森清 『怒らぬ若者たち』

2020-06-16 16:30:35 | 現代社会

このかたは、法政大学に入学しながらも2年で中退して、働きに出たようですね。

この本が出された80年に、日本ではまだ新人類などという言葉はなかったでしょうが、この頃は既に社会が豊かになり、それ故に戦中戦後直後に生きてきた人とは違う考えの若者が多くいたでしょう。

しかし、それは社会が変われば、人の考えも当然変わるという古今東西変わらぬ事実を見据えていたがゆえに、やはり中立的な立場でものを考え、そして論文を書いているのですね。

それは非常に大事な態度であると思います。

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何故なら、事には何事も良い面と悪い面があるわけで、こちらを採択すれば必ずうまくいき、こちらを採択したらすべてうまくいかないというようなことは絶対になりからです。

戦中戦直後の世代は、とにかく文句を言わずに働き詰めることがいいことのようになり、それに疑問をさしはさまずに働いていた人が多かったのは言うまでもないでしょう。

しかし、その世代より下の人が、大学へいき、卒業すると、そんながむしゃらなことは少なくなり、働くよりも余暇や趣味に生きがいを見出したいということを考える人が出てくるのを、この作者は多く見てきたのでしょう。

やはり自由がほしいという考えを持つ人が多くなるのは必然でしょう。

自由を謳歌したいがために、わざと大学を留年するなどという人が出てくるのを目の当たりにしたのも必然でしょう。

かつては怒ることが、エネルギーを発散する手段であったのが、この当時の世代の若者たちは、怒らずに趣味や自由や余暇にいそしんで怒らなくなったということですね。

それゆえに『怒らぬ若者たち』という表題を付けたのでしょう。

それがいいか悪いかという善悪二元論ではなく、その違う世代を比較して、互いにいいところと悪いところを吟味しながら、互いの向上や内容の昇華を狙うのが最適なのでないでしょうか?

確かに自由過ぎるのはよくないでしょう。

高校時代から、上の世代の人から大学の退嬰ぶりを聞かされてきました。

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そして大学に入学すると、その言葉通りで驚きました。

ほとんど講義に出ずに、年末だけ出て、そこでメイトからノートを借りてコピーしてそれだけ勉強する。

周りのコンビニは、そんな大学生でいっぱいでいつまでたってもコピーできない感じで(笑)

まあ私は全部出ていたのでコピーとは無縁でした。

こんな大学生が、社会に出たらどうなるんだ、ろくすっぽ仕事などできないで、中退してしまうんじゃ、などと思ってましたが、そんな心配は杞憂でした(笑)。

ただそんな大学時代を送っていたのは、ただ勉強が嫌いだったというだけであって、それが=仕事ができないということではなかったようですね。

自分で選んだ好きな仕事であれば懇親的になるのは当然です。

また自分の下の世代に対しても中立の態度で接するのが最適でしょう。

自分は苦労してきた。

だから苦労知らずの人たちは、私にかなうわけはない、と考えるのは早計で、私が彼ら彼女らに勝っている部分もあれば劣っている部分もあります。

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ですから、苦労してきた、だからなんでも自分が優っているというのは、あまりに短絡的な考えといわざるを得ないのです(笑)

ただ、あまりに自由過ぎるのもいけませんし、それをただ傍観しているだけでもいけないでしょう。

その自由過ぎることが問題で、どのような弊が出るのかを知ったら、それをふさぎとめる工夫をしないといけないでしょう。

そのためのこのような本なのですから。

また、自分が得てきたことも知恵として使用していかなくてはならないでしょう。

また自分の世代がすべてではありませんから、下の世代からも学ぶところは謙虚に学ぼうという気概を持たなくてはならないでしょう。

この本を読んでそんなことを考えました。

ただ、本というものは社会に存在する問題を良き方向へ向かわせるために存在するのですから、この本を1冊よんでもうOKだみたいな、快刀乱麻的な本は存在しないです。

いろんな本を読みふせていくことが大事であると思っています。

その一環として役立つ本であるということは保証したいです。

●この本は以下よりどうぞ!

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怒らぬ若者たち (講談社現代新書 566)

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佐伯啓思ほか 『これからの世界を考える人へ』

2020-05-28 15:35:31 | 現代社会

 毎度のことながら、佐伯啓思氏の本は、ちょっと読むだけで集中していってしまいます。

私は大学時代に政治学のゼミに所属していましたが、その担当の先生曰く、「私は、学生時代から今まで何度丸山真男の本を読んできたかわからない。もうボロボロだもの!」といっていたのを思い出します。

佐伯氏の本は、私にとってそんな本になりそうな気がします。

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   佐伯啓思

しかし私は、丸山氏の本で印象に残っているのは『日本の思想』くらいのもので、この本以外は、非常に難しく難解な表現で書かれているので、どんなことが書いてあったかわからないまま終わってしまっているのです(笑)。

加地伸行氏も、某本の中で丸山氏の本のことを「非常に難解で読みづらい」と書いているのを見て私は安堵の思いになりました(笑)。

『日本の思想』は講演の内容をそのまま本にしたので読みやすく理解ができるのですが、その他の机上で書いた本は非常にわかりにくいのです。

しかし、こと佐伯氏の本はそんなことはなく、読みやすいうえに、非常に考えさせられる内容です。 その考えさせられることで、脳で思索すると、脳内で血が循環しているのがわかります。

まさしく、その感覚は受験勉強時代を思い起され、現代文や英語の勉強をしている時代を思い起こさせるに十分なのです。

そういう脳内で血が巡るのは非常にいいことです(笑) 冒頭からいきなりですが、もう民主主義でも,資本主義でもこれからの人類は上手くやっていけない、ということを書いているのです。

これは決して、奇をてらって書いているわけではなく、実に考えさせられる真理を含んでいるのです。

そのことを示すように、は以下の本を上梓してきました。

『経済成長主義への訣別』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/451864238.html?1503236769

『さらば民主主義』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/450978583.html?1497756698

 

今の世では、大衆うけのいいことがらを並べ立て、人々の情緒を刺激することが当選するのにいいということです。

しかしそれでは大衆迎合主義になってしまうということです。

良き世の中は、やはり良薬は口に苦しということわざがあるように、苦しみをともなうことが多々あるのです。

もちろんない場合もありますが。

しかしその大衆迎合主義になると、ある人にとって苦いことでもいいとは思えないことが出てくると、これはよくないといって弾劾される危険性があるのですね。

それが民主主義にとってよくないということまで流布されることになる。

それがいいことだったか、悪いことだったのかは、その後の結果を見て判断するしかないのです。

確かに、小泉元首相は、「自民党をぶっ潰す」「改革には痛みが伴うものです」といって多くの人の支持を受けました。

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  小泉純一郎

それが本当の良薬だったかは、あとの結果をみたり、綿密な調査や結果をしてから判断するしかないのです。

すぐには判断しかねる問題なのです。

ですから、よき世の中、あるいは良き政治という結果についての判断は、このようなあいまいさを有するものであるということを忘れてはいけないのです。

しかし、私は、小泉首相のしたことは今を持っても、いいことであるとは判断しません。

このように深く考えながら政治に接している人はいるでしょう。

しかし、早急に答えを求めるのになりがちな人も多いのが現状でしょう。

だから、佐伯氏はエリートにすべてを任せる独裁制にすべきであるといっているのではないことはお断りします。

一般国民に期待を抱く一方全幅の期待はよせていない、そんな気がしますね。

その他、民主主義についてはかなり深く興味深い展開をしているので、この本を読んでもらいたいですね。

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また資本主義についても、そのままでいいという思いはないようです。

かといって社会主義に移行すべしということでもないのです。

グローバル化の中では、物を作る拠点が日本を含めた先進国内では、家賃や人件費などでお金がかさむ。

ゆえに海外に物作りの拠点を移すことの方が安く済むので、海外に移転してしまう。

その際に、大きなお金を持っている人が投資することで、大きな利益を得ることができる。

まさに資本が膨れ上がる=(資本)主義です。

また、グローバル化によってITやビジネスを操ることができる人間が大きな利益を得ることができるが、しかし、それで成功することができるのはほんの一握りの人間だけである。

そういう社会にやはり危惧を抱いているのです。

以前に麻生大臣によって、「老後は年金だけでは足りないから1人1人が2000万円を用意するように!」という呼びかけの後、いろんな人が株などに投資するも、あえなく借金だけが残ったという悲劇を生みだしたことは記憶に新しいです。

そして、一時期はやった仮想通貨ですが、これも億り人という1部の成功者を生み出した半面、多額の数百万などの借金だけを残した人を生み出したことも事実なのです。

それに海外に生産の場を移すからといって、その場に投資をしても、必ずしもそのリターンが返ってくるとは限らないのです。

それでうまく生産が続き、物が売れればリターンを得ることができるのですが、もしもそれらが上手くいかなかったら、撤退する事になるのです。

それでは投資金がパーになるのです。

私がある県にいったときに、ある老夫婦が経営している蕎麦屋さんがあり、そこで狸そばを食べてみるも、その材料はスーパーで買ってきたようなそばとつゆでした。

それで500円以上もするのですから参りました(笑)

おそらく年金だけでは足りないからということで、この店を始めたのでしょうが、こんな劣悪な品質ではすぐ閉店になってしまうのは目に見えているのです。

ことFXしにしろ株式投資にしろ、ただお金を投資するだけではリターンが得れるわけではないのです。

何故なら、それらの価値は上がったり下がったりするものだからです。

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ではどうするべきか?

それは抽象的ですが、そのことについてとことん勉強して行動するしかないのです。

ただお金を入れておけばリターンが得れるというものではないのです。

長期投資にするのか、短期投資にするのか、あるいはそれらを組み合わせで投資していくのがいいかといったことをとことんまで勉強したうえでスタンスを決めて、取り組んでいくしかないのです。

また不動産への投資にしろ、ただお金を出すだけではリターンを得ることはできないのです。

その不動産に住む人、使う人が撤退してしまっては借金が残るだけでなのです。

またビジネスに投資する、あるいは自営を始めるにしろ、やはりお金を出すだけではリターンを得ることはできないのです。

そこに来て物を買う、あるいは食べにくる人がいなければリターンを得ることができないのです。

もしくは来なければ借金がのこるだけなのです。

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そこで成功するにはどうすればいいか?

やはり、その道について勉強し、日々研鑽を重ねるほかないのです。

いずれも、どのパターンでも、やはり勉強を重ねることが重要ということですね。

ただお金を出すだけでリターンが得れるという魔法の小槌があればいいのですが、そういうものはおとぎ話にしかないようです(笑)

そういうものに取り組み、老後はこれまでのサラリーマンのような感覚ではいられないのは明白なようです。

定年まで一生懸命働き、老後は年金でゆっくりと暮らすというのは団塊の世代で終了したようです。

そこの脳内チェンジをする必要があるでしょう。

ここの本に書かれている佐伯氏の論文はわずか29ページですが、そんなわずかのページでこれだけの思索を私にさせてしまうのですから、私にとって佐伯氏は凄い存在なのです。

これからもそのような感じになることは間違いありません。 やはり古今東西、著作家というのは批判にさられがちなのですが、こと佐伯氏も批判にさらされる場面があるのかもしれません。

それは当然でしょう。 人によって好みや価値観が違いますし完璧な論など書ける人などいませんから、そういう事態があっても致し方ないでしょう。

しかし、それでも私は佐伯氏に対する批判する点はありながらも、大幅においては賛同するので、これからも佐伯氏の本を買って読み、勉強していく所存です。

そんな気になった人には、是非ともこの本を読んでほしいです。 ●この本は以下よりどうぞ!

Amazonのみで取り扱いのようです。

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これからの世界を考える人へ

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その他、佐伯啓思氏の本について紹介したページ

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『ケインズの予言』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/474659998.html?1587307248

『アダム.スミスの誤算』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/474626068.html?1587118718

『成長経済の終焉』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/474439818.html?1586183374

『経済成長主義への訣別』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/451864238.html?1503236769

『さらば民主主義』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/450978583.html?1497756698

『反.幸福論』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/428518819.html?1445833705

『経済学の犯罪』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/426540927.html?1442938996

『西田幾多郎』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/409858456.html?1442739330

『従属国家論』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/421835004.html?1442739703

『科学技術と知の精神文化』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/418149998.html?1442739935

『正義の偽装』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/396634159.html?1442740341

『貨幣と欲望』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/375345171.html?1442740615

『日本の宿命』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/356624758.html?1442740994

『自由と民主主義をもうやめる』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/428055433.html?1445761232

『擬装された文明』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/474927977.html?1588728115


日高六郎 『戦後思想と歴史の体験』

2020-05-22 21:56:46 | 現代社会

この本を読んで、科学は改めて、人に行動を促すためのものであるなということを感じた次第です。

この著者の日高六郎氏は社会学が専門でしたが、それ以外のいろんな学問に精通しているのがわかり圧倒されました。

社会を大幅に、そして綿密に分析して、そこから何をすべきか、今どのような状態になっているか、どのような方向が望ましいかをつまびらかにしたうえで、議論を呈示しているのですね。

日高氏曰くに、「深い価値観は一般に国民的な体験と普遍的な原理とがある歴史的瞬間に交錯するときに生まれるのであって、普遍的な価値がただ普遍的であると認識されるだけではそれほど国民を捉えることはできない。」 ということですね。

やはり理念だけが1人で浮上していても仕方ないし意味がない。 やはり経験を通した理念であり理論でなければ不毛なものに堕してしまうということですね。

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宗教に入っている人は要注意ですね(笑)。

宗教に入っている人は、その宗教内でいわれていることに無批判になりがちですから、経験を無視して、理念だけを追い求めて行為しがちです。

「歴史とは経験の共有と、その普遍性の認識であるとすれば、民衆の願望、認識が特殊閉鎖的なものとしてではなく、普遍的な共有的なものとなってきているということが重要である。

これらの諸価値を体験と願望とすることが全世界的、全民衆的な規模で可能になったのは現代が初めてである。

それゆえに、民衆が歴史の中の主体的な力として姿をあらわしたということは、彼の体験、願望、認識、行動から出発して、その中から原理とイデオロギーを作りだし、そのことで歴史を能動的に作り出していく過程で諸価値をただ並べ、大義名分として肯定するだけでなく、その実質内容と相互間の主体的な構造を明らかにしていく必要がある。

理想主義を欠いた現実主義はただ受益な態度の再生産に陥るだろう。」 と書いてることも、また私の食指を大いに動かすモノでした。 ある分野においては、その道の研究者がいて、その分野の理想とすべきレベルがあるのですね。

それはなぜそのレベルなのかは、そのことについて書いてある本なりを読むのがいいでしょう。

その理想のレベルのために、国民がどのようなことをすべきがいいのかを呈示しているのが科学に関する本なのですね。

ですから、その分野についての本を詳しく読み、そして行動を促しているのです。

促すことを望んでないならば、一般人に出す必要はないのです。 ですからそういった類の本は読んだら行動に移すべきなのです。

そして興味深くも、日高氏は「私生活派の登場は1つの問題点である」としているのです。 おそらく勤労者たちの中の私生活派も全くの無関心派ではなく、微量関心派であろうということですね。

やはり、完全なる無関心な人はいないのですね。

そして「一方にパチンコという無目標的行動を楽しむ大衆があり、他方その上に高度の技術を駆使して極東の緊張緩和に務める専門官僚がいるという構図がなりたつ」ということを分析しているのは興味深かったです。

これは、同じ社会学者であった清水幾太郎氏も、同様の趣旨の本を書いていたのを読んで関心したのを覚えています。

作為であろうが不作為であろうが、社会に影響を与えながら生きていることになるということですね。 不作為でよからぬ結果がもたらされても、それは国民全般の意思の総体なのである、ということですね。

作為によって良き結果がもたらすことがわかっているならば、作為にバイアスをかけた方がいいに決まっています。

それをどのように考えるか、ということですね。

政治的な行動に移すことをこれまでカレル.ヴァン.ウォルフレン氏はいろんな本を通じて、日本の読者に呼び掛けてきたわけですし、その言葉を私はこの場で紹介してきました。

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カレル.ヴァン.ウォルフレン

 

その行為に移す衝動にかられるかどうかは、その人の置かれた立場によって変わってくるわけですし、一応新聞やテレビを通じて伝わってくる政治的、行政的な不祥事に関しては、遺憾に思うことがあっても、行動に移さないのは、それほど価値あることであると思ってない事だからにほかなりません。

行動しなかった人は、そういった政治的な行動に移すよりも、仕事や仲間内親族内での団欒の方が大事と思っているからにほかなりません。

それでも人生がうまくいっているのならば、政治的な行動に移さないという選択肢によって生きるのも文句は付けられないでしょう。

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でもその不作為によって、自分がどのようなことを被るのかも、因果関係はこんにちのような複雑な社会であってみればわからないし不明でしょう。

ですから、心底行動に移さねば、と思う人は、いろんな社会の問題点について書いた本を読んで、その詳細を脳内に叩き込むという作業によってでしかないと思います。

やはり新聞やラジオなどの一過性の情報だけでは、やはり行動に移すのは難しいのではないかと思われてならないのですね。

精神分析学の第一人者であるジムクント.フロイトは、何気なくその日を暮らしているだけの人とは付き合えなかったということですね。

フロイトはやはり科学者である手前、いろんな本を読んで、社会の問題点について把握してたのみならず認識していたのでしょう。

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  フロイト

その問題点があるのに、それらのを良き方向へ向かわせないでいて我関せずの人間にはシンパシーを感じれなかったのは理解できる心情ではあります。

しかし、社会がどんなに高学歴化しても、やはり文字を読むことに愉しみを見出せる人は少数派なのです。

これまでいろんな学問について読んできた本からそれは明らかと思いおます。

ゆえにどの人も市民として政治的な活動に従事するような行動に駆らせるのは難しいことではないかと思われてならないのですね。

普通に働いていれば普通に生活できるような先進国であれば、それはもっともでしょう。

ゆえに、そういった文字を読むことに全くストレスを感じずに、それでいて問題点を良き方向へ変えていこうという気概を持っている人には期待をかけたいし、そういう人が多く出てくるように私はこの場でその立場を表明したいのです。

そのことにシンパシーを感じた人は、この本を読んで更に自分の立場を強化してほしいですし、そういう立場に興味のある人も読んでもらいたいです。

この本は以下よりどうぞ!

戦後思想と歴史の体験 (1974年)

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加藤秀俊 『人生にとって組織とはなにか』

2020-05-11 17:09:05 | 現代社会

今は働き方が多様化していますが、この本が出された当時(=1990年)においても、そのような変化はあったのです。

人との付き合いが億劫である。

だから自営業になる。

それでも、その自営協会に加入しないといけないし、それでも弁護士や、税理士といった人たちとの付き合いや年金などの納付…あげていったら切りがないのです。

このように人との付き合いを避けようにも、どうしても組織から離れられないのが現代人の宿命であるとさえ言っているのです。

この本の著者である加藤秀俊氏は。

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   加藤秀俊

事実その通りですね。 組織に属するのは、何もサラリーマンだけではないのですね。 フリーランスであろうがなかろうが、やはり組織に属さざるを得ないのですね。

そのサラリーマン社会ですが、現代をみても、この本が発行された年代においても、その当時はそれが当たり前であったと錯覚しがちですが、昭和の終戦当時は、7割以上が自営業だったのですね。

これは驚きですね。

しかし、当時の社会を描写した漫画である『はだしのゲン』を読めばそれは瞭然ですね。

それが、だんだんとサラリーマン化していくのですね。 ですから、サラリーマンになるのが当然というのは、やはり思い込みのような気がしてきますね。

そういったメタ認知をしていくと、もっとマクロな視点で物事を見ていくと、サラリーマンは当たり前ではないということがわかれば、もっと脳内を柔軟にしていけば、ネットワークビジネスで生計を立てていくのは、おかしくも何ともない、と思いますね。

それで某ネットワークビジネスをしていきましたが、いろんな人に断られ続け、ものすごいコスパの悪さを実感し、それとそのネットワークビジネス会社の製品はいろんなインターネットのサイトで安く売られているのを発見して辞めました。(笑)

それに、今はサラリーマンとして雇っていくこと自体が、会社には負担になっているのがわかります。

それは…といって詳説して行くのは時間がかかりますので、やめにしますが、やはりそういう時代なのです。

それで好ましいのはフリーランスで働くということでしょう。 しかし、その際においても、組織を避けて通らなくてはならないのです。

人付き合いは非常に大事です。 そこを避けて通ることはできませんし、敢然とこなしていくことが大事でしょう。

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というと、非常に難儀なことのように感じているような誤解を与えてしまいそうですが、私はそんなことは全然感じていないですし、人との心の通いあいを大事にしているのです。

やはり、この本を読んでも感じることですが、この本の著者である加藤秀俊氏も、そのような人生モラルで生きている人だなあと感じる次第です。

いろんな本を読んでわかったことですが、本を読むだけでなく、いろんな人と会って、いろんな話を聞くことで自分の知的生産に役立ててきたことも判明しました。

自分がしてきた読書や研究だけでは限界があり、どうしてもいろんな人とまじりあうことで自分の血となり肉になるということを、経験をもって体得してきたのでしょう。

その相手は大学教授などの専門職の人の場合もあれば、全くの素人の場合もあり多種多様です。

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それは私自身も経験してきたことですし、これからもその姿勢を崩さないで行こうと思っております。

そのモラルを崩さないのは、やはり人の心を重要と思っているからですし、加藤氏も同様でしょう。

多くの友人に囲まれている人もいれば、友人などいなくてもいいと思っている人もいますから、人生は興味深いと思います。

いずれにしても組織は避けて通れないのです。

その組織のよき在り方、必然的な行方、get throughの仕方など、この本は多様性に富んでいますし、読んで心温まる思いがします。

やはり単なるノウハウ本ではなく、心温まる人生を送りたいという人のために、この本を勧めたいです。

●この本は以下よりどうぞ!

   ↓

人生にとって組織とはなにか (中公新書)

 

その他、加藤秀俊の本について紹介したページは以下!

 ↓

『取材学』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/474732465.html?1587887260

『企画の技法』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/474820319.html?1588077301

『整理学』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/474780456.html?1587889687

 

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佐伯啓思 『擬装された文明』

2020-05-05 12:20:32 | 現代社会

この本は、あまりの素晴らしさに、一気に読んでしまった本の1つですね。

これは、9時くらいに喫茶店に入って、パフェグラッセを頼んで、読み始めて、1杯だけでは足りずに、もう1つパフェグラッセを頼んで読み進め、1時過ぎに精神的にリフレッシュするために終えて、店を出ました。

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そして次の日に読むのを完了しました。

これは300ページ超の本です。

こんなに時間をかけて読むなんてすごいと思われる向きもあるかもしれませんが、私が凄いのではなく、これを書いた佐伯啓思氏が素晴らしいのです。

つまらない本ではこんなことは無理です。

壮大なる文明論、しかも人が考えないような視点でモノを考えそこに意義を見出す能力の凄さはやはり尋常でないのがわかります。

単なる奇をてらった議論であれば、わけのわからない本で終わってしまいますが、実際その意味付けには説得力があるから読み進んでしまうし、そこをチェックして書きとどめてしまいうのですね。

そういう文章であるからこそ、この佐伯氏の本は出版される告知がされたらすぐに書店で予約して買って、読んでしまうのですね。

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     佐伯啓思

この本は現代の大衆社会を歴史から見て、そして今のその深層を掘り下げて観察しているのです。

資本主義の成功は、ブルジョア―貴族という図式を覆したということですね。

これはまさしく政治構造の変化が起きたのです。

そして、知識人を多く輩出したのです。

ブルジョア―貴族という図式の時代には、貴族に対して言いたいことを我慢していましたが、その図式が崩れることで言いたいことが言えて職業に就くことができるようになったということですね。

まさしく文化や価値の変化が生まれたことにほかならないのです。

図式が崩れることで、いろんな職業が生まれ、大衆がその職業に対してお金を出してくれるようになったということは、職業の幅が広がり、非常に好ましい事態になったと私などは思ってしまうのですが、それには賛否の分かれる事態を招いたということです。

それは非常に興味深いですね。

大衆が主役になったということです。

その図式が崩れたことでブルジョアから大衆がうまれ、その文化の意味内容もかわったのは言うまでもないことです。

ブーアスティンはその当時の革命を複製技術革命と称していました。

新聞や雑誌のフォトジャーナリズムによって、大衆に多くの写真や文字を認識させることに成功したのです。

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これはこの時代においては多くの人に知らしめることが大目的であったのでしょうし、それだけで満足していたのではないでしょうか?

知らしめるだけなく、受け手はそこに意味づけをしたり、そこに書かれていることを吟味し、審議を見極めることが今では大事でしょう。

その作業を怠ることで、為政者の思惑にはまることもしばしばあるのはいうまでもないです。

その知的作業は、いくつものいろんな立場の著書をくまなくよむことで培われることは間違いありません。

それをしていきましょう。

この革命について「工業的狂気が芸術を貪り食う」あるいは「芸術は公衆の支持とお金に値するように複製することだった」と書いたのはボードレールです。

工業による大衆を文化的に訓育するという啓蒙的な理性が、まさにその目指したものとは正反対の文化的野蛮、卑俗なコマーシャリズムを生み出したということですね。

リシェイプ、パッケージ、デザイン、広告はブルジョアの地位表示記号になりました。 その装飾趣味が大衆の日用品の表面に表れたのですね。

これは、フランクフルト学派による文化的エリート主義と敵対する考え、立場だったのですね。

これは芸術という高尚な文化をどのように考えるかという問題ですが、私には即断できかねる問題です。

その文化的エリート主義の立場であった、アドルノホルクハイマーマルクーゼといった人たちの本も読んで、また逆の立場の人たちの本も読んで比較考量してから判断を下すほかないものです。

しかし晦渋を極める問題です。

資本主義化によって大衆的にひろまった芸術ですが、その芸術を作る際にも、資本主義下においては、時間的な制約があり、そのことで良い作品ができることは間違いないのです。

しかし、そう一般化しないで逆に時間的な制約がないことでいい作品ができることもあるのは間違いないです。

時間の制約がない中自由にさせることで、時間を大いに使って素晴らしい本を量産する教授がいる一方、逆にほとんど研究すらしない教授が出てきてしまうのも事実なのです。

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その部分も考えさせられることですし、大衆化とは平等化と軌を一にしているのです。

しかし貴族―ブルジョアの図式があったころは、不平等ゆえに芸術を嗜む階級が莫大なお金を所有することができたのです。

それゆえに後世に遺る芸術作品ができた部分も大きいのです。

ですから、一概のどちらの立場がいいかといった即断はできないのが現状です。

ここで大衆をどうとらえるかという問題ですが、ル.ボン「群衆とは巨大な集団催眠」と規定していますが、それをどう評価するかは人それぞれでしょう。

興奮している集団に身を置くと自分はそんなに興奮していないのに、なぜか興奮してしまうという覚醒作用はありますね。

それが間違った方向へいっているかどうかに関係なく、一気にその集団の方へ流れてしまう。

そこで一歩離れて、それが正しいのかどうか吟味する必要はありますね。

みんながいっているから自分もそうする、ではなくきちんと相対的に考える必要がありますね。

また、タルドはその大衆社会は、文化の衰弱であり、知的凡庸さによる社会生活の支配としているのです。

群衆の漂うままに自分の行動を規定してしまっている主体性の欠如ということでしょうか。

これも当たっている部分もありますし、当たってない部分もあることは間違いないでしょう。

全部が全部、群衆の漂うまま生きている人もいないですし、主体性が全くない人もいないでしょう。

しかし、この時代にそのように規定している人がいたということは、そういう人間があまりにも多いということを一般化してしまうほど多くいたということでしょうか。

もしそうならば、その原因を探る必要がありましょう。

やはりメディアの発達によって、それをみるだけで満足してしまっていたのでしょうか。

精神の発達段階の初期段階で終わてしまっていたのでしょうか。

ではそれを反面教師にして、そのような事態に自分もなっていると感じたら、その段階から脱することが大事でしょう。

やはりその歴史をみると、その状態から脱するには、そのことについて書いた本やメディアに接して吟味することが大事ですね。

そうでないことには、この本に書かれているように、今は世論を操作しうる者の専制を生みだすという危険性が存在しているからです。

そのようにメディアが発達した結果、事実伝達の正確さではなく、人々の信じ込んでしまうものの製造する能力が問われる時代なのです。

女性のダイエット、あるいは男性のダイエット、女性の薄毛、あるいは男性の薄毛、それぞれの製品って、次から次に発明されては発売されていますよね。

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しかし、共通するのは、一見もっともらしく効くような感じを与えますが、実際それだけ使えば叶うというものではありません。

ダイエットにしろ、薄毛にしろ、その他なににしろ、身体の内部と外部の両方のケアを、継続していって初めて成るものです。

それだけ付けていれば、飲んでいれば叶うというようなメカニズムには人間の身体はなっていないのです。

しかし次から次にそういう製品が出てきては、また次に新たな製品が出てきますが、それだけで叶うものではないのです。

その重要性について知るには、やはり多面的にメディアを利用するしかないのです。

メディアは一見もっともらしく見えるようにして買いたい衝動に駆らせる反面、非常に重要な情報を得る手段でもあるのです。

やはり二律背反なのです。

そのことをわかる必要があるでしょう。

こういった些細な問題点はあるにしても、現代は既に満たされた社会であって、取りたてて政治に参加する必要のない社会になってしまったことは間違いないでしょう。

普通に働いていれば普通に生活できる。 政治や行政において不正が行われても、それを別段糾弾せずとも生活に困るわけでもない。

歴史の進歩は、人を如何に幸福にしたかという尺度ではかるべきであると書いた著作家がいたことを記憶していますが、それは現代ででほとんど達成されてしまっているでしょう。

その現代社会について、佐伯氏は以下のように書いています。

「言い換えれば、物質的な進歩主義や民主主義とか平等とが相当程度達成されたとき、進歩主義は一種心地よい倦怠をはらんだニヒリズムに咳を譲り、価値の多様化という自由のイデーは面白主義というべき相対主義に転落したのが現代なのではないか。」

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この場合の進歩というものを、自由、平等、平和、人間性と置き換えています。

それは妥当性が高いでしよう。

その言葉そのものが、神聖視されるにつれ、その意味内容はほとんど検討されずに便利な標語として祭り上げられてしまった、佐伯氏は看過しているのです。

更に、啓蒙はほとんど自壊作用をおこしたのは、その原因をあまりに性急に社会問題の次元に引きづりだしたからである、ということを書いているのです。

しかし、私の敬愛する佐伯氏ですが、これはあまりに分析的過ぎているし、いにしえの哲学者の言を、無批判的でありすぎるとおもうのですね。

確かに進歩などということを現代で言おうものなら、あまりに古風な概念語のような観を与えるのは間違いないです。

しかし、どのような社会においても問題は発生するのであって、その問題点を良き方向に変えていくために、その現状を深く観察して、その方向を提示するのが知識人たるものの役目であって、その進歩という概念にあまりにとらわれすぎという観はぬぐえないですね。

その概念を中心概念にするのではなく、やはり問題点を中心にすべきであるということを批判としていたいです。

他の著書で佐伯氏は政治について「不満があることというふりをさせられる社会」と評していましたがこれも誤りでしょう(笑)。

こういった批判点はあるにしても、このような壮大な気分にさせてくれタ佐伯氏には感謝の意が尽きないのです。

これほど熱中して読んでしまったほどの本が、今では絶版なのは残念至極です。

まあ30年以上も前の本ゆえに、また昨今は毎日50冊以上の新刊が出ていますからしょうがないです。 でもこれほどの傑作が書けたのに…と私が佐伯氏の立場だったら思いますね。

先に書いたように、あまりの興味深さに4時間以上も集中して読んでしまったのですからそうそうそういう本はないです。

しかしそれならば、オンデマンド出版としても出せないかなとおもいます。

この本の原稿なりは残っているのは間違いないのですから、それを重要文化材として遺したらとすら思います。

前に紹介した桜井邦朋氏は、「大学教授たるもの本をいくつも出さなくてはならない」ということを書かれていましたが、それをしようとしても、それまで実績がなくては無理な話であって誰でもそれは可能ではないのです。

それまでにこれだけ売ったという実績がなくては、売れない人の本をもしも出して、売れなかったら出版会社は赤字になってしまいますから。

私が大学時代に履修した教授や助教授で、いま本を出しているかどうかをネットショップで探すもなかなかないんですね。

そうなるためには、桜井邦朋氏が暴露した本を出してもらえる方法として、皮肉を込めて紹介していたのは、講義を簡単にして、あるいは年末試験を簡単にすれば、履修者が増えて、その教授や助教授の書いた本をテキストにすれば多く売れた実績が出来て、本をまた出版してもらえるということですね。

私がお世話になった当時助教授だった某先生は、今は教授ですが、その先生は他の人が書いた本をテキストにしていました。

そうではなく、自分で書いた本をテキストにすればよかったのですね。 そうすれば実績ができて、自分が本を出すことも叶ったと思うのですが、そうはならなかったのが残念ですね、まじめに講義をする先生だっただけに。

もちろん、そのようにして出した本でも、実際に売れなかったら当然次はないですけれども。

何故、本を出さないのか、ということを考えるに、本を読むことに夢中で、書くことや整理するといった知的生産がおざなりになってしまっているということが言えるでしょう。

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考えることを忌避して、読書をすることでその忌避したことをごまかそうとするという知識人の生態をショーペン.ハウエルですが、そのような生態になっているパターンは散見されますね。

親しくさせていただいた教授に研究室に入れさせてもらいましたが、その蔵書の多さに押しつぶされそうでした(笑)。

部屋の4面はもちろん中間部分にも、床から天井まで本が積みあがっていたのです。

よくここまで集めたなと感心せざるを得なかったですね。

しかし、それほどの多くの本を買って読んできたにも関わらず、その教授がそれからどれだけ本を出したのかを今ネットで知らべるも、ほんの少しだけなんですね。

これでは、親御さんが大金を出して息子、娘を大学に行かせた意味がないと思ってしまうのは必至でしょう。

大学教授は、毎月研究費として10万円もらえるということでした。

しかし、そんなに読むほど月に買う必要があるのだろうか、と疑問に思わざるを得ないですね。

それだけ読んで、それを抜き書きしたり、引用したり、そこに書かれていることを吟味して自分の考えを加えるといったことをしている時間など、毎日講義があるわけでない教授であっても可能なはずはないですね。

しかも、そんなに多くの本が山積みになってしまっては、どの本にどのようなことが書いてあったかを記憶しておくのは不可能であるのは誰でも予測可能でしょう。

しかし、それだけ多額の研究費を毎月必ず付与されるのが可能なのは、多額のお金を出しても惜しみなく自分の子供を大学にいかせたいと思う父母さんが日本に多くいるからでしょう。

それでなければそんなことは可能なはずはないです。

私が大学に通っていた時代の授業料を、講義1コマに計算したら、およそ2500円くらいしたものです。

しかし、今やその当時よりも年間に直すと20万円くらい値上げしていますから、もっと上がっているのは当然です。

そんな高い授業料の価値はあるかと問われればそんな価値はない、と私はいうでしょう(笑)。

しかし何ら反発を思うことなく、惜しみなく自分の子供を大学に行かせようとする父母さんが多くいますから、それが改善されないのです。

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そこで、前にレビューした『大学なんて行っても意味はない?』という本を思い出しました。

※参考ページ

   ↓

『大学なんて行っても意味はない?』についてのレビュー

http://hair-up3times.seesaa.net/article/473106846.html?1588645597

 

授業料に見合った授業にはなっていないというのが趣旨ですね。

古本屋で買った100円で買った本の方が、1回の講義よりもはるかに有意義ということですね。

研究費を下げることは可能でしょうし、下げることを自ら申請することは可能でしょう。

そうでもしない限り、読書にばかり時間を取られ、自分の考えを練り上げる、あるいは有意義な文の書いてある箇所の引用や抜き書き、あるいは他の本との参照、あるいは自分の考えの高尚化といった知的生産をする時間が無くなってしまうのは明らかです。

自称.読書嫌いでかつ、実際ほとんど本を読まない佐伯氏が、素晴らしい本をこれまでいくつも量産してきたのですから、それは可能でしょう。

佐伯氏は著書を50冊出し、共編著は44冊出してきたのです。

自称.読書嫌いでかつ実際ほとんど本を読まない人がです。

ならば、あれだけ本を読んで研究室に本がある教授や助教授ならば本を出せるでしょう。

本を出すのが無理ならば論文くらいは出してもいいとは思いますがどうしてかそうはならないのが難しいところですね。

やはり知識に携わる人ならばそういった使命感を持ってほしいですね。

また資質的な部分もあるのでしょう。

論文などの知的な生産は、記憶力が大事ではない、とはよく言いますが、全部が当たっているわけではないことは明白です。

理論なりの文章を記憶しているかどうかでは、生産の時間に雲泥の差が出るのは当然です。

文章が書いてあるwordなりノートなりを開いて文を書くよりも、脳内だけの記憶だけで書けるのでは時間が違ってきます。

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佐伯氏東大を出たということで記憶力は半端ないのでしょう。

だから著書を50も出せたのでしょう。

またムツゴロウこと畑正憲さんも記憶力が半端なく紙に書いてあることは見るとすぐに記憶してしまうのだそうですね。

そんな脳だからこそ東大に現役で合格したのでしょう。

また畑正憲さんも多くの著書を50以上出していますね。

だからといって、記憶力に劣る教授や助教授が、何ら本を出さないといったことは法度に思わないといけないでしょう。

社会に現出する問題点を創造的に変えていくことが教授や助教授の使命なのですから。

それが科学の理念なのですから。

では、この本は以下よりどうぞ!

擬装された文明―大衆社会のパラドックス

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