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言葉が死ぬ

2008年09月10日 | 物語愉楽論
【言葉はツール】http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/338f2a8d55210bab964216e766e26e9f

僕は時々、言葉の意義を精査する議論において「言葉が死ぬ」という話をします。それはどういう意味かというと、自分が何か説明する際に持ち駒として使っている「言葉」の自分自身の整合性において、ある事象を指す「言葉」の意味が拡散して、情報交換や議論を組み上げるツールとしての利便性が大きく低下し、そのまま使って行くと次第に話の歪み(不自然さ)が拡大して行く、あるいはその意義自体が無効化されてしまう状態になる事を指します。(←…もっと簡潔にならない?)

これは、ちょっと詭弁のテクニック的なものの中に近いものがあって……それを僕は「言葉を殺す」なんて言い方をしたりします。
たとえば、任意の人に対して「怒りっぽい」人かどうか?というような議論があるとして…ここで「怒りっぽいとは何か?」という定義付けを図る議論を始める事になったとしますよね。…実際はそもそも「怒りっぽい」とは曖昧な印象を表わす「言葉」であって、そのまま印象をダベるのが、まあ普通なのですが、そこを急にハッキリさせようとか考え出したりしてw「そもそも怒りっぽいとは何だ?」とか言い出して、それに誰も反論がないような線引きを目指したりすると、その線引きが極端に走り勝ちになったりする事があります。
人間なら全く怒った事がない人というのは、まあ、そうはいないでしょうし、逆に24時間ひっきりなしに怒っているって人も、まあ、いないでしょう。……そうすると「実は誰もがみんな怒りっぽいんだ!」とか、「起き活動する時間の半分以上を怒って過ごしていなければ怒りっぽいとは言えないんじゃないか?」とか、定義づけの議論の誘導の仕方一つで、この議論の結論を操作される場合があるんですね。大雑把に言ってしまうと変な話になる!w(ここらへん、そういう議論の流れを体験した人なら分かりやすいと思うんですが)

……え?それは子供だましの屁理屈ですか?wいや、そうなんですけど…(汗)今は“たとえ話”として瑕疵の分かりやすいものを用意しているって事もありますし、こんなシンプルな形ではなく、もう少しいくつかの“言葉遊び”のテクニックを複合すれば、けっこうその変な話がスルッと通ってしまったりするんですよねwあんまり議論する事に慣れていない人は、思ってもみなかった部分の定義そのものをズラされると、そこでもう混乱してしまいますしね。
「怒りっぽい」なんて言葉は曖昧でもあるけど、まだ全然一般的イメージから共通項を測りやすい「言葉」です。しかし、一般社会ならともかく「物語愉楽」の世界ではもっと曖昧で、未定義な言葉が飛び交います。最近だと「萌え」なんて最たるものでしょう(←最近か?)

※しかし、そう言い出すと今度は「じゃあ、もっと言葉をなべて厳密に定義付けしていこう」と言い出す人もいますが、それはそれで大事なんですが、何事もバランスというものがあって。「言葉はツール」の項で述べているように「言葉」の曖昧であるが故に保持されていた利便性を消してしまったり、あるいは定義付けした結果、一般的イメージではこの「言葉」の範疇に入るものを弾いてしまい乖離が起って、かえって伝達効率を落としてしまったりするんですね。こういうのは中庸にして正解無く、結局のところ「言葉は何のためのツールであるか?」という本道に立返って考えて行くしかないですね。

…で、定義を誘導なんてネガティブな「言葉」を使いましたが、自分の信じる定義付けを主張するのは当然で、基本的にはその行為には問題ありません。しかし、それを意識的にしろ、無意識的にしろ、自分の出したい結論のために定義づけを弄び、極端な規定を定めたりすると、たとえば「実は誰もがみんな怒りっぽいんだ!」とか言い出すと、「怒りっぽいという言葉が死んで」その上に次の議論を組んで行けなくなるんですね。…怒りっぽいの上にどういう議論を組むかは知らんですが(汗)(う~ん、上手い例えじゃなかったなあ…でもそれしか思いつかなかった…orz)
いや、別に上に組んでもいいんですけどね。でも、世にある極端な原理主義とかカルト思想は、ある議論に強い人間が議論に勝たんが為に「言葉」を弄び(勝つとリーダーになれますしねえw)、反論の難しさに重きをおいた極端な誘導をし、その歪みを省みることなく次の弄びを積んだ結果、そこにはまり込んでしまう…という面もあると思うんですよ。

まあ、ここらへんもバランスとして…wそういう風に「怒りっぽい」という「言葉」を用意する意義自体を失するところまで話が行ってしまいそうな時に…

それは「言葉を殺してる」んじゃない?

…と指摘する事になります。共通項として(「言葉を殺す」という)その「言葉」が無ければ「定義付けを極端に振る事によって、その言葉の意味をズラしてしまって、次の議論に使えなくしてしまっているのでは?」かな?これは局面によって適宜に変わって行きますね。まあ、変に反論の難しい「言葉」とかに飛びついたりしないで、次の議論、先のある議論を見据えて「言葉」を組みたいですね…とそういう話でしょうか。

さて本題の「言葉が死ぬ」ですがw(←まだ本題じゃなかったのかい!)……まあ、大体、これまでに上げた「言葉を殺す」話と同じようなものなんですが……未定義的な「言葉」や、あるいは調整中の理論に銘打たれた「言葉」……まあ造語とかですね。それらをツールとして定義付けるバランス感覚の話になりますね。
たとえばツンデレという言葉があるとして、この定義を「ツンとデレがあるキャラ」と定めると(ツンって何?デレって何?という議論は置いておくとして)、実はツンという行動が為されたという判定が下せない~完全にツンが無い~キャラ、デレという行動が為されたという判定が下せない~完全にデレが無い~キャラは極小のはずで、大半のキャラがこれに当てはまってしまいます。……そうするとツンデレという「言葉が死ぬ」と言います。…意味、分かりますかね?ツンデレという「言葉」を機能的に扱うためには、もう少し範囲を狭めた規定が必要になってくるはずなんですね。

【Wikipedia:セカイ系】http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB

ウィキペディアの中で「セカイ系」という「言葉」が狭義のものと広義のものとの分類がされていて、今の話題として興味深いです。広義のセカイ系の方は、僕がいうところの「言葉が死ぬ」話に入っていますね。極端な言い方をすると何でもかんでもセカイ系と言ってしまうとセカイ系という「言葉」を用意した意味が薄れてしまって、その中での分類を余儀なくされたり、あるいは「それは昔からあったモチーフ」という片付き方をしてしまう。まあ、それを「死ぬ」とか言わず「役目を終える」という言い方になる場合もあるワケですけどね。無論「いや、最初からこの「言葉」はこれだけの範囲をカバーする意図により用意されたんだよ?」という話なら、それに沿って議論する事になりますけどね。でも、その話が“後付け”だった場合、大抵その議論は歪むというか、辻褄合わせの確認のような議論になります。で、結果、その場をやり過ごしただけのような「言葉」が残る。その上に次の議論を乗せるのは危ういんですよね。

そういう感じに「言葉が死ぬ」という状態を理解していないと無意識の内に「言葉」を「死なせて」しまったり、あるいは「殺して」しまったりするんですね。なんでかって言うと、人は自分が取り組んでいる「言葉」(それに付随する理論)が、包括的ないし汎用的な「広い言葉」である事を望み勝ちだからです。「世界を割る言葉」(←造語)を求めているとも言えるかもしれない。
先の「言葉を殺す」話は、反論の難しい話に飛びつく人は→結果「言葉を殺す」という話だったのですけど、「言葉が死ぬ」話は、自分の持ち物~「言葉」~がより多くの事象をカバーするものである話に飛びつく人は→結果「言葉が死ぬ」(いや、これも「言葉を殺す」でいいんですけどね)という話になります。あくまで“気をつけないと”って事で必然的な話ではないですが。

…う~ん、あまり「言葉を死なせる」と、どう困るかは上手く説明できてない気もしますが…長くなったので、また別の機会としましょう。まあ、前半は言葉遊びのテクニックの話だし、「言葉使い」には今更の話としても、少しは役に立ってくれるといいなあ…。(たとえ話が悪いから駄目か…遠い目)「言葉」は自分の意志を伝達するための大事な道具ですからねえ。その一つが使い物にならなくなるとしたら、すごい損失です。普段からメンテナンスを心がけて…しかし、メンテナンスに凝り過ぎて(たとえば、反論の難しい話に飛びついたりして)「言葉を死なせる」事の無いように心がけたいなと、そう思います。

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