小森龍邦 『親鸞思想に魅せられて』

2019-09-15 11:43:15 | 宗教と社会

親鸞宗教の信者である著者が、今は多くの派に分派してしまった現今の親鸞の思想を信奉する団体の長、総長や法主といった人たちの堕落、無慈悲、宗祖の教えの誤った曲解などの内容を批判しているのです。

人類の救済を掲げて、親鸞聖人は、浄土真宗を起こしたのですが、やはりその宗教の内容が、どんなに立派でも時を経るにしたがって、また人の口から口へと伝えることによって、曲解され、誤って伝えられてしまう宗教の弊といってもいいでしょうね。

これは親鸞の起こした浄土真宗のみならず、あらゆる仏教はもちろん、キリスト教、ユダヤ教、儒教その他あらゆる宗教でも不可避の現実なのですね。

この方は、被差別の出身者のようで、その被差別への国内の対応に対して、現今の浄土真宗の長およびその信徒たちが、いかに無慈悲に不作為を決め込んで行動しないでいるか、に大いに失望されらたようです。

また、信じて疑わなかった共産党員の不作為にも言及しいているのです。

確かに人類救済を掲げていた親鸞聖人の教えを奉ずる仏教団体が、そういうことであるのは遺憾としがたいものでもあるでしょう。

しかし、本当に心から被差別の人たちの立場にたって、それに心ある対応をできるかどうかの最大のポイントは、自分がそういった事をされたかどうかにかかっているとしか言いようがないですね。

被差別をされた経験のない人間が、そういった人たちの立場にたっていけるかどうかはなはだ疑問です。

本当にその人たちに対して思いやった、という人がいれば、それは単なる思い上がりというほかないでしょう。

例えば、親族を交通事故で亡くした人がいたとしましょう。

その人に対して、本当に思いやったといえるでしょうか? その人の心の痛みが本当に分かったといえるでしょうか?

かわいそうだな、ということでその人の心の痛みが自分にも移るのでしょうか?

そうはならないでしょう。

そこに人間の限界があるのです。

いくら科学が発達しても。

私は大学時代にバイト先で異性から、何度もアプローチされましたが、私は勇気がなくて応えれなかったです。

するとその人は、自分が嫌われていると思い、そのバイト先を辞めてしまったのです。

その人の心の痛みは、「あの人には悪いことした…」と思うくらいでした。

それから何年か後、異性に裏切られたことがあり、その大学時代にアプローチしてくれた人の心の痛みが痛いほどわかり、その人を探しに行きましたが、あえなかったですね。

このように自分が同じことを体感することで、初めてその人の立場になってわかるのです。

宗教を学んでいれば、この経文を唱えていればわかるようになる,全てが上手くいく、なんていうことにはならないのですね。

ですから、被差別の人たちの立場に100%立って理解できるようになるには、それと同じことを経験することによってなのです。

確かに、宗教に入る人たちはたいてい慈悲深い人が多いです。

礼儀正しくて、人との心の交流を積極的におこなおうという気概のある人たちばかりです。

反対に、友人が30,40,50歳過ぎても全然いなくても心に咎めを持たない人もいるのですから、そういった人たちには敬服します。

しかし、だからといってその宗教に入っていればそれでいいかというとそうではないのです。

先にも書いたように自分が体感していないことについては、自らそれを体感していこうという気概と行動がないことには、本当にそのことはわからないのですし、物事を広く深く見ていくには、その宗教で語られる内容だけを勉強していけば、それでいいかというとそんなことでは全然なわけです。

浄土真宗の信徒でも、親鸞聖人の教え以外にもいろんな本を読み、いろんな人たちと語り合い、その内容を自分の糧として、実際の生活の中で行動していかないことには、真の学びにはならないのは言うまでもないことです。

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   親鸞聖人

その聖人、宗祖のいったことが今の世で、100%正しいとは限りませんから、その教えについてアレンジしなくてはならないことも出てくるでしょうし、またそうしてしかるべきでしょう。

そのことを分かったゆえにか、そして慈悲心を持ち合わせたゆえにか、この著者は、多岐にわたる学びを実践し、現今の浄土真宗の団体の堕落ぶりを批判し、それから良き方向へ行くように、この親鸞聖人の思想の広まることを懇願しているのです。

この方のスタンスを私は支持します。

やはり、ただその宗教の教義について学んでいれば、それで万端ということでは決してないのです。

それで万端というのであれば、何故、その宗祖の死後、その宗教団体の長がその宗教の教義を誤って曲解したり、知的あるいは精神的に怠惰になり、また無慈悲になってしまい、それに信徒たちが失望してその団体から抜けてしまうということが往々にしてあるのか、ということですね。

それは、その長の内実を分析する必要があるのです。

その人の生活、これまで得てきた情報、生きてきた人生の内容をつぶさに構造的に明らかにしたうえで、どうしていけばいいかを自ら勉強し、それを実生活で行動していくかにかかっている、ということですね。

その宗教に入って経文をあげ、そして勉強していけばそれでいい、というような簡単なものではないのです。

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また、その信徒団体にも、そういった人たちが出てくるのも必然です。

先に、宗教に入る人たちは、心優しい人たちが多いということを書きましたが、例外は多数あり、やはりどんな宗教団体でも、無慈悲で人の心を疎んじる人は多くいるものです。

ですから、その宗教に入れば充分、万全という論理には私は与さないのです。

しかし、人類救済を掲げて浄土真宗をおこした親鸞の思想は、今も多くの人を捉えていますし、その団体の数々は存続しています。 鎌倉時代の昔におこされたものであるにもかかわらず。

それゆえに、その思想をつたえるべくその内容を現代社会において、いかに生かすかをメルマガとして発行しているひとがいて、それゆえに興味を持ち、この本を選び、そして読み、ここに紹介した次第です。

その慈悲心の深さに触れたい人には、お勧めの本です。

●この本は以下よりどうぞ!

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親鸞思想に魅せられて -仏教の中の差別と可能性を問い直す-

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大塚久雄 『社会科学における人間』

2019-08-17 12:10:11 | 宗教と社会

私が文系の大学にはいっていろいろな本を読んで、いまだに強烈な印象に残りいまだに、読みたいなと思えるような著者の本は限られたものですが、こと大塚久雄氏の本は、いまだにそう思える品位を備えています。

非常に簡潔で分かりやすく、奥が深く、それでいて含蓄が深い。

そういう人こそが注目されてしかるべきだと思いますね。 こういう人のこそ、その人の書いた本をチェックして、メモ帳に書いて、書店に注文してしまうのですね。

中には、難解で読みづらい本を書いてそれでよしとする学者も多いですが、そういう人のは勧めないですし、すぐに売ってしまいます(笑)。

今回は、この大塚久雄氏の本を紹介しましょう。

社会科学は人間を対象にした学問であり、人間の気まぐれで、どの国、どの地域でも当てはまるような法則は抽出することはできない。

しかし行動様式は、ある程度共通項があるがゆえに、それなりに古今東西妥当することはあるのですから、それを探り、これから先の行方を探索していこうというのが社会科学の理念といっていいでしょう。

大塚久雄氏は、まず『ロビンソン.クルーソー漂流記』を引き合いに出して、資本主義とはどういうものかを探求しているのですね。

その著者であるダニエル.デフォーの生きた18世紀の前半イギリスの農村地域の工業生産をモデルにしているのですね。

これを中産的生産者階級といっています。

その著書に出てくるロビンソンは、土地を囲い込み、そこに小麦を播き小麦畑にし、山羊を捕らえてして肉や帽子、日傘にしていたようです。

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最初、主は牧畜をしていましたが、のちに農業に変えたようです。

この頃は、経営者と労働者は相似的で社会層の差はほとんどなかったようです。

この中産的生産者階級が、のちの産業革命の元になったというのです。 デフォーが描いた小麦を植えたら、一部収穫し、一部は播種する。

山羊は一部収穫し一部は繁殖させる。

そのことで生産高が上がり生活が安定するのです。

それのみか、道具や資材を振り分けて、それからの経営を決定する、こういった現実的、合理的な態度が重要なのは言うまでもありません。

マックス.ウェーバーは、こういった様々な事業を数理的、数学的にとらえていこうとするのを目的合理性というのだそうです。

こういった思考が、のちの企業簿記、法理論、科学技術的な思考の支えになったのだそうです。

非常に驚きでしょう。

経営におけるバランスシートをつくるというのは、その最たるものでしょう。

合理的簿記、正確な原価計算、合理的予測といったものが経営者には当然必要です。

こういった合理的な思考法が、脳内になければ経営者には務まらないのですね。

その対極にある考えが、非合理的な思考法や行動ということになります。

ここでは呪術、伝統主義といったものがあげられています。

合理的な思考法や行動が支えになった資本主義をウェーバー風に言えば、合理的産業経営資本主義というのだそうです。

これが、近代ヨーロッパ、とくにイギリスで初めて生まれたというのです。

そういったバランスシートを作り、経営がうまく軌道に乗り、そのことをプロテスタントは神に感謝をささげる。

そのシートをプロテスタントは「信仰の記帳」というのだそうです。

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どうしたらおいしいものが出来て売れるかを考え探索し、模索する、それも合理的な思考法ですね。

しかし、損を出したら企業は潰れてしまう。 この予算内で上手くやり取りしないことには企業は存続していけない。

ではどうするかを考え、模索していく、この精神が資本主義の考えですが、損を出してもいい。

予算内でできなくてもいい。

両方の場合でも税金から徴収すればいいという考えはまさしく社会主義的な思考法ですね。

まさに日本の公共事業は社会主義ですね。

普通の経営者は原価計算や損益計算ができないとだめですね。

また合理的な思考は経営者にとって必要ですが、一般の従業員にも必要な思考法であり行動すべき内容でしょう。

材料を必要以上に使うことで、無駄だと思ったら必要以上には使わない。

お店の経営では、ゴミ入れの袋をパンパンになるまでゴミを入れれるならば、パンパンになるまで捨てない、といった行動の積み重ねが必要と思ったらそういう行動を積み重ねることで将来的にはそのお店や企業にとって損失が小さくて済むのです。

また、お客様に話しかけることで、友達になれて、そしていつまでも来てくれる。

これもまたそのお店にとって大事なことですね。

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こういった事は、ただ単に働くことでもヒントを得て行動につなげることができることですが、他に本をたくさん読んで、ヒントを得て行動につなげることができるのですから、経営者であろうが、従業員であろうが、いろんな本を読んで、行動に結びつける必要がありますね。

良いと思えるものはどんどん取り入れていくスタンスが必要ですね。

また、新しい技術の導入など、常に新しいことを情報として得て、自分の事業に適応させる、ということも大事ですね。

これは自明の理のように思えるのですが、こういった基本的な思考がない国にいって、合理的産業経営を移植しても無駄ということですね。

決してうまくいかないのですね。

北が南を、莫大な資金、技術、人材でもって支援するも支援するも上手くいかない、というのはこういうところに最大な理由があるのですね。

また、人間の行動様式、価値体系、人間観といったものも起因しているのですね。

ある企業が、インドネシアに支店を出して、ある時ボーナスをあげた。

すると、次の日に誰も出社しないので、その家々にたずねてみると、そのボーナスでみんなが酒を買って飲んでよぱらっている、という話もあるのですね。

日本では、ボーナスをもらったからとて、次の日も当然のように出社して仕事をするのが普通ですが…。

これは文化的な違いですね。

また気候的なものも起因していますね。

エジプトに配属になったことのある人に聞いたところ、エジプトではあまりに暑く、昼は仕事にならないから、3時まで寝ているということですね。

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日本では、日本人男性がフィリピン人女性と結婚するという例が山ほどあります。

それはフィリピンでも同様で、昼は非常に暑くて仕事にならず、男性は昼でも寝ているのだそうです。

それに比べ、日本人男性は朝から晩まで一生懸命働いている。

そんな姿を見て、フィリピン人女性は頼り甲斐を感じて、その男性に惚れて結婚してしまうのだそうですね。

しかしこれは単なる気候の違いですね(笑)

日本はフィリピンほど暑くないから、どんな猛暑日でも働けるのです。

このように経済成長のためにはどのようなことが必要か、といった事は残念ながらこの本だけで分かるほど単純なものではないのですね。

私は梅棹忠夫、鳥羽欽一、堺屋太一、飯田経夫その他いろんな人の本を読んで、経済成長には何が必要か、といった事を学んでいったのです。

その一環としてこの本を読むのがいいというだけの話ですね。

それを痛感した人は、いろんな本をむさぼるように その他、日本は産業経営に適した文化を持った国であって、文化的寛容性が高く、自分にいいと思ったものは何の抵抗もなく取り入れようとするのですね。

そういった部分もみのがせないですね。

プロテスタントの精神は反営利性を隣人愛を基調とするのですが、プロテスタントの合理的な精神はどの宗教とも結びつきやすいということですね。

しかし、プロテスタントの精神が=資本主義の精神ではないということですね。

プロテスタントの精神が営利性を帯びて、そちらに重点を置かれて資本主義の精神になったということですね。

また大塚氏は、マルクスを引き合いに出し、人間の行動の集大の結果が予期せぬ結果をもたらす、ということをはなしています。

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先に書きましたように、人間は気まぐれであるゆえに万全たる法則を見出すことはできない、ということです。

今回引き合いに出したプロテスタントの精神にしろ、原始キリストの頃には予測もつかないほどの変質をもたらしてしまったのは明白ですね。

こういう予測不可能なじたいが結果として出来するのですから、科学者たるもの研究を怠ってはならない、ということですね。

その他、ヒンドゥー教、儒教、仏教との比較を通じて、プロテスタントの精神を浮き彫りにしています。

大塚久雄氏のように、これまで書かれていなかったけれども、読むとなるほどと思え、その通りだと思われることを明確に書かれているを読むと、ものすごく感銘を受けるというのは古今東西決まってあるようですね。

ゆえにこの本は77年が初版なのにもかかわらずいまだ新本で入手可能なのですね。

やはり日々前進してくためには、単純明快な抽象的な理論を学び、それを日々の生活の中で具体的な行動に落としこんでいくのです。

その抽象から具体という経路を何度も行ったり来たりする。

それが王道ということを書いてあるメルマガを読んだことがありますが、私のこれまでの人生からも、そうと頷けますね。

その単純明快な理論の本を読んで、そこから人生、生活内でどのような行動にしていくかは、このような紹介ページを読むだけではかなうはずもないのです。

実際に本を読んで、自ら考えなくてはならないのですね。

そして他の本もいろいろ濫読していく、そういうスタンスが王道と思いますね。

それに賛同してもらえる人にはこの本はお勧めです。

●以下よりどうぞ!

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社会科学における人間 (岩波新書)

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新保満 『人種的差別と偏見』

2019-06-16 23:46:00 | 宗教と社会

人種的な差別は、単なるプロパガンダによっておこるのであって、それは本人の心がけで治るものである、と単純に考えていましたが、そんなに奥の浅いものではないことが、この本を読んでわかりました。

確かにそういう部分もあることは否めません。

ランダムに白人と黒人をピックアップして知能指数を測るテストをしたところ、白人の方が優位であったことを大々的に報道したところ、差別主義者を大いに喜ばせた、ということですが、これは根拠の薄いプロパガンダであることは明らかでしょう。

白人の平均指数が100とすると、ナッシュビルに住む黒人の指数が57であったのは事実ですが、ロサンゼルスに住む黒人のそれは107であったことが明らかになりました。

社会的、経済的背景が一緒なら、逆に黒人の方が上、ということが明らかになったのでした。

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こういった黒人は劣った人種である、ということを信じ切ってしまうステレオタイプは、9歳くらいまでに形成されてしまうようですね、主に家庭で受ける情報がもとで。

ですからこういう事が起こらないようにこれから人の親になろうとする人には大切なことですね。

こういった大事なことを主体的に学んでいきましょう。

先のプロパガンダ的手法は、情報弱者を絡めとるのに有効ですね。

しかし何でも信じようとせず、必ず奥深く物事を見つめる人にはいまや有効ではないのは明らかでしょう。

これまでの科学的な情報の蓄積があるのですから、それを学んでいくことで、からめとることはできなくなるのですね。

情報弱者を絡めとる手法は今でも採られていますね。

ダイエットでも美容でも、あるいはメタボ解消のサプリやグッズを販売する会社が良くあります。

これらは、飲むだけで痩せれる、飲むだけで綺麗になれる、という錯覚を起こさせて、それを買わせるのですね。

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しかし、美容、ダイエットについて勉強を重ねた人には有効ではないですし、買うこともないでしょう。

飲むだけで解消できるものではなく、日々の行動の積み重ねで可能になることが明らかだからです。

人との、特にほかの人種とのかかわりについては、特にこういったプロパガンダ、ステレオタイプ化は避けなくてはなりません。

しかし、これまでの歴史から、人種的、民族的な関係が調和を欠く場合、一部成員を物理的に攻撃する場合が頻繁にあったのですね。

大農場の白人が、黒人、奴隷をリンチといった内容は枚挙にいとまがなく、アメリカでは4州以外を除いて、すべての州であったといいます。

また15世紀のポルトガルにおいて、キリスト教を受け入れると黒人も白人になれる、ということが流布され、それが可能になると奴隷として黒人を奴隷として使えなくなる。

ゆえに、奴隷制を合理化する神学を白人が生み出したといいます。

こういった教えは、キリスト教には反しますね。

しかし、奴隷制がないと困る白人によってその内容を変えなくてはならなかったようですね。

こういったこともまた、宗教が本来の教えから隔たってしまう理由なのでしょうね。

また、労働者階級が連帯してもらっては困る資本家は、それらを断ち切るために人種主義を用いたようですね。

真剣にキリスト教を信じていても、人種主義に基づいて行動している例は多くある、ということですね。

しかし、宗教に入る人は、その団体に対して無批判でいることが多いですから、それに反駁するパターンは少ないでしょう。

聖書やその宗教団体の刊行物に、その教えを書き、それをそのまま信じてしまう人が多く輩出してしまう。

そして、その誤った教えが継続してしまうのですね。

主に白人である資本家による黒人の虐殺、その土地の割譲といった事が何故平然と行われたか、疑問に思いますが、これはステレオタイプ化された人たちによってだけおこなわれたわけではないでしょう。

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サイコパスといって、人の心を重んじない、自分の過ちについて一切詫びないし罪悪感を持たない、人を細部にわたって操ろうとする人たちによって行われた、ということが言えるでしょう。

それ以外の心優しい人たちには出来た話ではありません。

付け加えるならば、そのサイコパスたちは、いくら教育を施しても、その心が治るわけではないのです。

しかし宗教人は、先にも書いたように、その教団のいうことは無批判ですから、注意が必要です。

90年代の半ばのオウム事件を振り返れば明らかでしょう。

教団内あるいは教団外でも、教団が平然と悪事を重ねても、一握りの人を除いて無批判でいたのですから。

それ以外にも、宗教団体による反社会的な行動について無批判であった、という例は歴史上からも明かでしょう。 そういった意味でも、宗教は注意が必要です。

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社会的な上位者という意味でのマジョリティは経済的に自分の都合のいいように人種的差別をしてきた、ということですね。

これは本人に根差している人種差別的な心だけに起因するものではなかったのですね。

これ以外にもカナダ、ロシア、中国、日本といった国々の例を挙げて、人種差別の歴史を明らかにしていますし、そういった事を奥深く学べるのは、とてもいいことですね。

私が大学生のころには、外国人は珍しいことでしたが、それから幾年か経ってみると、周りにはアジア、ヨーロッパからいろんな国の人たちを目にすることができるようになりました。

そういった人たちとどのように関わりあうべきか、その教えの一環をこの本で学べる気がしますね。

先に書いたように、サイコパスは教育を施しても人種差別的言動を改めることはありません。

ですから、組織の長には絶対にサイコパスを据えてはいけないのです。

人種差別も平然と行うでしょうから。

そういった知と知を連鎖させて、自分の住む社会においてどのように生かすか、という問いに答えて行動するには、このような本を含めて多岐にわたって学んでいかなくてはならないのです。

そのことに共感できた人には読んでもらいたい本ですね。

●この本は以下からどうぞ。

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人種的差別と偏見―理論的考察とカナダの事件 (1972年) (岩波新書)

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佐藤正衛 『北アジアの文化の力』

2018-02-18 14:18:38 | 宗教と社会

この本を書いた人は、勉強もかなり重ねているのがわかりました。

 

非常に筆致が読みやすくてよかったです。

 

北アジアでは、主にモンゴルにおけるシャーマンが天上界における神との交流を通して、その言葉を、地上の人たちに伝えて、その言を実際の生活に活かすようにしている生態の詳細を、著者自ら足を運んで見聞した内容と、他の著書を自身で読み、調べた内容を綺麗にまとめて論じてあるので、興味深く読みました。

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近代まで、北アジアにおける地方では、世俗的権威と聖的権威は未分化で、氏族や部族の長になるのは主にシャーマンであったようです。

そういう宗教的な生活は、現代の日本人とくに都市生活者にとっては、眉唾モノに写り勝ちですが、これまでの人類の歴史を垣間見ると、そういった宗教的な側面は、無視できないはずというモラルですから、坦懐な精神で読ませてもらいました。

私のような本をたくさん読んできた人にとっては、どうしても科学的に思考がなりがちですが、やはり無視できない側面を宗教は持っていると思います。

この本の2ページに日本は「民族の形成と文化の創造において、北アジアから受けた影響は決して無視できない」と書かれていますし、そういう側面にも関心を持つ人は決して私だけではないでしょう。

北アジアのシャーマニズムはインド、イランなどの南方文化の波にも表れており、複合的な発展を遂げた文化であるようです。 また、天神の意思には君主といえども無条件に従わねばならない神聖なものであった。

そのお告げは、テムジン(チンギス-ハーンの本名)が高原統一の事業へ踏み出す一大画期となったのだといいます。

ここを読んで、興味深くなった人は多いのではないでしょうか?

ここまで当時のひとたちにとってシャーマニズムは大事だったのかということですね。

シャーマンが巫儀において動物に化身するという表象が、近代になっても北アジアの人々の間で生き続けていたということですね。

その巫儀において、あたかも鳥となったように飛ぶ真似をしたり、牝牛となって角で突いたり蹄で地面を引っかいたりするなど、やってきた精霊と同じしぐさをして見せたり、また彼らと同じたがわぬ声を出すことを証言した例は数多いというのです。

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天神は存在であり、人の道を外さず、道理に生きるもののみを愛しみ恩寵を授けるのである。

人々は天神に愛でられるかどうかを物事の判断と行動の基準とし、己を厳しく律した、ということですね。

ここを読んで私は非常に感銘を受けました。

人間は私を含め弱い存在であり、自分の意思の赴くまま行動していては悪い方向へ流れていく危険性を宿しているわけであり、そうならないためにもやはり規律が必要なのではないかと思われてならないのですね。

そのために、やはり人間を超越した神や仏といった存在の措定は必要でしょうし、なくてはならないでしょう。

そういうものを精神の中に措定することで、人は傲慢になることを避けることができるでしょう。

クリスチャンは、自分が神に見られていると思っているゆえに、キセル乗車ができないようですね。

こういった宗教的な効能もまた無視できないでしょう。

しかし、そういった事は、本や教育による手段でも代替できるということもいえるでしょう。 どちらを取るかあるいは両方を取るかは、人それぞれでしょう。 私は両方を取りたいですね。

呪術的な説話を創造し、それによって共同体の維持をはかった。

中世モンゴルの歴史書である『元朝秘史』には、

「天幕の戸口の上の窓から「光る黄色の人」が月の光を伝うように入ってくると彼女の腹をさすり、、その光は腹にしみいっていった。 そして出ていくときは、月が沈み太陽が昇り始める狭間の光の筋にそって黄色い犬のように這い出て行った。そうこうするうちにアランコアは懐妊し、夫がいないのに三人の男子を生んだというのである。 このうち一番末の子は、ボドンチャルと名付けられた。」

このボドンチャルこそが、モンゴル帝国創建を成し遂げたボルジギン氏の始祖であるというのです。

この『元朝秘史』は歴史書でありながら、史実以外にもこういった説話的な話が多く盛り込まれており信憑性に欠ける面があることは事実ですが、しかし、今はまだしも当時のような本などの文字の伝達が発達していなかった当時において、このような巧みな表現がなされていたということは想像しずらいことは、明白でしょう。

ゆえに、この話は実際に起こったことを、そのまま書いたのではないかと思われてならないのですね。

やはり天神からの思し召しがあったのではないかと。

またシャーマンは、千里眼(約1キロ四方で起こることは何でも見通せる)を持つ存在として認識されていたようです。

そう思える人は、信じたらいいですし、信じたくない人は信じないでいいでしょう。

私はそういう面に信憑性があると思ったので、更に読み進めてしまいました。 そういった話が、民族の結束を高めるのにかなり役立ったことは間違いないでしょう。

私が推奨する文字による人の律しだけでは、当時上手くいったかどうかは非常に疑問ですね(笑)。

北アジアの諸民族の文化的伝統が北方の森林文化、南方の草原文化という2つの文化に由来していることは忘れてはならないでしょう。

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168から232ページまでに長い心理社会学的な詳説がなされていますが、これはユングやフィンタイゼンといった著名な心理学者の学説の説明であり、ほとんど北アジアのシャーマンについての関連付けもなく述べられているだけなので、読むのに大変な気苦労をしてしまいました(苦笑)。

これは、この本の著者の学をひけらかすためなのか、あるいは紙数稼ぎのためなのかはわかりかねますが、本題の趣旨との関連付けがなければ、読んでもほとんど意味をなさないのは言うまでもないでしょう。

そして最後に書いてある本の要旨についても、そういった著名な学者の言葉を引用しているので、残念至極でした。

しかし、その前の個所に関しては意味がありますので、そこについてはお勧めしたいと思います。

●この本は以下からどうぞ!

北アジアの文化の力―天と地をむすぶ偉大な世界観のもとで

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西川潤ほか編 『仏教、開発、NGO』

2018-01-08 23:54:14 | 宗教と社会

この本を読んで私は、心温まりほっとした気分になりました。

これはタイでの開発僧や比丘といった人たちが、タイの寺院やその周辺の農村において仏教の思想を基盤としつつ、人々を啓蒙して、良き行動を実践していくさまがつまびらかに描き、そしてその行動の意義について論じた本です。

私は、かなり前にタイに旅行に行ったことがあります。

単なる観光でです。

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当地についたら驚いたのは、この国が仏教国であるということで、私が行ったバンコクの街には、こうした釈迦の像がいたるところに林立していたのですね。

日本は仏教国といえるのかどうかわかりませんが、日本史には多くの仏教についての事柄を学びますし、こういった像を、社会科の勉強や、修学旅行で観に行った事があるから馴染み深いでしょう。

しかも釈迦の顔は一切アレンジされることなく、鎌倉京都にある像と同じ顔をしているから驚き以外何物でもなかったでした。

こんなにも、仏教が広まっているのは、ひとえに釈迦の教えが、ものすごい広い地域にわたって、人々の心に響いたからでしょう。

これほどのカリスマを秘めた教えを持った思想家はそうそういるものではないでしょう。

釈迦は生前に「私の像を立てよ」と後進の弟子たちに残したわけではないのです。

しかし、後の人たちがこうやっていろんな国の地域で建てられたのは、多くの人が「この人の威厳をいつの時代になっても残したい!」という衝動にかられたからにほかなりません。

似たような経験ですが、私が愛犬をなくし、この犬の良さをいつまでも残したいと、この犬の写真をDPEのお店にいって、それをプリントしたクリアファイルを大量に作り、友人たちに配ってます(笑)

その友人たちはあまりに可愛いので喜んでます。

この小の良さをいつまでも残したい、という気持ちですね。

仏教はタイのみならず、カンボジア、スリランカでも国教になっているのもこの本で知りました。

タイは97年のバーツ切り下げで、財政緊縮をし、物価高騰などを招き、そして国内で格差を生む結果にになったのですね。

それはタイが経済開発に向かっていくという現象の中で、やはり必然的な現象だったのですね。

格差のみならず、環境汚染や環境破壊といった現象も生み出したのですね。

それのみならず、経済発展による、人々の快楽追及主義や人から離れて暮らす人々の発生といった現象も必然的に。

そういう現象の中で、かならずそういう現象に立ち向かい、それを改善していこうという気風が生まれるのはやはりタイでも同じだったようです。

そこで、活躍したのが、比丘や和尚といった人たちだったのですね。

昨今の東京に住んでいるとわからないですし、昔懐かしの気分になってしまったのは私だけでしょうか、タイでは、僧が村のリーダーであり、仏教が村民のよりどころであり、寺が村の共同体の中心である」というところを読んで。

そんな情景がある漫画か物語を読んだことが幼少のころにあって非常に懐かしい気分になってしまったのですね。

今の東京ではそんな情景を見ることができるでしょうか?

この本に出てくるプッタタ-ト比丘という人が、瞑想、戒律、学問(智恵)を通じて人々の心を改革してきた例も書いてあります。

煩悩を災いをもたらすとして、これを精進意欲に変えるべきとしているのでした。

近代化を批判しているのです。

その近代化によって、格差を生み、環境破壊をもたらし、経済ばかりが強調されるようになってしまうのを批判しているのです。 しかし、人間の欲望こそが経済の発展の動因になっているのは間違いないのです。

その発展の恩恵を、こういった僧たちが全く受けていないとは言えないわけで、そこをどう評価するのかはひとによって異なってくるでしょうね。

タイでは伝統的な寺院では、祭り、儀礼、食料、儀式に使う用具、芸術作品の保管場所でもあるそうです。

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しかも瞑想や癒しの場でもあるようです。

また、健康相談所や診療所でもあるようです。

しかし、「タイでは、ここまで寺院が人々のよりどころになっているの?」と驚かざるを得ないですね。

タイでは、61年に国家開発援助が始まり、道路や電機などのインフラ整備が始まったのですね。

マハーチュランロンコーン仏教大学などでは、開発僧による支援が始まりました。

物質的開発がおこなわれると必然的に、そこで村人個々人や地域社会にすぐれた価値観を保ち、悪い価値観を根絶しようという動きがやはり必然的に生起したのでした。

ここに登場する和尚さん曰く、「仏教は苦しんでいる隣人に対して、親切、愛することを教えてくれた。…村人の生活や現実の社会から遊離した仏教はいきた仏教ではなく、死せる仏教である」ということです。

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ここは非常に心温まる言葉ですね。

人とのふれあいや共同生活を通じて、心豊かな生活をしていこうとする愛情にあふれた感情を持っている。

こういう人をみて、「私の夫は心冷たいけど、この仏教に入れば治るのだわ!」といった誤解をしてはなりません(笑)

人間には2類型がありまして、いつまでたっても心の通じ合いをしなくても平気でいられる人。 もう1つはこの和尚さんのように、人との心の交流を通じて人生を生きていこうとする人。

この2つに分かれるのです。

前者のような人をどんな宗教に入らせて祈っても、後者のような温かい人のようにはなりませんから注意です。

このことは、岩月謙二さんという心理学者の本を読んで知りました。

このことは、やはり間違いないと思いますし、そういう知的武装をしていくことをお勧めします。 自分が後者のタイプであると思ったら、そういう人たちと友人になればいいのです。

前者を後者に変えようなどと思ってはなりません、それは無理ですから(笑)

後者の心を持った和尚さんたちによる、村人たちや農村の改革をこの本で垣間見ることができます。

水牛銀行、コメ銀行、貯蓄組合、協同組合店舗、児童センター、保健センター、職業訓練センター、伝統医療プロジェクト、薬草プロジェクトといったものが僧侶たちで営まれているのです。

その詳細は当の本を読んでいただくとしまして、注目したのは、それらの運営の精神ですね。

コメ銀行は相互扶助、思いやり精神で営まれ、これによって貧しい人や困っている人たちを援助するのです。 それは村人たちの寄進によって営まれるのですが、そのイニシアティブを握るのはもちろん僧侶や和尚といった人たちですね。

それをお金にならないのに積極的にみずからしていくから頭の下がる思いです。 竹細工、魚やカエルの養殖、タイ風そうめんの開発なども共同組合の精神で営まれているようです。

もちろんこの場でイニシアティブの握っていくのは僧侶や和尚たちです。

タイでは、村人は、住まいや食料を僧や和尚に提供する代わりに、僧や和尚といった人たちは、お祈りや仏法講義を無償で行うのだそうです。

しかし近年のタイでは、経済発展によってこの構図が崩れて、葬式の際に祈り、そのお祈り代で生計を立てるという葬式仏教化も見られるようです。

かつて日本でたどった同じ道をタイも進んでいくのでしょうか?

このことについては、やはり人によって評価は違ってくるでしょう。

日蓮正宗の知り合いと話すに、「この宗教の僧侶たちは副業は一切していない。

それはこの宗教始まって以来、まったく変わらぬ状態である。

僧侶たちが生計を立てているのは、みな信者からの供養(この場合はお布施の意味)である。

この僧侶たちからの祈りで私は幸福な道を歩んでいけている。

私は、これまで何回も供養をしてきた。」 ということですね。

この言葉を聞いたら、私は「この宗教こそは本物かも!」と思いましたが、この宗教には入っていないです。

本物の宗教ならば、このように供養も自らやって、タイでは住まいや食料を無償で僧侶や和尚にしていくのでしょう。

お祈りや仏教講義で、根本から人生が変わったという経験があるのならば。

そういう神秘的な経験を自分もしてみたいなという欲があるのは正直なところですね。

しかし本当なのかな、という疑問も残るのは当然です。

その検証をこれからしていこうと思います。

その、タイにおける物質的な開発は、精神的な価値を伴い、人間的なものでないといけない、ということです。

ここで注目したいのは「物質的な開発は悪だから一切触れてはいけない!」といった極端な主張が出ていない、ということですね。

物質的な開発は、そのいい面を持っているがために、やはり極端に振れる人もいてもおかしくはないですし、必然です。

しかしそういう人が少数なのは、そのいい面についても論者が知覚したからですね。

よって中立的、保守的にならざるを得ないのですね。

それがどのような結果になり、どうすればいいかはのちの論者に任せるほかないようです。

しかし僧や和尚といった人たちの精神には感服する思いです。

こういったカリスマ的な人たちのような人格者が、毎回必ず現れるとは限らないのが悲しいことですね。

のちを継いだ人が、非常に人格的にレベルが低く、相互扶助の精神など持ち合わせていない人がなった場合、それに耐えられなくなった人たちは、どうするかといいますと、当然抗議する。

しかしそれにのれない場合は、下の者たちは去って別の団体を作る、というのがこれまでの歴史から明らかです。

先の日蓮正宗のトップであった日顕という人の行いや重要事項の決定に我慢できなくなって、多くの僧侶がその日蓮正宗の団体とは別の日蓮正宗の団体を作ったということもありました。

それはこと日蓮正宗だけでなく、いろんな仏教の団体は言うに及ばず、他の宗教でも必然的に起こってしまうものなのです。

その人格を宗教的な力でもってしても変えることはできないのです。

それは先に書いたことと同じです。

祈っても変わらないものは変わらないのです。

堕落を止めるのはその本人次第ということ以外になくなるのが通例のようですね。

村人たちとの相互扶助の精神などばかばかしくなって、金儲け主義になってしまったり、葬式仏教に走ってしまう僧侶や和尚をが現れてくる可能性はなきにしもあらずなのです。

ですから悲しい限りですね。

今の日蓮正宗の法主が誰もが感服するような人格者であるかどうかわかりませんが、前の法主はどうしようもない者だったようです。

ですからどんな立派な宗教でも、そんな法主だったら嫌です。

しかしそれでもその法主に対しては無批判でなくてはならないのは、私だったらつらくて辞めてしまうでしょうね。

この本に登場した和尚さんたちのような人格者の行動や精神の内容については非常に学ぶべきことが多くありました。

それを自分の精神的な糧にしていきたいという人は、仏教徒であろうがなかろうが、仏教に入る入らないにかかわらず見習うべきだと思いました。

心温まる思いになりたい人はどうぞ読んでください。

●この本は以下からどうぞ!

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仏教・開発・NGO―タイ開発僧に学ぶ共生の智慧

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