この著者さんの本は大学在学時代に、古本屋でみつけて読んで、感銘を受けて、今もその印象が残っているという人の例です
この人は、日本のアカデミズムの在り方に疑問を持ち、それを是正すべく、その内容を世に問うてきた人です。
ここで書かれているのは、大学を中心にした知識界における専門に閉じこもり自分の専門以外について知っているとそれだけで蔑まれる、日本の縦社会による上から言われたことを批難したらいけない風潮、自分の考えを持つことが良くないとする風潮、いろんな知識を詰め込むことで良しとする教育の風潮…こういったものが、学問の発展を妨げる、ということですね。
こういった事は、やはり海外から帰ってきたときに、桜井氏が感じたことであったのですね。
それゆえに桜井氏は日本のアカデミズムの在り方を批判してきたのですね。
そのことで、桜井氏は西洋かぶれという批判をされた、ということもその本の中で書いていましたが、決して私はそうではないと思います。
やはり比較という行為を通じて、自分の状態を浮き彫りにすることができるのであって、西洋の学問の在り方に対して無批判にしておいて、日本の在り方をただ批判しているのではないのです。
西洋の在り方については無批判、しかし日本の在り方は何でも批判、これはもちろん西洋かぶれです。
しかし、桜井氏は西洋の在り方にも批判をしているのです。
勿論、それが良くなるようにするためには、どうすればいいかという前進的な良き批判です。
やはり当時の日本は情緒を優先してしまい、論理的な思考法がまず出来ていない、ということですね。
それでは学問の発展などのぞめないのは明かです。
しかし、この本が書かれてから20年以上がたち、そういった弊害は大幅に修正された観があります。
いろんな学問を収めることで良しとする風潮にもなり、上から言われたことを鵜呑みにするのではなく自分の頭で考えるのが良しとするようになり、知識の量だけを問う偏重主義はほぼないように感じます。
今この桜井氏の本を読むと隔世の感があります。
やはり桜井氏の本を始め、日本のアカデミズムの在り方に疑問を持った学者や知識人たちが国の内外を問わずいろいろ出てきて、その内容を批判した本がたくさん出てきて、いろんな人がそういった本を読み、これではいけないと自覚し、矯正していったのでしょう。
その内容たるや、今読んでも慧眼モノでしょう。
歴史は繰り返す、という諺通り、いつまたこういう状態にさかのぼりするかわかりません。
そういう可能性は私はあると思います。
何故なら、日本の大学生は、ほとんど講義に参加せず、ひたすら年末の試験時だけ勉強するからです。
自分の履修した講義のうち、全部参加するのは大学生全体の10%前後というのを、大学時代にある本で読んだことがあります。
これは、目測ではなくきちんとしたアンケートです。
そして、最初から最後まで、毎回毎回同じようなことを言っているだけの教授の講義はありますね?
こういうものに限って人気が高いのです(笑)
何故なら、こういう教授の年末試験は楽ですから。
そういう人の講義で使う教科書はたいていその教授の書いた本です。
その本は内容はどうあれ売れます、履修者が多いですから(笑)
これで履修者の多い教授の講義は人気が高くて大学側は喜び、その教授の出す本も売れて出版社側も喜ぶ…しかしこれは、正統な競争原理の結果ではないのは明らかですね(笑)
普通は内容の素晴らしいものが売れて、いい加減な本は淘汰されるのが普通の競争原理です。
しかし毎回毎回同じようなことしかいっていない教授の書いた本は、たいていその本も同じようなことしか書いていないです(笑)
しかし、売れる。
講義を履修した以上、その本を買わないことには、年末試験に困りますからね。
このような原理で、大学においては、いい加減で同じようなことしか言っていない教授の講義には人気が集中し履修する人が多い。
そしてその書いた本も売れる、というわけですね。
こういった原理で、その教授は履修者が多いがゆえにお金が入る。
履修者が多いがゆえに本も売れる。
こういったぬるま湯につかってきた教授に、本気になって研究をしろ、といっても豚の耳に念仏でしょう。
そんなに気張って研究をしなくても、お金が入ってくるのですから。
こういう教授であっても、年収2000万円はもらっているというから驚きでした。
そのことに不満をぶちまけていた教授もいたことは確かでした。
しかし一向に改まる気配はありません。 何故なら多くの学生はそういう教授の方を好みますから。
予備校までは逆なのですね。
きちんと授業をしてくれる先生に人気が集まり、いい加減な先生は淘汰される。
しかし、大学からは逆で、いい加減で毎回同じようなことしか言っていない教授の方に人気が殺到する(笑)
何故そうなのか、これはウィリアム.ジェイムズの言葉に集約されている気がします。
ウィリアム曰く、
「この世は2つのタイプの人間がいて、1つは、この世界を多元的に捉える人。
この人は、リンゴもいいし、蜜柑もいいし、バナナもまずくはないし、パイナップルも結構だ。
その間に序列をつけるわけではないし関係をつけるのでもない。
いろんなものが並列状態にある、というふうに捉える立場の人。
もう1つは、この世界は最後は1つの絶対的な価値に収斂していって、その体系の中に諸々のモノがちりばめられている、というふうに捉える立場の人。
この2パターンに分かれる。
前者の人は、そのような世界観を持っているがゆえに、いつまでも勉強を続けていこうという気概が衰えずに続行する。
しかし後者のタイプは、1つの原理で世の中は成り立っているから、わざわざ情報を集める気がないがゆえに、勉強への気概はほとんどない。
後者の方が圧倒的に多い。」
要するに大学生のみならず、どの社会でも勉強を続けていこうという気概のある人は、少数派であるということですね。
では何故、そんなに多くの人が日本では大学に行きたがるのか、ということですね。
やはりそれは社会全体が、高学歴志向へのあこがれを抱くように雰囲気を醸成されてしまっている、ということですね。
大学に行くと何かカッコいいし、見栄えもいい、だから私も大学に行くんだ、というような気概を持つ人がこんなにも多いのでしょう。
進学校であれば、周りの人間が行くパターンが多いから猶更、自分も行こうという気になってしまうのでしょう。
しかし、そういう動機で大学に進んでも、主体性はありませんから、ほとんど講義など受けないで、年末試験だけ力を入れて勉強するのでしょう。
それでは、授業料などがもったいないと思われるでしょうが、当の本人はまるで損などしていないような顔をしているのですね。
やはり知識など自分には必要ない、という世界観ですから損も何もない。
しかし前者の世界観で生きている人にとっては、もったいなくてしょうがないですから、講義は100%出るし、ノートもきちんと取る。 にみならず、自分が履修した講義以外にも出席したり、その他本もバンバン読む。
これは変えられることではないでしょう。
ウィリアムがいった言葉は、古今東西普遍のような気がしますね。
前者の世界観で生きている人にとっては、先に挙げたいい加減で毎回毎回同じようなことしか言っていない教授の講義など受けたくないと思うのですが、多数の人はそういう教授を選ぶのですからしょうがないでしょう。
しかし、何もそういう教授ばかりが多数派ではないことも事実ですし、アカデミズムに入ったのは、やはり勉強したいという気概を持ったからこそであり、厳しく毎回勉強して講義をする教授も多くいたことは確かです。
しかし、いい加減な教授をのさばらせては、科学の発展に何ら寄与しないことは確かです。
同じ講義内容を継続している人に発展など望めませんし、そういう教授がいると前例を作ってはまた踏襲する人が出てくることは間違いありません。
そういう教授をのさばらせないためには、そういう教授の講義を履修する人がいなくなればいいのです。
しかし、知識は必要ないという世界観でいる人の方が多数派なのでそれも難しいですし、それはいつまでもなくならないのではないか、とは思いますが、それを指くわえてみているだけでは、敗北主義でしかありません。
そのことに目覚めて、行動する(そういう教授の講義は履修しない、本も買わない)人が多く出てくれば出てくるほど日本の科学の発展に寄与することになるのです。
そういう人が出てくることを私は望んでいるのですし、桜井邦朋氏も望んでいることは間違いありません。
そうなるように自戒の意味を含めて、この本をお勧めします。
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