の軍事行動を容認するものではさらさらない。
読売は、アメリカとこれに追随する日本政府の立場に立って、小沢氏の態度を批判している。「テロ掃討作戦は、小沢代表が言うような『米国の戦争』ではない。国際社会による対テロ共同行動である」など、黒を白というようなものだ。執筆者のジャーナリストとしての資格が問われる水準の問題といえるのではないか。
今回の米大使との対談で、小沢氏にはさまざまな思惑は当然あるだろうが、協力要請に応じないという姿勢を貫いたことは評価されてよいだろう。
読売がこれを短絡的に「政権担当能力はない、と判断されても仕方がない」と扱う姿勢を疑う。
私は参院選で、右寄りであれ、左寄りであれ、新聞ジャーナリズムがこぞって二大政党制を推進している実態は、今日のメディアの救いがたい汚点だと考えている。
今回の読売の社説は、右か左かなど私にとってはどうでもよいが、そもそものジャーナリズムとはいえない水準に限りない疑念を抱く。
これでは、読売が権力の走狗といわれても、それこそ「仕方がない」だろう。
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PS;民主党のいまの局面での「強硬姿勢」は同党の政権交代までのロードマップによるのでしょう。今後も監視が必要だと私は思います。そのことと、今回の小沢氏の対応は分けて評価されないといけないでしょう。国民の立場にたった対応を今後も願うばかりです。
なお、読売のウソについては、ここでゴンベイさんが詳細にふれられています。
*参照したサイトには、つぎのようなプロフィールが掲載されています。「私たち「Soka国連支援ネットワーク(SUN)」は、国連の広報活動を支援することを目的に、国連広報局(UN/DPI)と提携するNGOである日本の創価学会及び創価学会インターナショナルのメンバー有志が運営しているボランティアグループです」。
「穀つぶし」またはロストジェネレーション再論
フリーターとかニートとか、何か気のきいた外国語使っているけどね。私にいわせりゃ穀つぶしだ。
都知事とは反対に、私はむしろフリーターやニートに彼らをしてしまう環境に関心がある。ようは、なりたくてなったんではないだろうという単純な思いである。
今の30歳を前後する世代。これをロストゼネレーションとよんでさしつかえないだろう。別エントリーでこのことにふれた。
この世代は、彷徨わざるをえなかった。日本資本主義の「発展」を支えるために自らを主張することを許されなかった世代だ。
端的に「氷河期」という呼称で、彼らを取り巻く環境、たとえば雇用の面でそう我われは表現するのだが、しかし矛盾をありったけ彼らの世代に押し付けてしまったという、何ともいえない感覚をぬぐいさることができない。
彼らの多くが経験したことはたぶん、こんな世界であったはずだ。先に公開したエントリーの一部を再掲しておく。
=====
ロスト・ジェネレーション。
現在の30代前半をさすのだろうか。
彼らが職を探したとき、周りの雇用環境は、一変した。バブル崩壊後、多くの企業が採用を控えた。内定にありつけず、止むなくフリーターになった者も少なくない。
正規から非正規。
この筋道をつけたのは、やはり経団連か。95年に、一部の基幹職のみを正規、その他は有期雇用にきりかえる改革案を打ち出した。
以後は、周知のとおりだ。
99年、財界の要望を受け、政府は労働者派遣法を改正した。
失われた世代。
構造の変化は10年ほどで劇的にすすんだ。
非正規雇用は、95年・1001万人(20.9%)だったが、2007年には33.7%(1~3月期)と大幅に拡大した。実に1726万人。
正社員にくらべると、格段に低い賃金で働かせることができる非正規。正規から非正規への置き換え。生涯賃金で億の差がつく。これに企業が飛びつかないわけがなかった。
結果、企業の収益構造は改善。今日、発表される決算をみれば、過去最高をあげる企業も少なくない。
労働者の犠牲の上に成り立った利益拡大構造だといえる。
フリーター。
92年には101万人だった。03年、過去最高の217万人に倍化した。以後、減少するが、それは、フリーターへの流入数の減少によっている。
ようするに、より年齢の高い、失われた世代のフリーターは厳しい環境に変わりない。
彼らは、厚生労働省の統計からもはじかれている。
34歳以下の世代のパート・アルバイトをフリーターとよぶ。これが、厚労省の定義。
You are all a lost generation.
失われた世代のフリーター。
時が流れ、彼らも高齢化する。いよいよ高齢フリーターが増加する。
統計にも乗らない、むろん国の施策の埒外におかれるフリーター。
=====
だが、いまや「失われた世代」だけではなく、この環境が普遍化している。息づまるようなその日の連続を感じているのは少なくないだろう。
その結果が、たとえば今回の参院選の投票結果に劇的に表れているのではないか。若者だけではなく、高齢者も、働き盛りの世代も、そして地方の人びとという具合に。
それは、とにかく今を抜け出したいという叫びにも似た願いであるようにみえる。
だから、いまや失われた世代はその言葉の本来の意味をも失いつつあるかに私にはみえてくる。
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【関連エントリー】
ロスト・ジェネレーション
庶民の生活にやっと照準。解決策は…;経済財政白書
景気回復といわれて久しいが、実感がなかった。むしろ、毎月の収入は減っているのに、税金は増えて手許に残る額は少なくなったとため息をつくことも珍しくはなかったろう。
競争力強化をたてに、減税を政府に迫り、労働コストを抑え続けてきた財界・大企業。だが、大企業の収益拡大と裏腹に、庶民の懐はいっこうに温まらず今日に至った。経済財政白書はこの日本の家計に照準をあてた。
少し補助線をひいておくと、財界が国際競争力をいうとき、決まって競争力の有無を労働コストの高低に収斂させていく手法をとった。
もともと国際競争力とは何かを定義するのはむずかしい。財界のやり方は、たとえば中国や東南アジア諸国と日本の賃金を比較し、日本が高すぎる、だから競争に勝てない、という口実をつくりあげた。そして賃金を抑制してきた。あるいは、日本の企業の税負担をとりあげて、しばしば税負担割合が高いといってきた。だが、これも税負担だけでなく、社会保障費用負担もあわせてみてみると日本が特別に突出しているわけでもない。つまるところ、内実がはっきりしない国際競争力を賃金だけでみたり、税負担という一面をみて語ることに意図的なしかけがある。たとえば製品の品質、労働生産性、為替レートなども大いに競争にかかわるだろう。
戦後最長の景気回復が続けていると評価しながら、経済成長下でも格差が拡大している実態を一つの問題点として白書が今回抉出したのは、一つの前進だとみてよい。
一方で、就任早々に経済成長路線を安倍首相はうたったわけだが、首相のとる「成長路線」が有効な処方箋となりえていないことをこれは示している。
メディアが伝えるかぎり(*)では、この間の財界の「一人勝ち」状態の一方で、家計に波及していない実態をどのように改善していくのか、明確に示しているわけではない。
財界や大企業のみが潤う成長路線ではなく、製品の品質、労働生産性にも少なからぬ影響を与えると推測できる賃金引上げが、やはり家計を温める上で要るだろう。そして、所得再分配がこれまでのままでよいか、これも正面から問われないといけないだろう。
*西日本新聞(8・7夕)
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選挙後の日本、どうなる!?
ありきたりの狂騒と幻想を乗り越えよ!
かつて吉本隆明は共同幻想論を物したわけですが、選挙最終盤にいたって、率直にいって狂騒と幻想の中にいまだに日本はあるということを感じずにはいられません。おそらく、終わってみれば9・11の別表現という結果がもたらされるでしょう。
日本ははたして少しも「進歩」しないのか。
狂騒と幻想というのは、二大政党制という一つの用意された土俵で、さも争っているかのような政党の選挙闘争をまず指しています。そして、それを側面からサポートするメディアのありようをつぎに指しています。さらに視野を広げれば、バーチャルな世界で蠢くプライド高い集団もまた、その仲間に入れることが可能かもしれません。
そして最も大事なことをつけくわえると、ここまでのべてきた仕掛けの中で、本来の今・ここが変わってほしいという切なる願いを実現する術を、あてがわれた方途であれば解決できるだろうと思い込まされている圧倒的な有権者のふるまいです。
その上で、それでは選挙後、暗澹たる世界にわれわれが放り込まれるのかといえば必ずしもそうではありません。
もうすでに、選挙後の情勢の要を鋭く嗅ぎ取って、動きがはじまりました。主体者としての一人ひとりの意思の結集です。9条改憲を絶対に許さないという強固な意思をここに感じ取るのです。そんな運動がはじまりました。
かといって、政治の世界では95%以上が9条を保持しようという明確な意思を表明できない、もどかしい日本の国会の現状が現実には厳然としてあり、決して侮れないのですが。
二大政党制の定着は、日本の将来にとってよい結果をほとんどもたらさないと私は思います。そして、選挙の結果はどうであっても、国会だけに頼る、おんぶにだっこの「民主主義」は日本にもう要らないという意思を示すことがいよいよこれから問われているのではないでしょうか。
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二大政党制;日本の狂騒とアメリカの今
狂騒の只中にあるという感じだ。
朝日は、ともかく凄い。二大政党制旗振りの記事を連打している。もちろん朝日だけではないのだが。
上の記事は、その最たるものだろう。安倍と小沢をくらべて、小沢をもちあげているが、かたや安倍は、国民にはどうみても政権末期と映るわけで、ほとんど結論を予想できるものだろう。あえていえば、この記事は一種のマッチポンプといえなくもない。
安倍も、小沢も、政治家個人のこれまでの言行をみるかぎり、私には似たり寄ったりにしか正直みえない。
閣僚のあいつぐ「政治とカネ」問題、およそ国民の気分・感情などはさらさら理解していないと思わざるをえない暴言の数々。それらに決着をつけられない今の内閣はむろん御免こうむりたいが、問題は、首をすげかえたら終わりでよしとはならないことだ。
いまの日本には解決しなければならない課題が山積している。年金制度、消費税、憲法、貧困と格差、政治とカネ、そして新潟県中越沖地震で浮き彫りになった原子力発電とその安全性などなど。これらの問題で、明確に政治が変わったという実感、政治を変えてほしいというのが有権者の願いなのだろう。自公政治にノーをつきつけられる政治こそ国民の望むものではないか。
だからメディアは、これらの問題で、自民・公明と野党の民主、共産、社民、国民新などの各党のちがいがどこにあるのか、それを明確にし、判断の基準を指し示すことが求められている。
けれど、メディアの現状は、自民「コミ戦」に乗せられた小泉9・11選挙をまったく忘れ、今度は民主「コミ戦」に乗っかっているような気さえするのである。メディアは時流に乗るだけでよいのか。15年戦争に至る過程でメディアが果たした役割を再び思い出させるような現状ではないだろうか。
そんな狂騒に心底、呆れる。アメリカでは、共和、民主の二大政党制にあきたらぬという声すらあがっているというのに。
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PS;海の向こうのアメリカは、二大政党政治ではいうまでもなく日本の先輩格。いまや日本はこの面でもアメリカのあとを追っています。ところが、当のアメリカからこんなニュースも伝えられています。
http://www.usatoday.com/news/politics/2007-07-12-third-party-usat_N.htm
米国民の58%が第3党が必要だと考えている、という調査結果が出ています。USAトゥデー紙とギャラップの調査です。(下図、クリックすると拡大します)
狂騒を離れて、一度海外の出来事から日本をながめてみるのもいいのではないかと思うのです。
エントリー;第三極は展望できるか。そして山口二郎の「選択」。には、この調査に関するコメントをいただきました。
合格マシーン
「大学合格73人」実は優秀な1人が受験 大阪の私立高
これこそ笑えない笑い話ではないか。
男子生徒は元々受けるつもりだった5学部・学科と合わせ73学部・学科にすべて合格した。受験料と願書の送料計約143万円は全額、奨学金の名目で学校側が負担。さらに激励金5万円と数万円相当の腕時計を贈ったという。
こんな念の入れようは、教育者のそれではなくて、学校経営という経営優先の行為だろう。どんな形で同意したのかは明らかではないが、受験した生徒はまるで合格マシーンではないか。毎日、毎日卵を産む養鶏場のニワトリのような。
その結果、学校が手に入れるのは、大学合格者実績という数字。これが学校のランクを決める。
奈良県で、医師宅で昨年6月、妻子3人が焼死した放火事件を巡り、殺人などの非行事実で中等少年院送致となった元私立高校1年生がいた。その事件をめぐって本が出版された。この事件は、その出版をめぐって、家裁が著者と出版社に抗議文を送り、最近は法務局が勧告をおこなうにまで発展している。
この事件にふれたエントリー;「僕はパパを殺すことに決めた」」;新しい学歴社会の果てでこうのべた。
新しい形の学歴社会がはじまり、父親の少なくない部分が自らの子どものための受験競争のなかに組み込まれている姿を語っていました。パパのための受験雑誌の相次ぐ刊行。端的にこの事象に表れているように、子どもたちはもちろん、ここでは父親までが分断されているのです。
容易に推測できるのは、実績という表面に出る数字に過剰に反応する社会がすでにあるということである。一方でそのなかで生徒たちも、そして親も社会的な不安感をどんどん煽られることになる。
そして優秀な生徒とそれ以外の生徒の扱われようの違いは、まさに今日の日本社会の縮図でもある。学校教育に市場原理を持ち込むと、その極限にどんな事象が起こるのかを鮮明に示した事件ではないだろうか。
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モンスターペアレンツ
「近所」はどこに行ってしまったのだろう。
ものごとは不均等にすすんでいくので、「近所」がまだ残るところがあるかもしれない。だが、かつての「近所」は消失しかかっている。
「近所」のなかで何でも話され、解決する。
人の考えは経験からのがれることはできないために、自らの過去にどうしてもさかのぼってしまうが、これが問題の解決法だった。「近所」のなかにはいろんな人物がいて知恵を出し合う。自分の経験なんて近所の人々の経験の総和のごく一部にすぎないし、およそ多くのものごとはこうして解決の方向にむかっていったのではなかろうか。むろん解決できないこともあったにちがいない。
「近所」とよぶものは、地域の共同体、コミュニティーということだ。
おそらくモンスターペアレンツが現れるようになった背景には、このコミュニティーの崩壊がある。
親も、教師も、共同体を知らないか、あるいはかかわらないで育つ。そうなると、たとえば一つの問題が発生すれば、親と学校=教師の関係になってしまう。一対一の緊縛した関係性が成立する。もつれた糸をほぐせない関係になってしまうのだ。
正直なところ、こうのべるいまの自分のなかにも、これをうっとうしいと思うもう一人の自分がいる。だが、モンスターペアレンツ問題の解決のためには、もう一度、皆で考える枠組みが不可欠で、これを取り戻そうということになるだろう。
文科省の考えでは、それを外部に委ねようということだが、「外部委託」という考え方には疑問が残る。
親と学校を、地域から切り離して第三者が問題解決にあたっても、発生した一つの問題しか解決しないという限界がある。対症療法にすぎないだろう。親と学校の問題を、地域に戻していく。学校を地域に文字どおり開放することで解決の一歩に着くのではないか。
共同体の崩壊とともに、日本の社会は消費社会とよばれるものになった。席巻する新自由主義、市場原理主義はこの消費社会と対になっている。私たちの頭のなかも、あらゆるものを商品・サービスだとつい考えてしまう構造に次第になってきたといえるだろう。すべての商品・サービスをつくる・生み出す、消費するの関係。売る、買うの関係にしてしまうのだ。
教育のなかでは、学校選択制が広がってきたのがこれを後押ししている。学校が「商品」化される。だから、たちまち、自分が買うサービスが悪ければ、いいたいことはいうだろう。ようするに社会のクレーマー化というものは、共同体の崩壊に加えて、自分を消費者に置き換えてしまう関係性が消費社会のなかで醸成されてきたことを示しているだろう。それが、教育の場に現れてきたというのが今日の問題というわけだ。
モンスターになってしまう、あるいはそうとらえてしまう、親と学校の完結した関係。モンスターペアレンツ問題は、おおもとのところで、はたして教育や医療を、売る、買うの関係に置いてよいのか、これも問うている。
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新潟県中越沖地震は語りかける
05年に遠く離れたアメリカをハリケーン・カテリーナが襲ったとき、私たちは、貧富の格差というアメリカ社会の矛盾をみてとった。それを今度は、この日本で再び検証することになったともいえる。この日本でも、命を、健康を、そして生活を奪われるのは、たとえば高齢者などの社会的弱者だ。
誰でも理解できることだろうが、この地震で家屋が倒壊したとき、それでもフレキシブルに対応し、住居を建て替え、改築できるのは富める者だろう。
エントリー;貧困を語るときの盲点でふれたが、貧困に直面する人をはじめ社会的な弱者、彼・彼女を守るものは何もない。無防備だといえる。そして周囲はすべて、機会さえあればいつでも牙をむく強者でもあるだろう。
選びようのない状態に、すなわち弱者は置かれている。彼らは、だから精神的にもその日暮らしにならざるをえない。
弱者には、選択肢がない。
一方で、富める者をまるで象徴するかのように、メディアは以下のように報じた。
復旧急げ、自動車業界650人集結 柏崎の部品工場へ(朝日新聞7・20)
むろん企業には、抱える何千、何万という労働者の生活がある。そして、その企業のもとには幾多の中小の零細企業があるだろう。だが、この記事が伝えるのは、企業の本質である利潤追求へのあくなき意志であり、そのための危機管理であるだろう。富める者の象徴としての大企業は、この記事のように一種、フレキシブルに対応できるわけだ。
同様に天災に見舞われ、一方は同じ階層で結束し柔軟に対応する。他方、選ぶべき、あるいはとるべき方向すらもちえない弱者の存在がある。私たちは、日本の社会の亀裂をそこにみてとれるのではないだろうか。
弱者など日本社会には要らないというのなら別だが、避けようのない天災に見舞われ、しかも採るべき術をもちえない人びとがいることに少しでも矛盾を感じるとすれば、いまの日本のとる方向づけに疑問をさしはさまざるをえない。こんなときに弱者にむけられた社会的制度の充実が必要ではないか。
天災に見舞われたとき、その矛盾が集中する弱者を救うべき制度が縮減されつづけているのが、今の日本だ。
この方向づけがよいのかどうか、それを今回の中越沖地震は私たちに問うたといえるのではないか。
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