C.Bマクファーソン 『現代世界の民主主義』

2018-03-06 01:30:53 | 政治学

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この本の著者であるC.B.マクファーソンカナダの政治学者ですが、そんなに著名ではありませんが非常に感銘を受けました。

ゆえにこの場所で紹介したいと思い、紹介させてもらいました。

この本を読むと、この学者は人民による統治をそんなに信用していないのがわかります。

かといってエリートだけによる統治にも期待せす、漸次的に市民を啓蒙しながら統治のレベルを上げていくというようなスタンスであるのがみてとれます。

それは、私が敬愛する佐伯啓思氏と同じですね。

プラトンを引き合いに出し、プラトンは民主主義を平等化主義として拒否したことを書いています。

またクロムウェルも同様に民主主義に距離を置いていたのです。

当時の社会において、「今や人々は喜び、または恐れを抱きながら、自分たちのことを自由に選択できる個人として考え始めた。 実際彼らは自由であることを強制されたのである。」 と書いてあるところをみて、非常に明晰で、他の人とは違う分析脳を持っているのだなということが感じれました。

このようなことを書くということは、まさに人民を自由である、それだけで信用はしていないということが見て取れます。

ゆえにプロレタリア独裁である国=社会主義国にも信用を置いていなかったのがわかります。

かといって資本主義国にも万般の信用を置いていなかったのもわかります。

この本では「資本主義が以前のどの体制をも凌駕するようなものすごい生産能力をもたらしたために、今や初めて強制労働から人類を開放することが可能になりつつある」と書いているのです。

レーニンは前衛による権力奪取を支持したのです。

資本主義を転覆し社会主義になるためには、プロレタリアによる統治がよいとマルクスは言いました。

しかし、前衛国家は、人民のための政府でも、人民による人民のための政府ではない、とマクファーソンは断じているのです。

この毅然さには驚かされます。 この本が書かれた67年には、まだ社会主義の脅威がささやかれていて、社会主義国家が世界の半分に迫る勢いを見せていた時であり、日本でも西洋でも自分の国が「社会主義を採択すべきだ」という論調の本を出していた人が多くいた時代でもあります。


そんな時代に、毅然と社会主義国に対峙できた論文を発表していたのみならず、現代でも通用する透徹した理論を展開していたその脳には敬服の念を持たざるを得ないですね。

非自由主義的民主主義としてマクファーソンは、社会主義国と低開発国の2つをあげてその詳細について説明していますが、その内容は非常に奥が深いですし、今も通用する理論が展開されています。

しかし、かといってそれと対比する資本主義国を弁護せず、「自由主義的-民主主義が人間の本性に一番適合しているものだという抽象的弁護論にとどまっていることはもはやできないのである。」と書いて、やはり更なる理論の展開を示唆しているところはさすがと思いますね。

 自由に関して責任持てる統治体制が必要と説くのですが、それは18世紀のアメリカで、18~19世紀のフランスで革命が起きたのです。

その自由主義革命以来、すべての個人は自分の努力次第で自分たちが仕事をするのに必要なだけの土地なり資本なりを自由に手に入れてきた事。 それと一部の人たちのちからの一部が他の人たちの移転された事。

この移転があらゆる資本主義的市場社会の必然的な特徴があるということが通常見落とされているということですね。

よくもいろんな情報の中から、これだけ説得的な抽出理論を出したなと関心するばかりです。

資本主義的市場社会においては、「これからの数十年間に量においても、速度においても過去における増大をはるかにしのぐ生産力の増大を予期しなければならない」とし、「物質的な欠乏に対する闘争の中に沈められてきた人間的価値の欠乏を修復する仕事を開始することになるだろう」とし、現に今の私たちはそういう状態になっているから驚きですね。

社会科学系の大学に進んだ人は、やはりウェーバーやマルクス、シュンペーターといった有名な学者の名を学ぶことが多いでしょうが、このマクファーソンはきいたことがある人は少ないでしょう。

しかし、この透徹した理論には私は驚きましたし、以前このブログで紹介した『現代の哲学入門』を著わしたウォディントンを思い出しました。

それは200ページに満たない本でしたが、非常に示唆に富み、言葉の1つ1つが重く、常任にはない脳内枠組みを持ち、それが非常に説得的だったので、何回も何回も読みたくなる思いにとらわれ、今も所有しています。

もちろん、このマクファーソン氏の本も。 また機会があれば、また氏の本を紹介したいです。

●この本は以下よりどうぞ!

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現代世界の民主主義 (1967年) (岩波新書)

 

関連記事

K.ウォディントン 『現代の哲学入門』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/437575632.html?1520267610


藤沢令夫 『ギリシア哲学と現代』

2018-03-01 13:42:36 | 思想

評論にしろ、学問にしろ、なぜ書きそれを本にして発行するかといえば、その書いてある内容を読んで、現代人が現代において存在する問題点を良き方向へ導くためにあるのは言うまでもありません。

今回紹介するギリシア哲学にしても、これを学ぶことによって現代に存在する問題点を自覚し、それを良き方向へもっていくことを訴えることでなければならないのではないでしょうか。

しかし「ギリシア哲学など、こんな昔の学問を学んで現代に何の役に立つの?」という素朴な疑問がわくと思いますが、そこは虚心坦懐に読んでいくとそれが浮き彫りになると思います。

しかし、哲学というのは私が大学時代に講義を受けた時も、そして自主的に哲学の本を読んでの感想ですが、物事を奥深く考えすぎる、ということですね(苦笑)。 かつて中島義道さんの著作を紹介した時に、そこでは中島さんの以下の言葉を引用しました。

「哲学の核心部分と信じるのは、固有のテーマをひたすら言葉のみを信頼して、厳密にこれでもかこれでもかと議論していく能力である」

1つのことを、とにかく深く考えてしまうから、哲学について書いてある本にぞっこんになると、その思考法が癖になって、これは本当にこれでいいのだるか?この人の言った事の真意は?これはどういう由来か?これにつて真の定義はどういうのがいいのだろうか?といった事を考えすぎて先に進めなくなってしまうのですね(笑)

ですからそういう思考法は、あまりこだわりすぎると市民生活においてマイナスになりかねません。

しかし、そういった深く考えすぎることも、科学の発展には不可欠であることも間違いはないのです。

また、学者明けでなく一般市民も同様です。

良き方向への道は、やはり物事を深く考え、物事や事物を研究していくうえでできるのであって、ただ漫然と生活していくだけでは到底不可能であることは間違いありません。

ですから、哲学を学んだ人が、その加減をどうするかは、本人に任せるほかないでしょうね。

そこで思い起こされるのは、丸山真男『日本の思想』という本ですね。

そこで、丸山真男が曰く「哲学はすべての科学を基礎づけるものである」と書いてあったのを覚えています。 大学では、いろんな専門の科学があって、教授たちはその担当している専門だけを勉強している。

それではいけないのだと。

やはり科学者たるもの哲学を学ばなくてはいけないということでしょう。

しかし、それでも不足ですね私からいわせれば(笑)

いろんな科学を学ぶことによって、自分の専門からだけからは見えない視点や考え、知識を学びそのことで自分の専門に教科の発展に役立ち、自分の専門を強化することができるのです。

哲学のみならずいろんな科学を学ぶ必要があるのです。

前置きが長くなりましたが、この本ではどのようなことを現代人に訴えかけているのでしょうか?

現代の工業や産業は、独走的でとどまるところを知らず急速に進行しています。

自動車、電車、飛行機などこういうものは、「失ってもいい」という人は超少数派です。

人間が工業や産業などのメカニズムに組み込まれているのです。

時間、空間が人工化し変質してしまっているのです。

現代の科学は元は哲学から発生したものですが、それは本来の合理性とは一体何であったかを訊ね直さないといけないとこの著者は言うのです。

人間の経験を再び全体として統括するような世界の構築ですね。

これは始めは1つの宗教であった仏教が、解釈や価値観等の違いでさまざまに分派してしまった宗派に対し、再び全体的な統括を試みようという提起にも似ていますね。

ガリレイケプラ、ニュートンといった自然科学者が唱えたのは、「自分の仕事が世界の調和であり、神の仕事の栄光」ということです。

当然これらの人たちは、神を信じていた人たちですが、こういう立場を私は支持します。

それは、どんなに頑張っても、ものにならない、不向きなままの仕事というのはあります。

しかし、それほど頑張らなくてもすぐにものになってしまうし、やるときに心が高揚してしてしまうものもあります。

こういう現象って誰にでもあるのではないでしょうか?

こういう事象を鑑みるにやはり、神の与えたもうた仕事、というように考えざるを得ないのですね。

こういった自然科学がそれだけで、純粋培養されるのは18世紀の啓蒙期までまたなくてはならないようです。

その期に、精神と物質がきっぱり分裂されたのだといいます。

科学は、事実と価値「isとought」の分裂が起きたのです。

こういった事象においてやはり疑問を感じだす人が出るのも歴史の必然ですね。

哲学的な思惟は、善く生きるための有効性を目指さなくてはならないとこの筆者は書きますが私も同感です。

現代は、合理主義の専制であるといいます。

能率主義、効率主義によって冒されているというのです。

アリストテレスは「人間が人間として行う本当の行為は、本質的に効率や能率の観念が入りこむ余地は全くないようなものでなければならない」という言葉を残したようですが、当時の人が?と思わずうなってしまうほどの含蓄ある言葉を残したなあ、と思わざるを得ないですね。

また、

目的が、うちに内在しているようなものこそが、行為なのである。

行為の在り方、なされ方にあるはずだからである。

素性と本性を見据えることによって活を求めなければならない。

というアリストテレスの言葉をも紹介しています。

こういった部分を読むと、やはりギリシア哲学を現代人も読む必要性に気づくのではないでしょうか?

アリストテレスのみならず、プラトン、ヘラクレイトス、ハイゼルブルクといった人たちの意義についても言及し、またその他、哲学の歴史的な変化を垣間見て、そのギ位についても描写しています。

それに興味のある方は、この本を読むことをお勧めします。

●この本は以下よりどうぞ!

ギリシア哲学と現代―世界観のありかた (岩波新書 黄版 126)

 

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