この本を読んで私は、心温まりほっとした気分になりました。
これはタイでの開発僧や比丘といった人たちが、タイの寺院やその周辺の農村において仏教の思想を基盤としつつ、人々を啓蒙して、良き行動を実践していくさまがつまびらかに描き、そしてその行動の意義について論じた本です。
私は、かなり前にタイに旅行に行ったことがあります。
単なる観光でです。
当地についたら驚いたのは、この国が仏教国であるということで、私が行ったバンコクの街には、こうした釈迦の像がいたるところに林立していたのですね。
日本は仏教国といえるのかどうかわかりませんが、日本史には多くの仏教についての事柄を学びますし、こういった像を、社会科の勉強や、修学旅行で観に行った事があるから馴染み深いでしょう。
しかも釈迦の顔は一切アレンジされることなく、鎌倉や京都にある像と同じ顔をしているから驚き以外何物でもなかったでした。
こんなにも、仏教が広まっているのは、ひとえに釈迦の教えが、ものすごい広い地域にわたって、人々の心に響いたからでしょう。
これほどのカリスマを秘めた教えを持った思想家はそうそういるものではないでしょう。
釈迦は生前に「私の像を立てよ」と後進の弟子たちに残したわけではないのです。
しかし、後の人たちがこうやっていろんな国の地域で建てられたのは、多くの人が「この人の威厳をいつの時代になっても残したい!」という衝動にかられたからにほかなりません。
似たような経験ですが、私が愛犬をなくし、この犬の良さをいつまでも残したいと、この犬の写真をDPEのお店にいって、それをプリントしたクリアファイルを大量に作り、友人たちに配ってます(笑)
その友人たちはあまりに可愛いので喜んでます。
この小の良さをいつまでも残したい、という気持ちですね。
仏教はタイのみならず、カンボジア、スリランカでも国教になっているのもこの本で知りました。
タイは97年のバーツ切り下げで、財政緊縮をし、物価高騰などを招き、そして国内で格差を生む結果にになったのですね。
それはタイが経済開発に向かっていくという現象の中で、やはり必然的な現象だったのですね。
格差のみならず、環境汚染や環境破壊といった現象も生み出したのですね。
それのみならず、経済発展による、人々の快楽追及主義や人から離れて暮らす人々の発生といった現象も必然的に。
そういう現象の中で、かならずそういう現象に立ち向かい、それを改善していこうという気風が生まれるのはやはりタイでも同じだったようです。
そこで、活躍したのが、比丘や和尚といった人たちだったのですね。
昨今の東京に住んでいるとわからないですし、昔懐かしの気分になってしまったのは私だけでしょうか、「タイでは、僧が村のリーダーであり、仏教が村民のよりどころであり、寺が村の共同体の中心である」というところを読んで。
そんな情景がある漫画か物語を読んだことが幼少のころにあって非常に懐かしい気分になってしまったのですね。
今の東京ではそんな情景を見ることができるでしょうか?
この本に出てくるプッタタ-ト比丘という人が、瞑想、戒律、学問(智恵)を通じて人々の心を改革してきた例も書いてあります。
煩悩を災いをもたらすとして、これを精進意欲に変えるべきとしているのでした。
近代化を批判しているのです。
その近代化によって、格差を生み、環境破壊をもたらし、経済ばかりが強調されるようになってしまうのを批判しているのです。 しかし、人間の欲望こそが経済の発展の動因になっているのは間違いないのです。
その発展の恩恵を、こういった僧たちが全く受けていないとは言えないわけで、そこをどう評価するのかはひとによって異なってくるでしょうね。
タイでは伝統的な寺院では、祭り、儀礼、食料、儀式に使う用具、芸術作品の保管場所でもあるそうです。
しかも瞑想や癒しの場でもあるようです。
また、健康相談所や診療所でもあるようです。
しかし、「タイでは、ここまで寺院が人々のよりどころになっているの?」と驚かざるを得ないですね。
タイでは、61年に国家開発援助が始まり、道路や電機などのインフラ整備が始まったのですね。
マハーチュランロンコーン仏教大学などでは、開発僧による支援が始まりました。
物質的開発がおこなわれると必然的に、そこで村人個々人や地域社会にすぐれた価値観を保ち、悪い価値観を根絶しようという動きがやはり必然的に生起したのでした。
ここに登場する和尚さん曰く、「仏教は苦しんでいる隣人に対して、親切、愛することを教えてくれた。…村人の生活や現実の社会から遊離した仏教はいきた仏教ではなく、死せる仏教である」ということです。
ここは非常に心温まる言葉ですね。
人とのふれあいや共同生活を通じて、心豊かな生活をしていこうとする愛情にあふれた感情を持っている。
こういう人をみて、「私の夫は心冷たいけど、この仏教に入れば治るのだわ!」といった誤解をしてはなりません(笑)
人間には2類型がありまして、いつまでたっても心の通じ合いをしなくても平気でいられる人。 もう1つはこの和尚さんのように、人との心の交流を通じて人生を生きていこうとする人。
この2つに分かれるのです。
前者のような人をどんな宗教に入らせて祈っても、後者のような温かい人のようにはなりませんから注意です。
このことは、岩月謙二さんという心理学者の本を読んで知りました。
このことは、やはり間違いないと思いますし、そういう知的武装をしていくことをお勧めします。 自分が後者のタイプであると思ったら、そういう人たちと友人になればいいのです。
前者を後者に変えようなどと思ってはなりません、それは無理ですから(笑)
後者の心を持った和尚さんたちによる、村人たちや農村の改革をこの本で垣間見ることができます。
水牛銀行、コメ銀行、貯蓄組合、協同組合店舗、児童センター、保健センター、職業訓練センター、伝統医療プロジェクト、薬草プロジェクトといったものが僧侶たちで営まれているのです。
その詳細は当の本を読んでいただくとしまして、注目したのは、それらの運営の精神ですね。
コメ銀行は相互扶助、思いやり精神で営まれ、これによって貧しい人や困っている人たちを援助するのです。 それは村人たちの寄進によって営まれるのですが、そのイニシアティブを握るのはもちろん僧侶や和尚といった人たちですね。
それをお金にならないのに積極的にみずからしていくから頭の下がる思いです。 竹細工、魚やカエルの養殖、タイ風そうめんの開発なども共同組合の精神で営まれているようです。
もちろんこの場でイニシアティブの握っていくのは僧侶や和尚たちです。
タイでは、村人は、住まいや食料を僧や和尚に提供する代わりに、僧や和尚といった人たちは、お祈りや仏法講義を無償で行うのだそうです。
しかし近年のタイでは、経済発展によってこの構図が崩れて、葬式の際に祈り、そのお祈り代で生計を立てるという葬式仏教化も見られるようです。
かつて日本でたどった同じ道をタイも進んでいくのでしょうか?
このことについては、やはり人によって評価は違ってくるでしょう。
日蓮正宗の知り合いと話すに、「この宗教の僧侶たちは副業は一切していない。
それはこの宗教始まって以来、まったく変わらぬ状態である。
僧侶たちが生計を立てているのは、みな信者からの供養(この場合はお布施の意味)である。
この僧侶たちからの祈りで私は幸福な道を歩んでいけている。
私は、これまで何回も供養をしてきた。」 ということですね。
この言葉を聞いたら、私は「この宗教こそは本物かも!」と思いましたが、この宗教には入っていないです。
本物の宗教ならば、このように供養も自らやって、タイでは住まいや食料を無償で僧侶や和尚にしていくのでしょう。
お祈りや仏教講義で、根本から人生が変わったという経験があるのならば。
そういう神秘的な経験を自分もしてみたいなという欲があるのは正直なところですね。
しかし本当なのかな、という疑問も残るのは当然です。
その検証をこれからしていこうと思います。
その、タイにおける物質的な開発は、精神的な価値を伴い、人間的なものでないといけない、ということです。
ここで注目したいのは「物質的な開発は悪だから一切触れてはいけない!」といった極端な主張が出ていない、ということですね。
物質的な開発は、そのいい面を持っているがために、やはり極端に振れる人もいてもおかしくはないですし、必然です。
しかしそういう人が少数なのは、そのいい面についても論者が知覚したからですね。
よって中立的、保守的にならざるを得ないのですね。
それがどのような結果になり、どうすればいいかはのちの論者に任せるほかないようです。
しかし僧や和尚といった人たちの精神には感服する思いです。
こういったカリスマ的な人たちのような人格者が、毎回必ず現れるとは限らないのが悲しいことですね。
のちを継いだ人が、非常に人格的にレベルが低く、相互扶助の精神など持ち合わせていない人がなった場合、それに耐えられなくなった人たちは、どうするかといいますと、当然抗議する。
しかしそれにのれない場合は、下の者たちは去って別の団体を作る、というのがこれまでの歴史から明らかです。
先の日蓮正宗のトップであった日顕という人の行いや重要事項の決定に我慢できなくなって、多くの僧侶がその日蓮正宗の団体とは別の日蓮正宗の団体を作ったということもありました。
それはこと日蓮正宗だけでなく、いろんな仏教の団体は言うに及ばず、他の宗教でも必然的に起こってしまうものなのです。
その人格を宗教的な力でもってしても変えることはできないのです。
それは先に書いたことと同じです。
祈っても変わらないものは変わらないのです。
堕落を止めるのはその本人次第ということ以外になくなるのが通例のようですね。
村人たちとの相互扶助の精神などばかばかしくなって、金儲け主義になってしまったり、葬式仏教に走ってしまう僧侶や和尚をが現れてくる可能性はなきにしもあらずなのです。
ですから悲しい限りですね。
今の日蓮正宗の法主が誰もが感服するような人格者であるかどうかわかりませんが、前の法主はどうしようもない者だったようです。
ですからどんな立派な宗教でも、そんな法主だったら嫌です。
しかしそれでもその法主に対しては無批判でなくてはならないのは、私だったらつらくて辞めてしまうでしょうね。
この本に登場した和尚さんたちのような人格者の行動や精神の内容については非常に学ぶべきことが多くありました。
それを自分の精神的な糧にしていきたいという人は、仏教徒であろうがなかろうが、仏教に入る入らないにかかわらず見習うべきだと思いました。
心温まる思いになりたい人はどうぞ読んでください。
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