森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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猪瀬直樹の参院選「選択」

一方で、日本が官僚主権の国家であって、これに風穴をあけたのが小泉政権だという主張がある。元信州大全共闘議長の経歴をもつ猪瀬直樹が朝日新聞(7・18)のインタビューでのべている。(写真右をクリックすると拡大します)
なるほど、「官僚主権からの脱却」とはいかにも聞こえがいいが、これはむしろ、おおもとの力がどこに端を発し、作用しているのかを見誤らせる言葉だと思える。たしかに、戦後、歴代自民党政府と官僚たちは深く結びついてきた。そして、一方で少なくない自民党政治家を官僚層から輩出してきたのも事実だ。しかし、官僚が主権をにぎるといい切ってしまうと、それは正しくないだろう。
そうではなくて今日、資本の論理をかざし、経済のグローバル化のかえ声とともに、いっそうの規制緩和と市場原理の貫徹を訴えるのは財界であって、同様にアメリカだろう。そのたびに、彼らの権益確保優先の方に国家の施策がゆがめられていく。極論すれば、主権は財界とアメリカにあるといえる今日の日本なのである。
猪瀬が官僚主権というとき、それは「大きな政府」の代名詞を意味している。その象徴がたとえば彼にとっては今日の社会保険庁問題なのだろう。ようするに「官僚主義からの脱却」とは、高度成長期をふくめて戦後自民党政治を政策的に支えてきたのがケインジアンだとすれば、それを右から乗り越えようとするネオリベラリズムの立場の表明にすぎないだろう。
官僚を擁護する気はさらさらないが、猪瀬はこんな構図を頭で描き、叫んでいるといえる。
イデオローグというには余りにも小ぶりの、そしてブレーンというには浅薄にすぎる。一文筆家の域を少しも超えないだろう。それは、ほとんど誰かの蒸し返しにすぎない。たとえば以下の言葉にそれを読み取れるのではないか。
格差問題にしても一般論で語られすぎたと思う。むしろ「失われた10年」より、景気や雇用はいい。問題は、もう一度挑戦できるシステムをどう構築するかだと思いますね。
日本が沈没しないようにするには、東京も地方も規制に縛られていては国際競争に勝てない。
猪瀬は権力機構の一部の「解体」を叫びながら、権力を保持しようとする勢力を擁護する。光陰矢のごとし。40年の歳月をへて、この論理構成も、心性も学生のままか。
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貧困を語るときの盲点
そして、最近も、生活保護を「辞退」し悲惨な結果に結びついたことを知らせる報道にふれた人も少なくないだろう。まさにこの事例は貧困とはひとたび生活の歯車が狂うと、誰もが直面するものでもあることを示した。これを、私たちはどのようにとらえたのだろうか。格差社会はよくない、ただされないといけないと考える人も、自分はこうはならないとちょっとでも考えなかっただろうか。
朝日新聞記事(7・11)を引用すると、
今春、事務所が病気の調査をしたうえで男性と面談し、「そろそろ働いてはどうか」などと勧めた。これに対し男性は「では、働きます」と応じ、生活保護の辞退届を提出。この結果、受給は4月10日付で打ち切られた。この対応について男性は日記に「働けないのに働けと言われた」などと記していたという。
この男性の言葉、「働けないのに働けと言われた」に正直、ツッコミを入れたくなった人もあるのではないか。働くことは可能ではなかったのか、「働きます」と応じながら、そう言って辞退したのだから本人のせいだろう、と。いわゆる自己責任論だ。
しかし、貧困に直面する人にとって、彼・彼女を守るものは何もない。無防備だといえる。そして周囲はすべて、機会さえあればいつでも牙をむく強者であるだろう。
選びようのない状態が、すなわち貧困な状態だといえる。彼らは、だから精神的にもその日暮らしにならざるをえない。

そして、格差が仮に語られても貧困が一つのテーマとして表出しないのは、実はこの自己責任論によっていると私は思う。貧困が語られないのは私たちのどこかにそれが潜むからだ。
これを乗り越えたところに、貧困な状態にある彼・彼女らにむけられるまなざしがある。
だから、私は、つぎの言葉を心底から嫌悪する。
格差社会と言いますけれど、格差なんて当然出てきます。仕方がないでしょう、能力には差があるのだから
経営者は、過労死するまで働けなんて誰も言いませんからね。ある部分、過労死も含めて、これも自己管理だと私は思います …… 奥谷禮子(株)ザ・アール社長
政党「コミ戦」に乗るメディア
実際、9・11選挙では極論すれば自民党コミ戦の意のままに事がすすんだ。
この教訓がいかされているのかどうか、メディアの対応には疑問符がつく。
安倍首相はこれまで、定石どおり先手をうって憲法を強く打ち出すなど争点づくりに務めてきたのだが、思惑どおりには少なくともすすんでいない。
争点を絞りきれないことに加えて、安倍の総理としての資質にも目をむけはじめたのか、最近の世論調査では、自民党の支持率低下はいちだんと加速している。
http://www.asahi.com/politics/update/0715/TKY200707150387.html?ref=goo
だから、今後、自民党がどのようにコミ戦の教訓をいかすか、これが同党にとっては大敗を回避する、数少ない方途になってきた。上の朝日記事によるかぎり、年金記録の問題、そして赤城農水相の事務所費問題など、どれをとっても自民党にとって分が悪い。
自民党も背に腹はかえられない。ついに、「サンデープロジェクト」で党首生出演と銘うった企画を「登場させ」、安倍・太田でこの時間帯を独占した。連続企画だから、あと1回はせいぜい自公をのぞく他党一同の出演だろう。場合によっては、再度安倍、太田が登場することも考えられる。
自公は、国民がいまだに尾をひくような不安をいだき、解決を望んでいる年金問題では、いまの局面で、社保庁解体を前面に押し出し、労組攻撃とからめて民主党を攻撃するという戦術をとっているようにみえる。そして今一つは年金の制度設計で民主党を攻めるというものだ。はたして奏功するか?
コミ戦は本来、政党のPRだといったが、メディア側にはネガティブな視点からの報道もまた求められているのではないか。選挙報道では悪いところを書かないというのが「定説」となっているかのようだが、特定の政党や候補者ということではなく、政策的弱点や資質にも言及することが不可欠ではないのか。
「サンデープロジェクト」が典型だろうが、この番組に限らず、政党の戦略にひきまわされた9・11からメディアが何かをつかんだとは、さらさら思えない。
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【関連エントリー】
死に至る内閣? あるいはコミ戦のこと。
「かげる日本の地位」
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/world/m20070714034.html?fr=rk
もう一つ、日本のかげりに言及した記事を知った。「大機小機」という小さなコラム(日経新聞7・13)だが、「小国の栄光と日本の没落」と題している。
没落とは手厳しい。
没落とは、一人たりの国内総生産(GDP)が相対的に低下したことに向けられている。日本は90年代初めには米、英を上回り世界一だったのだ。
ところが、2005年、いわゆる番付の上位をヨーロッパの「小国」が占めることになったのだ。一位・ルクセンブルグ、ノルウェー、デンマーク、アイルランドというように。一方の日本は米、英に抜かれたばかりか、OECD(経済協力開発機構)諸国中14位に転落している。
このことに強く危惧を感じたのだろうか、そのことが記事の論点になっている。たしかに、上位を占めたヨーロッパの諸国にとっては、EUへの加盟と経済のグローバル化があるのだろう。
だが、コラム子は、一方の日本の没落の要因を、「グローバル経済への乗り遅れ」に限定している。その上で、ようするにグローバル化の阻害している日本の障壁を問題にしているのである。その一方で、中小製造業や農業などの分野の生産性の低さを嘆いた。それが、経済全体の低生産性と成長率低迷につながっていると断じてもいる。
この記事の結論は以下に尽きるだろう。
事態を逆転させるには、ヨーロッパの小国同様、徹底した規制改革と資本、労働を含めた市場開放で、日本経済をグローバル経済に深く組み込ませる以外に方策はない。
「豊かな国」を平板にGDP数値で推し量ろうとするのも滑稽だが、私が笑うのはその前提となる認識である。
たとえば、「中途半端に大きな国内市場を持つがゆえに、思い切った経済の対外開放に踏み切れず」という認識は、この格差社会のなかで国内市場が冷え込んできた現実がこれを反論するだろう。また、中小企業や農業についても、現実には、助成振興策を講じるよりも淘汰にこそ力点が置かれてきただろう。
「経済のグローバル化」が現実には、大企業の競争力を高めるための労働コストの削減と深く結びつき、そのことで国内市場は本来の機能を果たして得ていないの現実だ。まず国内の消費を高めることが必要ではないか。その方が国民にもわかりやすい。
コラム氏は、市場開放、規制緩和、格差拡大のみに目を奪われ、国内の家計を案じる気配は微塵もないようだ。
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メディアの窒息;「あるある」調査報告書は語る
メディアの取材が過度の競争のもとにおかれ、各局・各社が争うのは視聴率と販売部数だ。しかも利益優先の経営のもとで効率的な取材が要求される。ここに捏造を生む素地がある。そこには視聴者・読者、市民の視点はない。
こんな実情は、関西テレビだけでなく、放送界にあまねく存在するものだといえるでしょう。
この捏造問題にかかわって同社は第三者委員をふくむ調査委員会を設置し、事件の全容解明と再発防止策を明らかにするために調査報告書を作成しました。
この報告書には、私たちがこれまでほとんど知ることのなかった、凄まじいともいえるようなメディアの番組制作過程の現状が記されています。
いまのテレビ番組は、流れるテロップをみれば分かるように、ほとんどが外部委託で制作されています。「あるある」はそのなかでも完全パッケージ方式といわれるものを採っていて、委託先の日本テレワークはさらに再委託をしている。そうなると、もともとの委託先である関西テレビは、この制作過程全体にわたってチェック・管理するシステムをもつことが不可欠になるはずなのですが、これすら確保されていなかったのです。これは、たとえば今回問題となった捏造を見抜き修正していく力が委託元には欠けているということです。
報告書はこうした捏造を見逃した背景を以下、あげています。①大手広告代理店、②委託先の大手プロダクション、③局内プロデューサーの脆弱化。
報告書には、本来ならプロデューサーが選定する権限をもつべき制作会社の選定、出演者の選任が実際は広告代理店等によってあらかじめ決められている実態が報告されています。
今回の場合、「あるある」が電通の買取番組であり、スポンサーが花王一社であったことを考えれば、報告の指摘を容易に理解できるのではないでしょうか。
局内現場のプロデューサーの本来果たすべき役割を果たせない環境を、仮にメディアの窒息とよぶとすれば、この窒息をもたらす要因の一つが大手広告代理店だということです。かつて築地編成局とまでいわれた電通の放送への「介入」ぶり。そして同社は、「使わせろ」「むだ使いをさせろ」などを戦略としていたのはよく知られています。
窒息をもたらす2つ目の要因が委託先の大手プロダクション、「あるある」捏造事件の場合、日本テレワークがこれにあたります。
たとえば以下のように指摘されています。私にはこの報告書の数字は衝撃的でした。
- 「あるある」の番組制作予算(1本あたり、06年度) 3205万円
- 同番組の再委託先の制作予算(=委託料、1本あたり) 887万円
- 関西テレビのプロデューサー経費(1本あたり) 43万円
これは、下請け、孫請けという放送界の構造の中に巣くう商業主義の一面を表していると私は思います。そして、現実に泣くのは、弱い立場にある孫請け会社だということになるでしょう。
同時に、こうした三重構造と、もっと大本の大手広告代理店、そして大手プロダクションの番組制作過程と番組制作費への「介入」こそが、こうした事件の発生の大きな要因をもたらしている。調査報告書が伝える眼目はここにあるのではないでしょうか。
ようするに、テレビ局が、大手広告代理店と大手プロダクションに依存すればするほど、局内メディア人の窒息がきつくなるという関係としてとらえられるのではないかと思うのです。
逆にいえば、メディア人の処遇をふくむ労働環境の改善と、効率をどこまでも追求する利益中心主義をあらためることが急務の課題として放送界に迫られているのではないでしょうか。
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*須藤春夫氏・法政大学教授の所説に示唆を受けました。
一票に託せず;生活保護「辞退」で死亡
きょうから参院選がスタートしました。
生活のしにくさをこんな形で実感している人ならば、この選挙で一気に脱出したいという思いを抱いても当然でしょう。このエクソダスのかぎはもちろん私たちの一票にある。一票を託せる政党と候補者を政策を見比べてしっかりと選ばなくてはなりません。
だが、一票に託せなかった男がいる。彼は、生活保護を「辞退」させられて、死亡するにいたった。
日記に「おにぎり食べたい」 生活保護「辞退」男性死亡(朝日新聞) - goo ニュース
同市の当該区役所課長は「辞退届は本人が自発的に出したもの。男性は生活保護制度を活用して再出発したモデルケースで、対応に問題はなかったが、亡くなったことは非常に残念」と語っていますが、本人の日記によるかぎり、行政の側からの圧力を相当、感じ取っていたようです。だから、辞退させられたに等しいと思わざるをえません。
この一例は、生活のしにくさが死亡という結果にむすびついてしまったのでしょうが、息苦しさを感じる人は多い。東京新聞(7・12)が紹介しています。
母親は『一票』に託す 児童扶養手当
記事はシングルマザーの生活を追いかけ、彼女たちを取り巻く社会の環境を映しだしています。
この間の構造改革のなかで、シングルマザーも標的にされたのです。ご存知のように、財政難を背景に国は、母子家庭への支援策を現金給付から自立支援へと比重を移している。手当を減らす代わりに、就労支援事業の強化を打ち出したのです。
しかし、就労支援といっても、そもそも就労の条件がきわめて厳しい。文中のある女性の言葉が象徴的でしょう。
「でも、子どもを持つ女性が正規雇用されず、低賃金で使われる構造的な問題が解決されていないのに、手当が減らされるのは納得いかない」。
母子家庭への手当て打ち切りは、そこから這い出そうとする意思を摘むものにほかならない。「苦労する人はいつまでも苦労する社会」こそが志向されているのではとさえ思うのです。こうなると階層の固定化、すなわち貧困の固定化ということになるでしょう。
構造的な問題の解決はやはり政治の責任でしょう。解決するには、それにふさわしい国会の議席配置が不可欠です。階層や貧困を固定化してきのはだれかを見極めることです。
願いはかなうとはかぎりませんが、しかしそうであっても、一票に託すという主体者の意思を示そうとする彼女たちに、一縷の望みを感じます。一票に明確な主権者の意思を示しほしいと思うのです。
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「政党支持なし層」は動く? 動かないかも。
http://www.asahi.com/politics/update/0708/TKY200707080033.html
一政治家の、選挙に敗北すれば引退だという発言。それ自体どうよ、と私は思いますが、対する一方がそれに応酬するという現実。残念ながら日本の政治はここから出発しなければなりません。
しかも、情報の操作ともいえる、あるいは別の言葉でいえば、意見形成について著しい干渉ともいえるメディア報道のなかで、政党選択はなかなか難しいことであることにちがいはありません。
ブログをあちこち訪問してみると、たとえばこの「引退発言」騒動にすら、すでに巻き込まれていると思われるものもあるようです。
近年の政治の特徴の一つは、政党の離合集散にあるでしょう。
むろん政党再編自体は以前からあったことではあります。この離合集散自体を55年体制の崩壊ととらえることも可能でしょう。
そして、この政治的特徴と対をなしていると思われるのが「政党支持なし層」の増加です。以下にのべるように、ある意味で劇的な増加をたどっているのかもしれません。
海部内閣から、つい最近死去した宮沢喜一氏を首班とする内閣までの期間、「政党支持なし層」は平均49%(89年8月~93年8月)。その後の橋本内閣から小泉内閣までの平均値は62%(96年1月~04年8月)です。さらに、この間の細川・羽田・村山内閣期は、最低45%から67%にまで急増している。
以上は時事通信社の世論調査にもとづくもの(中央調査報)ですが、この調査によるかぎり、この細川・羽田・村山の期間に「政党支持なし層」が急増したことは、社会的構造の変化による意識変化というよりも、政界再編によるものと考えたほうが妥当だということでしょう。以後、「政党支持なし層」の増加は止まっているのです。
つけくわえれば、常々若者のなかで「政党支持なし層」の多さが指摘されていますが、それだけではなく女性に「政党支持なし層」が多いとされている。
ただし、98年4月、民主党と旧新進党系が新たに民主党を結成して以降、「政党支持なし層」の結果的に受け皿は民主党であり、一方で同層のなかで自民党は支持率を下げています。
自民党と公明党の連立は、「支持なし層」にたいする自民党の国政選挙での求心力がなくなった結果だともいわれています。現実の選挙戦術として採られているように、公明党支持者を取り込むことで得票を補完する構図ができあがったのでしょう。固い支持層をもつが、同時に有権者の拒否反応も強い公明党との連立は採るべくして採られた戦略であるにもかかわらず、一方で従来の多様な「支持なし層」の取り込みという点でこの戦略が妥当だったとは必ずしもいえないようです。
そして、この逃げた層はおそらく民主党支持へと移動していると推測されるのではないでしょうか。
「政党支持なし層」の動向は以上のように概略できる。しかし、05年9・11は、以上の見方をも一変するものでした。こんな劇的な変化をいまの安倍首相に再現できるとは考えにくい。
バンドワゴン;勝ち馬に乗る!?でふれましたが、常識的には、選挙に勝とうと思えば、①支持層を固める、②他党支持層の支持を奪う、③「支持なし」層の支持を得る―ことができなければなりません。
私が注目するのは、「政党支持なし層」は急増し、今はその伸びが止まっているといわれているが、それでも先の調査によれば、劇的な変化以前の89年当時でも50%近い同層が存在するということです。各種調査で指摘される「どちらでもない」「よく分からない」を選択する層の比率の高さを日本的特徴だとすれば、この特徴部分がどんな選択をするのかは極めて大きな意味をもちます。
そして調査では、社会的な経験をふむにつれて「政党支持なし層」も特定の政党を支持するという傾向も指摘されています。
だとすると、調査による限り、現状では、若年層と女性の動向が選挙の動向そのものを左右するということになるのでしょう。これらの層は、はたして勝ち馬に乗るのでしょうか。
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政党選択。これも一つの方法
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予想を、あるいは期待を裏切られたときの落胆ぶり。落胆という意味はほとんどの人が経験したことであるでしょうが、その中身は一つひとつちがっていて、誰かが本人に代わってあげる、というものではないようです。
かつては選挙の開票でも経験しました。いまは出口調査なるものがあって、投票終了時刻になると、メディアが首をながくして待っていたかのようにいっせいに報道します。そこで開票がすんでなくても議席配置の概要はほぼ飲み込むことができる。
ある面では面白くなくなったともいえるでしょう。
かつては、あれほど躍進、前進の可能性がある(と自分では勝手に思い込んでいる)と踏んでいたのに、いざ開けてみると伸びない、あれれと意気消沈、ということだってあったのです。あるいは、どうしたんだ、信じられない予想以上の躍進なんてこともあった。
この何ともいえない開けてみないと分からない予測不可能性をミニ体験できるツールがあります。⇒ここ
一度、お試しください。
予測が不可能だということは、実現可能性をも同時に表しています。実は2チャンネルでも話題らしく、自分が日ごろ親和性を感じている政党とは、ちがった政党との親和性が高く評価される。なぜだ、ということらしい。
因みに、私が試してみた結果は上のとおり。ほぼ納得しています。自分の主張は共産党に近いと自分で思っているからです。ほぼ、といったのは、他の政党との親和性も表示されていて、自民、公明との相性が低く、社民が高いのはもちろんですが、民主党が意外に高かったことです。
常日頃、民主党の本質は保守政党だと理解しているので、ある面で意外でした。それだけ民主党は政策がバラエティに富むということでしょうか。あるいは「包容力」があるということでしょうか。または、ヌエみたいといえるかもしれません。
まあ、野党第一党であるだけに同党への期待は高いのですが、この政党についてはコレだというものがないともいえると私は感じています。
私個人がどうであろうとそれはそれ。みなさんは、どうお感じになるでしょうか。
このツールの面白いのは、政策をもとに一つひとつを回答者に問い、政党の考えとの親和性をみるというところにあると思います。
政策とどんな態度をとってきたかで政党選択すべきだと日ごろ思っている私は、このツールと同様、有権者の一人ひとりが各政党の政策を比較してみる。これが政治を動かすきっかけになると思うのです。地道なようですが、これに尽きる。これが政治のリテラシーを高めていく。
非国民通信さんからTBをいただいて、こんなコメントを返しました。が、思い返してみて、あらためて書くことにしました。
=====
先を越されましたね。わはは。
実はエントリーしようと思ってました。が、非国民通信さんのこの記事でやめました(笑)。
こいつが面白いのは、日本人の意識の盲点をついているかもしれないということですね。
日ごろ思っている政党への親近感どおりではなく、ちょっと理詰めでいくと思いもよらぬ結果がでるというところですね。
とくに民主党に相性がいいと思っている人はどうなんでしょう? 2チャンネルでも話題みたいですね。
TBありがとうございました。
では、また
=====
当ブログの読者ならお分かりだと思いますが、日本人のものごとのとらえ方で、いま、現在を重視すると指摘した加藤周一の言説を私はたびたび紹介しています。アドルノ的さんが、同様にこの日本人の傾向について言及しておられました。
このエントリーを書こうと思ったのも実はこの点にある。
政治の中の今ここ主義。これを正していかないと、私の考えでは政治が薄っぺらいものになる。すでに政治の不在が指摘されていますが、政治とは、普遍性への闘争――己の社会的要請が普遍的な妥当性を有することを示そうとする闘争であるならば、政策論議を核にすえる必要がある。
とにかく今、他はすべて捨象して今をかえなければと「次善の」政党を選ぶ、あるいは誰それがどうしたという世界を論じることのみでは前にはすすまないのだと思うのです。
BLOG BLUESさんがバナーを作成されました。吼えまくっておられます。私のトライした結果からすると、まさにこのバナーのとおりということになります。
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【関連エントリー】
「今・ここ主義」の政治的意味
全方位「攻撃」に晒される国民;反撃の議論が必要だ
けれど、支配層がそう易々と政権の座を明け渡すはずがありません。
メディアもふくめて、与野党逆転などと騒ぎ立てる議論もあります。しかし、そのことだけでは一歩も前にすすむわけではむろんない。
より直接的な自分たちの生活をふりかえってみると、さまざまな面で政治が国民に牙をむいているではありませんか。生きづらさが最近、感じられませんか。
当ブログが取り上げるテーマはむろん日本社会の中で派生する事柄のごく一部にすぎません。そして、論じている角度も、管理人;これお・ぷてらのバイアスのかかったものでしょう。それでもこれだけの問題がある。
ここ10日ばかりの取り上げたテーマで、政党や国会、内閣等に直接言及したもの以外を新しい順に並べると・・・
消費税増税が待っている;知ってる? 人頭税石
大学にも競争原理;こんな教育でよいのか
ロスト・ジェネレーション
福祉社会は競争力が落ちるのか
交付金算定ミス1000自治体;政権担当能力はあるのか
これらは、順に、消費税増税、国立大学への交付金削減、就職氷河期、社会保障費削減、国民健康保険交付金を扱ったものでした。
私は常々、支配層の力が及ぶ側から、つまり被支配の立場からみてその問題がどうとらえられるか、ということに拘りたいと思っています。そして上記のエントリーもこの立場から書きつらねたものだと自分では思っています。
仮にこの視点に立てば、今日の政治の投げかける問題は、全方位的に国民に犠牲やしわ寄せを押しつけているということでまとめることができるようです。ようするに、今の自民党政治の影響は、それぞれの国民の思想や信条、立場がどうであろうと、すべての国民を対象に影響が及んでいるということです。正確にいえば、大企業、一部の資産家を迂回して。そして、そうせざるをえないという面ももつでしょう。
- 消費税はいうまでもありません。所得の低い人ほど影響は大きいが、全国民にふりかかる。
- 映像で流される国立大学の現状は悲惨でした。私の頃とは雲泥の差があると実感するとともに、怒りを抑えることが私はできませんでした。
たとえば、すでに国立大学は50万円近い授業料を払わないといけません。あらかじめ排除される人が数多くいるということです。そして、本来、研究と教育のはざまで苦労している教職員の環境もまたよくはありません。
今後、さまざまな分野で活躍し、国民とともにこの国のかたちを形成するであろう学生たちの境遇は、その可能性に比して格段に劣悪だという印象をぬぐうことはできなかった。美しい国がなんと空虚に聞こえることか。そして、学生の可能性を引き出す役割をもつ教職員の苦悩が手に取るように画面から伝わってきました。
指導教員であった助手と学生の私の2人で40~50平米の研究室を独占し、部屋いっぱいに実験装置を構えていた私の学生時代を考えると、ある意味で申し訳ない感じすらこみ上げてくるのです。まさに隔世の感。 - そして就職氷河期の世代の多数は、よほどの事態がない限り、今後も格差の中に置かれる可能性をはらんでいます。彼らが失ったもの、すでに限りないともいえそうです。
- 広い意味での社会保障の削減は、当ブログでも重視してきました。社会保障分野は今、丸ごと攻撃の対象です。医師も、その他の医療従事者も。そしてむろん患者、国民も。病院も、福祉施設も。
- 国民健康保険交付金の問題はやや趣きが上記4つとは異なるでしょう。消えた年金問題と同様、国民を対象にした給付にかかわっては、いかにずさんな対応なのか、はっきりする問題でした。交付金が少ない分、保険料という形で加入者・国民が負担させられるという、でたらめなものです。
それぞれの問題は、直接ふりかかる人は限定されるかもしれません。が、しかし共通するのは、ほとんど多くの国民の懐に手をつっこむが、それに見合うものはかえってこないシステムがつくられているということです。小さな政府論、自己責任論が背後にある。国民生活にかかわる分野には国は金をださないということです。
個人の負担と責任でと考える人はよいかもしれません。が、そうでないのなら、今、声をあげなければならない。
そして、税金のつかいみちをこのままやり過ごしてよいのかどうか、税金をとるべきなのはだれか、問う必要があるのではないでしょうか。そんな国民的議論が沸騰するのを期待したいのです。
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大学にも競争原理;こんな教育でよいのか
今朝のNHKテレビがこれを伝えていました。
結論からいえば、大学に限らず教育の予算を削減していく今の教育行政には反対です。
「大学経営」といいましたが、すぐにお分かりのように教育を経営としてとらえる考え方がある。これも私立ではなく国立の話です。
これを、小泉構造改革以後の新自由主義という路線と重ね合わせると、大学にも例外なく競争原理、市場原理が持ち込まれているということです。
番組では、将来性のある学生の自由な発想を援助したいという、しごくもっともな教員としての本来の願いが思うようにならないジレンマが、率直に語られていました。
実績、あるいは成果によって、国立大学への補助金を配付していくというしくみ。すでに、このやり方は医療の分野など社会保障関係では随分依然から採られてきました。
当ブログでも、最近の基地再編にからむ補助金問題に言及してきましたので、読者の方ならお分かりだろうと思います。
競争をさせて、トータルで補助金額を減らす。血も涙もないやり口。泣くのは、研究と教育にあたる教員と、学びたいという本来の当然の要求をもつ学生です。
このやり方で補助金額が増えるのは東大ほか一部の大学しかありません。多くは減額に。番組では、弘前大学、三重大学を紹介していましたが、いずれも数10%も減額される。そのことによって学費は3倍にならざるをえないというナレーションがむなしく聞こえてなりませんでした。
競争原理を持ち込む手法の成否は、おそらく何十年もあとにはねかえってくるにちがいありません。
ごく単純に考えると、市場に役にたたない基礎研究やマイナーとされる分野の研究は、研究費もつかないことすら考えなくてはならないでしょう。市場の原理が教育・研究を駆逐するのです。基礎的な研究があって、幅広い分野で実績がつくられるのではないでしょうか。地道な研究をもとに世界的な研究成果もうまれてくるのではないでしょうか。
アンケートに寄せられた下記の意見(注)は今日の教育行政を鋭く衝いています。
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注;番組の概要はここ⇒交付金減額 国立大学に危機感。NHKホームページから。
【関連エントリー】
教育貧困国ニッポン -格差拡大もたらす
「メディア不信」と情報を請求する権利
当ブログへのアクセスの推移をみてみると、1月に公開した「納豆ダイエット捏造番組にみるマスメディア」へ一定のアクセスがいまでも続いています。この記事では、もちろん番組「発掘! あるある大事典Ⅱ」の捏造について言及したものでしたが、この捏造に限らず、今日共通する報道のあり方、そしてそれを生み出す構造などに少しふれました。
アクセスが続いているということは、読者の皆さんがさまざまな立場から今日のメディアのあり方を考えておられて、どのように報道に接していくのか、模索されているのではないか、と推測するのです。
弁護士の梓澤和幸氏は、つぎのようにのべています。
ジャーナリズムの本来の役割は、権力監視であり、人間の社会環境の監視です。民主主義社会の権力とは、議会の多数派、市民や住民の多数派によって支えられた権力です。ジャーナリズムが、真摯にその使命を達成しようとすると、少数者が切実に必要とする真実、多数派によって隠蔽された真実を明らかにすることになります。それはときとして、多数派のもつ理念、意思、感情と、矛盾や衝突を来すことになりますし、それを貫いてゆけば、多数派の読者、視聴者によって好まれることにはならないでしょう。それでもあえて本来の役割を貫く覚悟がメディアの経営者たちに求められているのです。(『報道被害』198-199頁)
この立場にたって考えると、私たち市民に求められているのは、みずからの社会と運命をえらびとっていく主体として権力や社会環境などあらゆる分野への関心を高め、報道と取材に反映させていく力をつけることになるでしょう。
しかし、そうした場合、為政者のもつ情報と市民の知る情報の間に大きな差が現実にあるという問題を避けることはできない。この差を埋めるために、メディアがあるのではないでしょうか。それを担保するために表現の自由が存在しないといけないのでしょう。
社会と私たち自身の将来を私たちがえらびとるための機会の一つが選挙です。
ところが、選挙を前にしてメディアの報道は、はたしてどうでしょうか。新聞記事も、TV番組も、まるで二大政党の選択しかないかのような編成だと私は受け止めるのです。
えらびとるためには、メディアと政府にたいして市民の側は積極的に必要な情報を請求する権利がある、というとらえ方に立たざるをえないでしょう。
自らの社会と運命をたとえば二大政党への選択に賭けようと、賭けまいと、選びとるに足る情報が獲得できる現状にないことをまず問わねばなりません。
現状はむしろ、意見形成について著しい干渉を受けている、と思えてならないのです。極論すれば情報の操作の中に私たちはある。
そこにも、メディア不信があるのです。
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ロスト・ジェネレーション
現在の30代前半をさすのだろうか。
彼らが職を探したとき、周りの雇用環境は、一変した。バブル崩壊後、多くの企業が採用を控えた。内定にありつけず、止むなくフリーターになった者も少なくない。
正規から非正規。
この筋道をつけたのは、やはり経団連か。95年に、一部の基幹職のみを正規、その他は有期雇用にきりかえる改革案を打ち出した。
以後は、周知のとおりだ。
99年、財界の要望を受け、政府は労働者派遣法を改正した。

構造の変化は10年ほどで劇的にすすんだ。
非正規雇用は、95年・1001万人(20.9%)だったが、2007年には33.7%(1~3月期)と大幅に拡大した。実に1726万人。
正社員にくらべると、格段に低い賃金で働かせることができる非正規。正規から非正規への置き換え。生涯賃金で億の差がつく。これに企業が飛びつかないわけがなかった。
結果、企業の収益構造は改善。今日、発表される決算をみれば、過去最高をあげる企業も少なくない。
労働者の犠牲の上に成り立った利益拡大構造だといえる。
フリーター。
92年には101万人だった。03年、過去最高の217万人に倍化した。以後、減少するが、それは、フリーターへの流入数の減少によっている。
ようするに、より年齢の高い、失われた世代のフリーターは厳しい環境に変わりない。
彼らは、厚生労働省の統計からもはじかれている。
34歳以下の世代のパート・アルバイトをフリーターとよぶ。これが、厚労省の定義。
You are all a lost generation.
失われた世代のフリーター。
時が流れ、彼らも高齢化する。いよいよ高齢フリーターが増加する。
統計にも乗らない、むろん国の施策の埒外におかれるフリーター。
この世代にたいする救済策は緊急の課題だ。どんな業種に非正規でついていようと、現実に彼らは日本社会を支えている。こんな若い世代からの格差をそのまま引きずっていけば、今後の税制、社会保障のあり方の行く末にも大きく影響する問題だといえる。たとえば、昨日のエントリーで近藤克則氏が指摘するように、こんな実情を目の当たりにすれば、最低賃金の引き上げは最低の条件だと思うのだが。
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福祉社会は競争力が落ちるのか
氏によれば、たとえば所得格差を縮めることが、国民の健康格差を縮め、医療費抑制につながる可能性があるということです。
当ブログでは以前、近藤氏の主張についてふれたことがあります(格差社会は健康をむしばむ)。
氏は、3万3千人のデータをもとに、抑うつと所得との関係をみた。所得が低い(等価所得が年間200万円未満)層は、所得が高い層(同400万円以上)より、転倒経験率や健康診断の非受診率が高かった。一日に歩く時間も短い。歯がほとんどない者の割合も低所得者層で多い。近藤氏は、「日本でも階層間で約5倍もの健康格差がある」と指摘している。
こうした健康格差をなくすためにも、所得格差をなくさなければならないというのです。氏はその上にたって、最低賃金引き上げの有効性についても言及しています。
今の自民党政権がとる施策は、氏の主張とはまさに正反対。人は健康で文化的な生活を営む権利を有するとわが国の憲法では定めているわけですから、近藤氏の指摘にも真摯に耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。以下、引用(『週刊東洋経済』6月23日号)。
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賃金格差や教育格差が健康格差につながることが、さまざまな研究で明らかになっている。たとえば、企業における成果主義賃金は、健康格差を拡大する方向に作用しうる。成果を認められた勝ち組と、正当に評価されていないとストレスを感じる負け組のうち、圧倒的に多いのは負け組。総人件費抑制のために勝ち組は少なくなるよう設計されているためだ。つまり、成果主義賃金は多くの人たちにストレスを加える。
成果主義のストレスは非常に強力だ。ある地方白治体ではA、B、C、Dと4段階に評価したところ、Dとつけられた人たちがうつになったというケースも報じられている。実際に給料を削られてから健康に影響が出るのではなく、おまえはダメだと言われただけで人間は参ってしまう。負け組をつくらない仕組みづくりをしなければならない。
国全体として見た場合にも、底辺部分の底上げが極めて重要だ。生活保護水準の引き下げよりも最低賃金水準の引き上げを検討するべきだ。格差を縮めることが、国民の健康格差を縮め、医療費抑制につながる可能性がある。
そんなことをしたら競争力が落ちるとの反論があるが、競争力がいちばん高い国は、フィンランド。北欧は福祉大国で、そのうち滅びると言われたのが1970年代。その後の30年を見ると、結局、格差を大きくした日本の競争力が落ち、福祉を手厚くした国で上がっている。福祉水準と競争力との関連は乏しい。
確かに、社会保障を薄くすると短期的には財政負担が減るように見える。そのため、現在の日本では自己負担を増やす政策が取られているが、結果的に治療費の未払いが増えている。公立病院では税金で、民間病院で最終的には保険組合が肩代わりする必要が出てくる。未払いが増えれば、結局は税金か保険料を増やすしかない。つまり社会保障を薄くしても、巡り巡って公的負担が増える可能性は高い。
先進国中最低水準にあるGDP比医療費を大幅に増やし、健康格差を縮める方向へ舵を切れるかこれが、日本という国の健康を大きく左右することになる。
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氏が語るように、社会保障の切り捨ての口実には、あるいは賃金抑制のために語られてきたのは、国際競争力をつける、ということでした。この点に事実をあげて氏は反論しています。
たしかに北欧の福祉国家は国を滅ぼすといわれてきました。また、かつてイギリスではサッチャーが福祉国家をさんざん攻撃し、新自由主義に走ってきました。しかし、そのイギリスも見直しの方向にあるようですし、あのアメリカでもヒラリー・クリントン氏は、国主導型の健康保険制度にも積極的立場を鮮明にしています。
また、別の視角から、小松秀樹氏は医療費増を主張したのでした。
先進国中最低水準にあるGDP比医療費を大幅に増やし、健康格差を縮める方向へ舵を切れるかこれが、日本という国の健康を大きく左右することになる、という近藤氏の言葉に疑問の余地はほとんでないのではないかと思うのです。
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日本人は競争に耐えられるか;「アメリカ競争社会」一考
能力が発揮されなければ、あるいは自分の能力が他人の能力と異なり、秀でていることを明らかにできなければ脱落するわけです。
だから、企業の経営者が従業員の給与の何百倍、何千倍の収入を得ていようと、アメリカ社会が競争を許し競争に基づく社会である以上、誰も文句をいわないのです。ただし、ひとたびその能力を周囲が認めなくなると、ただちにその座を放逐されてしまう。
今日のこうしたアメリカを形成した起源をピューリタニズムに求めるとらえ方もあるようです。ピューリタンは神と個人の間に教会をおかず、個人が直接信仰の責任を引き受ける。教会をおくカソリックを、だから、自立していないなどという見方も成立する。また、その教義によれば、社会的成功を得られないということは、最後の審判で救済を受けられないということを意味する。貧者は神から見放された存在だということになるのでしょう。しかし、その貧者もまた、「欲望」をもったまま貧しい常態に置かれている。
ここで思い出すのは、ハリケーン・カトリーナ。
アメリカ南部のルイジアナ州、ミシシッピ州などを襲った大型ハリケーンは、アメリカの災害史上最悪の被害をもたらしたと報道されました。そして、災害はいつも弱い立場の人々が犠牲になることを教えてくれました。このときもあちこちで略奪が発生したと報じられています。
アメリカでは貧しい者は社会に組み込まれず、犯罪が頻発する。早坂隆『世界反米ジョーク集』では、アメリカの囚人が人口の140分の1だと指摘しています。NHKは報道番組でアメリカ国民の138人に1人が刑務所に収監されていることを伝えました。
先日、エントリー・市場原理主義の怖さ;アメリカの実情は日本の将来図で、小松秀樹氏『日本医療の限界』を紹介しました。小松氏は、以下の逸話も紹介しています。
ハーバード大学から東大に修士論文を書くためにきていた女子学生が、逆のカルチャーショックを受けていたのを目撃しました。とくに、大学院生がお互いに助け合って仕事をしていることに、彼女は、倫理的怒りを含む衝撃を受けました。
「信じられないわ。ハーバードではだれとも競争しているのに!」
彼女にとって同僚とは、すなわち競争相手であり、自分が成功するために打ち負かすべき対象であり、決してアイデアを提供して実質的援助をおこなったり、自分が独創性あると考える着想を共有する者ではなかった。そして他者との競争は、たとえ激しくても回避すべき行為ではなかった。なぜなら、アメリカ建国以来、競争は、「不正な」手段によらないかぎりは、倫理的正当性を帯びた行為であったからである。
アメリカの市場原理主義と競争が宗教にもとづく倫理観に裏打ちされたものであるのなら、はたしてそれとは無縁であった私たち日本人は、アメリカ型の激しい競争社会を受け入れることができるのでしょうか。小松氏は、こう語っています。
進む方向は、政治制度を介して国民が決めることになります。方向を決める前に、個人間の競争がどのようなものか見据える必要がある 。
御手洗富士夫氏に代表される財界は今、さかんに規制緩和推進、市場原理主義を唱えています。しかし、財界のもてはやすグローバリズムは、以上のアメリカの現状を例外なく生んでいくものだということを忘れてはならない。そう思うのです。
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参照;小松秀樹『日本医療の限界』
労働の国際化;外国人労働者の受容は日本に何をもたらすか
けれど、外国人比率はヨーロッパのドイツ9%、フランス6%、イギリス4%と比べ、まだ低いのは歴然としています。
いま、労働人口の減少を補うため、外国人労働者の受け入れ拡大に政府も財界も着目しています。
『週刊東洋経済』がこの問題を扱いました(6月23日号)。「高度技能者」とそれ以外とを区分して論じ、外国人受容がその後の日本社会にどんな変容をもたらすかについても言及していて、興味深い企画です。
同誌によれば、経営者や国際業務、教育などを職業とする者を「高度技能者」としていて、それらの人びとと日本の地域社会の摩擦・軋轢は少ないとみているようです。
一方で、以上に類しない、同誌の言葉を借りれば「3K労働に従事する単純労働者」の受け入れは、結果的に将来、日本人がより深刻な問題として直面するだろうとの見通しです。
別のエントリー;「脱北者」家族漂着から;人の移動の問題で、移民労働者について言及してきましたが、結局のところ、外国人労働者の受け入れが、財界の思惑によって安価な労働力確保策として推進されようとしているところに目を向けざるをえません。
『週刊東洋経済』誌が単純労働者としてあげる外国人の生活は、高度技能者の生活とはおよそほど遠いことは容易に想像されるわけです。なかんずく、そもそも安価な労働人口を補給するために彼らの受容が考えられている以上、貧困で不安定な生活が待っているといえるでしょう。何も外国人でなくてもわが国ではすでに子どもの非行化・いじめや、たとえば保険料未納による医療・福祉からの排除などが存在するわけで、彼ら外国人をそれらがよけていくわけでは決してありません。
なので、この点では同誌が懸念するのもよく理解できるものでしょう。
同誌は、一定の要件を満たすインド人IT技術者に3年の就労ビザを積極的に発行することを2000年、当時の森喜朗首相が約束したことを伝えています。この措置によって、日本で不足するIT技術者を確保しようとする財界の意図は隠しようのないものです。
他方、同誌のいう単純労働者も、現実には受け入れ拡大の傾向にある。愛知県のトヨタ下請け部品メーカーの実情が紹介されています。日系ブラジル・ペルー人の実情を伝えています。
90年に入管法改正で日系人にたいするビザが新設されたことにともない来日は本格化。日本が表向き外国人労働者の受け入れを認めていないにもかかわらず、「3K労働」には日本人労働者が集まらない事情も手伝って、労働力を提供してきたのはほかならぬ日系人用のビザをもつブラジル・ペルー人だったと指摘しています。
彼らは、治安が悪く、職の少ない自国には帰ろうとしない、そして彼ら外国人労働者の日本への定住化が進んだというのが、『週刊東洋経済』誌の分析です。
経団連のとる方針は、紛うことなく国際競争力を高める上でも、国内生産のコストをどう抑えるのか、これを重要な課題の一つとする考えですから、労働人口低下を安価な外国人労働者で補うことは既定の路線といえるかもしれません。
しかし、私は、この路線に立てば、外国人労働者と日本社会との矛盾はいっこうに解消されていかないと考えるのです。日本人労働者の雇用環境と外国人労働者のそれとの解決の道は分かちがたく結びついている。そして、それを解決してこそ、はじめて国内での外国人労働者の雇用環境が整ったといえるし、日本社会での外国人(労働者)受容もはじめて可能になったといえるのではないか、と考えるのです。

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