内田義彦 『社会認識の歩み』

2018-01-14 14:52:40 | 思想

この内田義彦氏は、私が大学時代に読んだ本の著者で今も印象に残っている人です。

今でも、この著者の本をチェックしていますからね。

この「社会認識」という言葉からして私の好奇心をそそるイメージを包含しています。

それは、まさに科学を何故人は学ぶべきなのか、という問いこそが、科学を学ぶ人にとって認識してほしいことだからですね。

この本を読んで、その筆致も、読者に問いかけるスタンスも大塚久雄氏に共通しているなと感じた次第です。

その大塚久雄氏も、私が大学時代に読んで感銘を受けいまだに本をチェックしている人です。

内田義彦氏にとって「参加」とは、未来に起こるであろうことに一人ひとりが責任を負うということと定義してします。

そこからして、やはり現代社会に生きる人間の生活にピンとくるものを感じないでしょうか?

如何にいきるべきか、ということは本などにいろいろと書かれていますが、実際とその理想とはかけ離れています。

社会に生起する事柄は、自然の現象とは違って、人間の意志行為の総体ですから、それを操作すれば運命を変えられるのです。

どういう事をすれば結果的にこうなる、という歴史的事実があるのですから、それを学んで、それが良き結果になったとすればそれを模倣し、悪い結果をもたらしたのならば、その行為をしない、という具体的な作為をしていく必要があるのですね。

ですから、そういう事が学べる大学こそが人間の誰もが学ぶべきであるし、そういう科学的なことを書いた本をどんどん読んでくれたらいいのですね。

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そういう人が多く増えてくれることこそが私の望んでいることですね。

人間の意志的行動の基礎は、「普通には情念と呼ばれる行為の内的端緒がある」と内田氏は書いています。

その意志的行動には、巨視的、微視的と両方がありますから、その内奥についても学んでいく必要があるのですね。

マキャベリの書いた本は、統治者のための政治論でした。

しかし、ホッブズは、人間だけが前提になっているという対比があります。

ホッブズは私有財産制度に包摂される以前の人間こそ自然人ということを言っているのです。

その自然状態から論述を始めているのです。

またマルクスは、「私は、世論なるものを相手にしない。一人一人の読者を相手にする。」といったといいます。

こういった今も語られる社会科学者の言論の内容には、変遷があるのですね。

その望ましい科学の対象が変遷しているのです。

その内容について書かれているのが、この著書なのです。

そのうち立てられた体系の理解は、埋まっている断片を掘り起こす作業が必要である、と内田氏は言います。

それをしないと、体系を理解したことにはならない、ということですね。

これはこれから科学を勉強する人、または既に勉強している人両方に必要なことですね。 物事を巨視的にみる必要もありますが、微視的に見る必要もあるのです。

そういった微視的な観察が、思わぬ重要事項になり得たことにつながったことはいくらでもあるのです。

その観察ですが、やはり日々研究を重ねることによってでしか発見できないですね。

研究を日々重ねる、あるいはいろんな人と語り合っていく途上で分かる、ということですね。

ですから大学教授たちを多く集めた研究発表の場というのは、今も存在しているし、これからも、続けていかなくてはならないでしょう。

この本の「歩み」という単語からして、やはり歴史的な意義の包含性があるのですね。

内田氏は、「現代をどういう歴史のパースペクティブにおくか」ということを強調しています。

その際、ルソーを引き合いに出しています。

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ルソーは、今も中学の社会科の教科書にも載るくらい偉大な人ですが、この人の研究の発端は、非経済学的な研究内容だったのを知って驚きでした。

人類の歩みにさかのぼり、学問、文化、産業発展が果たして人類に幸福をもたらすかどうかを問うたのが始まりだったのです。

文明人と野蛮人を比較し、私有財産制度とそれに基づくまでの人間は、自己愛、憐憫、共感だけだったといいます。

しかし、文明人は利己心や対立意識を持つようになった、特に上流階級や文化人にということです。

しかし、そういったものは下層階級や庶民にはないということです。

こういうふうに書いたルソーについて、内田氏は、社会を哲学的に考察するためには、われわれの目なるモノが、如何にして歴史のなかで形成されてきたかを反省の中で捉える必要がある、ということですね。

歴史の歩みは、社会についても、個人についても人間が自然を失っていく過程であるとしています。

ルソーは正常な社会関係の樹立を目指してした、ということです。

なるほど、この指摘は覚醒されますね。

今いる場所で、今の事しか観察していなかったら、今の状態をどう評価すればいいのかはわかりません。

しかし、人類の歴史を見ることで、そういった事の評価ができるのですね。

野蛮人と文明人の比較を通して、今の状態を浮き彫りにすることが出きるのですね。

その比較を通して、現在を批判していますが、決して文明人を高評価しているわけではないですね。

そこから、どの状態か、どういうレベルこそが望ましいかは、人によって異なってくるでしょう。

その吟味は、我々一人ひとりがしていかなくてはならないでしょう。 そして内田氏は、スミスを引き合いに出して、現代の吟味を示唆しているのです。

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スミスは、道徳哲学体系を有効に成立させた科学者として高評価しているのです。

この本では、「マルクスよりも凝集度は高い」としています。 スミスは利己心と共感を人間社会に必要な2つの柱としているのです。

しかし、無数の人間の行為の結果、意図していた結果とは全く別の結果を生むこともあるのですね。

当時のヨーロッパ諸国においては、国富の増大を至上命題にしながら、大多数の貧民は豊かではなかったのですね。 貿易の国際的な対立が戦争を引き起こしていたのですね。

こういう意図せざる結果になったのだから、何も考えずに行動していくことは避けなくてはならないと考えるのです。

意図する結果を出すこともままあるからですね。

しかし意図せざる結果を招いてしまった場合、どうすればいいかを研究したのがスミスだったのですね。

影響を分析の手法で検出したのですね。

こういうスタンスが、私も支持したい事ですし、こと社会科学的なことでなくても、自分の所属する会社や家族の中や友人関係においても必要な姿勢ではないでしょうか?

そうすることで、やはり打開の視野が見えてくるということですね。

こういった社会認識の変遷を内田氏は、研究途上の中で発見できたのでしょう。

非常に好奇心を掘り起こされて読みました私は。

しかしこれは、研究をさぼって毎回毎回講義で同じこと言っているだけの似非教授にはできない本でしょう。

そういう人は私の学んだ大学でもいました(笑)。

この本を最後のほうで、内田氏は、スミスを研究する場合でも、スミスの研究だけしていてはだめであるということ、他人の研究史、他の思想領域に対する研究史を読んで事件を探し出す必要性を問うています。

これも科学を勉強していく人には必須の精神ですね。

やはり、その研究対象だけを研究していては視野が狭くなり、説得力に欠け、ひいては社会に必要な事項の発見をすることができなくなるのですね。

いろんなことを研究した途上で、この本のような関心が深くなる本を書いてきた内田氏の言葉だけに説得力がありますね。

この内田氏に興味を抱いた人には是非とも読んでもらいたい本です。

●この本は以下よりどうぞ!

社会認識の歩み (岩波新書)

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『ジャン.ジャック.ルソー問題』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/413376005.html?1515906154


西川潤ほか編 『仏教、開発、NGO』

2018-01-08 23:54:14 | 宗教と社会

この本を読んで私は、心温まりほっとした気分になりました。

これはタイでの開発僧や比丘といった人たちが、タイの寺院やその周辺の農村において仏教の思想を基盤としつつ、人々を啓蒙して、良き行動を実践していくさまがつまびらかに描き、そしてその行動の意義について論じた本です。

私は、かなり前にタイに旅行に行ったことがあります。

単なる観光でです。

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当地についたら驚いたのは、この国が仏教国であるということで、私が行ったバンコクの街には、こうした釈迦の像がいたるところに林立していたのですね。

日本は仏教国といえるのかどうかわかりませんが、日本史には多くの仏教についての事柄を学びますし、こういった像を、社会科の勉強や、修学旅行で観に行った事があるから馴染み深いでしょう。

しかも釈迦の顔は一切アレンジされることなく、鎌倉京都にある像と同じ顔をしているから驚き以外何物でもなかったでした。

こんなにも、仏教が広まっているのは、ひとえに釈迦の教えが、ものすごい広い地域にわたって、人々の心に響いたからでしょう。

これほどのカリスマを秘めた教えを持った思想家はそうそういるものではないでしょう。

釈迦は生前に「私の像を立てよ」と後進の弟子たちに残したわけではないのです。

しかし、後の人たちがこうやっていろんな国の地域で建てられたのは、多くの人が「この人の威厳をいつの時代になっても残したい!」という衝動にかられたからにほかなりません。

似たような経験ですが、私が愛犬をなくし、この犬の良さをいつまでも残したいと、この犬の写真をDPEのお店にいって、それをプリントしたクリアファイルを大量に作り、友人たちに配ってます(笑)

その友人たちはあまりに可愛いので喜んでます。

この小の良さをいつまでも残したい、という気持ちですね。

仏教はタイのみならず、カンボジア、スリランカでも国教になっているのもこの本で知りました。

タイは97年のバーツ切り下げで、財政緊縮をし、物価高騰などを招き、そして国内で格差を生む結果にになったのですね。

それはタイが経済開発に向かっていくという現象の中で、やはり必然的な現象だったのですね。

格差のみならず、環境汚染や環境破壊といった現象も生み出したのですね。

それのみならず、経済発展による、人々の快楽追及主義や人から離れて暮らす人々の発生といった現象も必然的に。

そういう現象の中で、かならずそういう現象に立ち向かい、それを改善していこうという気風が生まれるのはやはりタイでも同じだったようです。

そこで、活躍したのが、比丘や和尚といった人たちだったのですね。

昨今の東京に住んでいるとわからないですし、昔懐かしの気分になってしまったのは私だけでしょうか、タイでは、僧が村のリーダーであり、仏教が村民のよりどころであり、寺が村の共同体の中心である」というところを読んで。

そんな情景がある漫画か物語を読んだことが幼少のころにあって非常に懐かしい気分になってしまったのですね。

今の東京ではそんな情景を見ることができるでしょうか?

この本に出てくるプッタタ-ト比丘という人が、瞑想、戒律、学問(智恵)を通じて人々の心を改革してきた例も書いてあります。

煩悩を災いをもたらすとして、これを精進意欲に変えるべきとしているのでした。

近代化を批判しているのです。

その近代化によって、格差を生み、環境破壊をもたらし、経済ばかりが強調されるようになってしまうのを批判しているのです。 しかし、人間の欲望こそが経済の発展の動因になっているのは間違いないのです。

その発展の恩恵を、こういった僧たちが全く受けていないとは言えないわけで、そこをどう評価するのかはひとによって異なってくるでしょうね。

タイでは伝統的な寺院では、祭り、儀礼、食料、儀式に使う用具、芸術作品の保管場所でもあるそうです。

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しかも瞑想や癒しの場でもあるようです。

また、健康相談所や診療所でもあるようです。

しかし、「タイでは、ここまで寺院が人々のよりどころになっているの?」と驚かざるを得ないですね。

タイでは、61年に国家開発援助が始まり、道路や電機などのインフラ整備が始まったのですね。

マハーチュランロンコーン仏教大学などでは、開発僧による支援が始まりました。

物質的開発がおこなわれると必然的に、そこで村人個々人や地域社会にすぐれた価値観を保ち、悪い価値観を根絶しようという動きがやはり必然的に生起したのでした。

ここに登場する和尚さん曰く、「仏教は苦しんでいる隣人に対して、親切、愛することを教えてくれた。…村人の生活や現実の社会から遊離した仏教はいきた仏教ではなく、死せる仏教である」ということです。

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ここは非常に心温まる言葉ですね。

人とのふれあいや共同生活を通じて、心豊かな生活をしていこうとする愛情にあふれた感情を持っている。

こういう人をみて、「私の夫は心冷たいけど、この仏教に入れば治るのだわ!」といった誤解をしてはなりません(笑)

人間には2類型がありまして、いつまでたっても心の通じ合いをしなくても平気でいられる人。 もう1つはこの和尚さんのように、人との心の交流を通じて人生を生きていこうとする人。

この2つに分かれるのです。

前者のような人をどんな宗教に入らせて祈っても、後者のような温かい人のようにはなりませんから注意です。

このことは、岩月謙二さんという心理学者の本を読んで知りました。

このことは、やはり間違いないと思いますし、そういう知的武装をしていくことをお勧めします。 自分が後者のタイプであると思ったら、そういう人たちと友人になればいいのです。

前者を後者に変えようなどと思ってはなりません、それは無理ですから(笑)

後者の心を持った和尚さんたちによる、村人たちや農村の改革をこの本で垣間見ることができます。

水牛銀行、コメ銀行、貯蓄組合、協同組合店舗、児童センター、保健センター、職業訓練センター、伝統医療プロジェクト、薬草プロジェクトといったものが僧侶たちで営まれているのです。

その詳細は当の本を読んでいただくとしまして、注目したのは、それらの運営の精神ですね。

コメ銀行は相互扶助、思いやり精神で営まれ、これによって貧しい人や困っている人たちを援助するのです。 それは村人たちの寄進によって営まれるのですが、そのイニシアティブを握るのはもちろん僧侶や和尚といった人たちですね。

それをお金にならないのに積極的にみずからしていくから頭の下がる思いです。 竹細工、魚やカエルの養殖、タイ風そうめんの開発なども共同組合の精神で営まれているようです。

もちろんこの場でイニシアティブの握っていくのは僧侶や和尚たちです。

タイでは、村人は、住まいや食料を僧や和尚に提供する代わりに、僧や和尚といった人たちは、お祈りや仏法講義を無償で行うのだそうです。

しかし近年のタイでは、経済発展によってこの構図が崩れて、葬式の際に祈り、そのお祈り代で生計を立てるという葬式仏教化も見られるようです。

かつて日本でたどった同じ道をタイも進んでいくのでしょうか?

このことについては、やはり人によって評価は違ってくるでしょう。

日蓮正宗の知り合いと話すに、「この宗教の僧侶たちは副業は一切していない。

それはこの宗教始まって以来、まったく変わらぬ状態である。

僧侶たちが生計を立てているのは、みな信者からの供養(この場合はお布施の意味)である。

この僧侶たちからの祈りで私は幸福な道を歩んでいけている。

私は、これまで何回も供養をしてきた。」 ということですね。

この言葉を聞いたら、私は「この宗教こそは本物かも!」と思いましたが、この宗教には入っていないです。

本物の宗教ならば、このように供養も自らやって、タイでは住まいや食料を無償で僧侶や和尚にしていくのでしょう。

お祈りや仏教講義で、根本から人生が変わったという経験があるのならば。

そういう神秘的な経験を自分もしてみたいなという欲があるのは正直なところですね。

しかし本当なのかな、という疑問も残るのは当然です。

その検証をこれからしていこうと思います。

その、タイにおける物質的な開発は、精神的な価値を伴い、人間的なものでないといけない、ということです。

ここで注目したいのは「物質的な開発は悪だから一切触れてはいけない!」といった極端な主張が出ていない、ということですね。

物質的な開発は、そのいい面を持っているがために、やはり極端に振れる人もいてもおかしくはないですし、必然です。

しかしそういう人が少数なのは、そのいい面についても論者が知覚したからですね。

よって中立的、保守的にならざるを得ないのですね。

それがどのような結果になり、どうすればいいかはのちの論者に任せるほかないようです。

しかし僧や和尚といった人たちの精神には感服する思いです。

こういったカリスマ的な人たちのような人格者が、毎回必ず現れるとは限らないのが悲しいことですね。

のちを継いだ人が、非常に人格的にレベルが低く、相互扶助の精神など持ち合わせていない人がなった場合、それに耐えられなくなった人たちは、どうするかといいますと、当然抗議する。

しかしそれにのれない場合は、下の者たちは去って別の団体を作る、というのがこれまでの歴史から明らかです。

先の日蓮正宗のトップであった日顕という人の行いや重要事項の決定に我慢できなくなって、多くの僧侶がその日蓮正宗の団体とは別の日蓮正宗の団体を作ったということもありました。

それはこと日蓮正宗だけでなく、いろんな仏教の団体は言うに及ばず、他の宗教でも必然的に起こってしまうものなのです。

その人格を宗教的な力でもってしても変えることはできないのです。

それは先に書いたことと同じです。

祈っても変わらないものは変わらないのです。

堕落を止めるのはその本人次第ということ以外になくなるのが通例のようですね。

村人たちとの相互扶助の精神などばかばかしくなって、金儲け主義になってしまったり、葬式仏教に走ってしまう僧侶や和尚をが現れてくる可能性はなきにしもあらずなのです。

ですから悲しい限りですね。

今の日蓮正宗の法主が誰もが感服するような人格者であるかどうかわかりませんが、前の法主はどうしようもない者だったようです。

ですからどんな立派な宗教でも、そんな法主だったら嫌です。

しかしそれでもその法主に対しては無批判でなくてはならないのは、私だったらつらくて辞めてしまうでしょうね。

この本に登場した和尚さんたちのような人格者の行動や精神の内容については非常に学ぶべきことが多くありました。

それを自分の精神的な糧にしていきたいという人は、仏教徒であろうがなかろうが、仏教に入る入らないにかかわらず見習うべきだと思いました。

心温まる思いになりたい人はどうぞ読んでください。

●この本は以下からどうぞ!

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仏教・開発・NGO―タイ開発僧に学ぶ共生の智慧

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梅棹忠夫編 『私の外国語』

2018-01-08 15:09:58 | 国際社会

これは、いろんな学者や大学教授たちが、どのようにして外国語をものにしてきたか、という経験談や方法論を集め編纂した本です。

いろんな言語のいろんな方法でものにしてきた経験談ですから、熟読せざるを得なかったですね。

他国語の言語習得に興味ある人には是非とも読んでほしいですね。

これまでにも、そして今でも有名な学者や大学教授たちの論文の編纂でもあることを付言しておきます。

それぞれの言葉の重みを感じるでしょう。

その中で、やはり一番印象に残ったのは、やはり編纂者の梅棹忠夫氏のでしょう。

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梅棹忠夫

もとより、この本を買ったのは、背表紙に梅棹氏の名があったからですね。

なかったらおそらく買ってなかったでしょうね(笑)

私は梅棹氏のファンですからね。

梅棹氏曰く、

「どんな外国語でも1か月もあれば一応はしゃべれるようになる。 それは、これまでで実験ずみである。」(42ページ)

ということです。

驚異的な意見かもしれませんが、同意しますね。

なぜかというと、自分もそういう経験からうなずける部分を感じたからですね。

「自分を窮地に追い込む、これが外国語を習得するための一番の早道であると私は考えている。 その言葉を果たさなければどうにもならぬ、という状況へ自分自身を追い込んでゆくのだ。」(37ページ) というところでピンときたからですね。

私は友人の結婚式のためにハワイに行きました。

その時は、ガイドさんをつけずに1人で結婚式場近くのホテルにいき、そこのホテルで泊まり、近くの店で食事をとらなくてはいけない、という状況でした。

そういう場では、どうしてもたどたどしい英語でも、自分のボキャブラで、何とか用をたさないといけない、という状況になれば、自然と必死になって話そう、この場合どういえばいいんだということを考えましたね。

そういう場では、受験英語から離れて十年以上たっていてもやはり知恵を絞って話そうという気になりました。

こういう状況なら、言語を習得しようという気になるなあ、と思いました。

だからこの人の意見を、賛同しますね。

「1日に200語を覚えるのは、現地でならそうたやすいことではない。 1か月なら6000語だ。日常の要はたせる。」(42ページ)

梅棹氏は、これまでいろんな言語を習得してきたようですが、この時はモンゴル語の習得方法を経験とともに書いています。

「教科書の語学は、やはり本を読むための語学なのである。 草原をならんで馬をはしらせながら,くらの上で投げ合うようなことばとは初めから違うのだ。」(40ページ)

そして、1年半ほどモンゴルに滞在した梅棹氏は、現地の人と話したらモンゴル人と間違えられるようになったとも言います。

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しかも学問に携わる人間であるからして、それに非常な重きを置きそうですが、梅棹氏は「現地から帰ってきたらそれはすべて忘れていい」といいます。

意外ですね。

「一度、習得した外国語を一生保持していこうとすると大変なことになる。 外国語というものはちょっと使わないとすぐにさび付いてしまうものなのだ。 さび付かせないためには、絶えずレコードを聴いたり、本を読んだり、非常なエネルギーと時間を必要とする。」

ということですね。

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これも私はピンとくるものがあります。

受験が終わって10年以上たったある日、興味がてら受験生時代の英語の問題集を取り出して、解答しようとしたところ、正答率は3割でした(笑)

私の一番の得意な科目は英語だったのに…(笑)

やはり、毎日使ってないとさび付くなと驚嘆させられました。

ゆえに梅棹氏の言葉は響きますね。 TOEFLにしろTOEICにしろ、日本人の合格者数は、下から数えたほうが早いということをきいたことがあります(今はどうかわかりませんが)。

それにもならず、いろんな本でもそういうことを書いてある本を読んだことがあります。

しかし、それは日本人が英語を話す機会がないから、ということがわかりました。

そうですね、国境を他国と接している国の人であれば、当然国境の外の人と話さないといけない、という状況になれば、当然言語習得の気概はいやが応でも高まりますね。

そういう状況がないからこそ日本人は、英語の習得が苦手なんでしょうか。

中学から高校までの6年間を必死になって英語を勉強してきたにも関わらず。

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でも、それでもいつまでも英語の話すこと、英語や他言語の文学を読みこなすことが得意な人というのはいつでもいますね。

そういう人は外国語を勉強することが好きなんでしょう。

だから労力を惜しまずにいつまでも勉強し、その結果上達する。

そういう人以外は、やはり窮地に追い込むことが大事でしょう。

それでいて、ガイドさんはつけずに、自分1人か現地の言語を殆ど話せない人と一緒に現地に行く、これが最良の方法でしょう。

これがまず最初にありきで始めないと、いつまで言語習得を目指してもだめでしょう。

いわば梅棹氏の言葉は、言語習得にあたり基本のことばであるということがいえると思います。

その基本を押さえてから、他の論者の文を読むのがいいと思います。

そこにはいろんな経験談や方法論が書いてありますし、これまで外国語を紆余曲折の末に成就した経験のある人の言葉だけに、どの論者にも説得力があります。

最後に印象に残っているのはドナルド.キーン氏の論文ですね。

ドナルド.キーン氏曰く、「日本語ほど難しいものはない」ということです。

私は、「自分は、そんな自国語を話しているの!」と驚嘆の思いになりました。

そんな難しい言語を話している国でも、何とかモノにして、そこでビジネスをしていこうという気に多くの国の国民にならせているのは、ひとえに日本が経済大国であるからにほかなりません。

そんな難しい言語の国でしかも経済弱小国であったら、とっくに見放されているでしょうね。

しかしそんな難しい国の言葉を、ドナルド.キーンさんは投げ出さないで、ものにして、しかも日本語で書いた本を何冊も出しているのは驚嘆に値しますね。

きついところに自ら飛び込んでいく、こういう精神を自分も持ちたくなりましたし、それを見習いたくなりましたね。

その論文の内容も、いろんな外国語を勉強してきたドナルド.キーンさんの言葉だけ重みがありますね。

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私の外国語 (中公新書 225)

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小室直樹 『日本資本主義崩壊の論理』

2018-01-03 17:17:59 | 宗教と社会

マックス.ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は大学の社会科学系の学部にいった人は、必ず教授たちの口からきかされる名版でしょう。

のみならず、必ず読めとすら言われる本でしょう。

私の大学時代には、某教授から「読んでその意義について論じよ!それを書かなかったら単位はあげない。」とすら言われました(笑)。

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それくらい社会科学系の人には大事な論旨が入ってるということでしょうか。

私は、その是非は人によって違うでしょうけれども、私なりに解釈し意義を論ぜよといわれたら、やはり社会を動かすのは、人間の精神と行動なのだということを学べ、ということでしょうか?

社会は、自然とは違って法則が不変ではない、であるからこそ、人間の精神を学びそこからこれからの社会をよくするために、精神を規定する必要があるということでしょう。

その精神を変革し、行動を律するためには、多くの人が科学を学び、そして行動していかなくてはならない、というように自分のこころを規定しなおしました。

そんな人が増えてくれたらなあと正直思います。

この本では、社会主義の崩壊から論じています。

それは産業経営の精神が欠如していたからだと喝破しています、その通りですね。

産業経営とは、様々な資材、労働を組み合わせて、利潤を最大にすべく計画し行動する、ということですね。

しかし留保がついて、社会法則を通じて、実現可能なものでなくてはいけないとも言います。

そういった点を無視してがむしゃらに生産だけしていったということが、ソ連や中国の崩壊を招いたのは言うまでもないでしょう。

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ソ連や中国で失敗したことをしないできただから資本主義は存立できた、といって手放しで今の資本主義国を喜べる性質のものではないようです。

しかし、そこで儲けたお金は、投資に回さないと景気は循環しないのです。

その投資こそ、資本主義の存立の条件であるのですね。

しかし、この本が書かれた当時のアメリカや現在のアメリカでは、その投資がほとんど行われていないのです。

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巨額の利益を設備投資に回さず、会長や社長やらで山分けにしている。

これも資本主義の精神に反することですね。

ウェーバーが研究の途上で発見した資本主義の精神とは、どういうものか、これが今も多くの社会科学に携わる人たちをとらえて離さないものなのですね。

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マックス.ウェーバー

それは以下です。

キリスト教的な禁欲主義です。

これが資本主義を支えるエートスだったというのです。

禁欲主義とは、何々を飲んはいけないとか、何々を食べてはいけないといった禁止事項ではなく「一心不乱に目も降らずただある行動をする」ということだそうです。

カトリックにおいては、禁欲は世俗外だったのが、プロテスタントにおいては世俗内に持ち込まれることになり、それで革命が起きたという事なのだそうです。 これが資本主義の精神に画然たる基礎を与えた、ということです。

これは非常に明快な論実でしょう。

確かにそうだ!と誰もが頷くのではないでしょうか?

私は抽象的で難解な論述の左翼知識人の書いた本には一切共鳴しませんでしたが、このウェーバーの論実には、心が空欄になるほどの衝撃を受けたのです。

よくこの事実を見つけました!と、感動ものでした。

私の大学時代にお世話になったゼミの先生は、

「大学時代にマックス.ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読破した時に、学問ってこういうものなんだと感動して涙をこぼしました。 自分が大学の教授になればマックス.ウェーバーみたいになれるのかな、とおもってこういう道に進んだんだけどなれないんですね…。」

とこぼしていたのを思い出します。

それくらい感動的な本であることに違いはないでしょう。

また、利潤や利子こそは資本主義のいわば本領である。

しかし、世界史を鳥瞰して、何とかあるいはかなり大幅に利潤を許容した例はいくらでもあるのに、そういった地域からはつい資本主義は生まれなかった。

利子、利潤すすんでは金もうけをゆるす土壌からは資本主義の精神は生まれなかったというのです。

これも非常に慧眼なことを発見したと感動するばかりですね。

私が毎日8時間以上社会科学系の勉強しても、おそらくこんなすごい誰もが目の見張るような事実を発見することはなかったでしょう。

こういった事を発見できた人は何世紀もたっても語られる大家になるのでしょうね。 前期資本主義は単なる金儲けで、近代資本主義は合理的経営体に適合的であるというのです。

この期の精神こそが、資本主義の原動力になるのだということですね。

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これがプロテスタントの精神なのです。

よくここまで発見出来ました!

これに感動し、ウェーバー研究で有名な大塚久雄氏は、自らクリスチャンになったほどですからね。

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大塚久雄

それほど素晴らしい精神として注目を浴びたのでしょう。

プロテスタントの精神においては、物欲などもってのほかであり、営利活動によって得た巨大な富は当然ながら投下資本になるできものでした。

しかしウェーバーの嘆きは以下です。

「とにかく勝利を遂げた資本主義は機械の基礎の上に立って以来、この支柱を失ってしまっている」

ということですね。

先に書いたような、利潤を会長や社長で山分けにしてしまっている、ということですね。

しかも、企業の一番上と平社員の所得格差が何百倍にもなってしまっているということもですね。

この本を読んだ当時は、こういったアメリカの事象はアメリカに特有のものと思って対岸の火事よろしく傍観していただけでしたか、日本も残念ながらそういう気風に似ってしまっているのは否めません。

しかし、健全な資本主義の継続のためには、プロテスタントの精神が必要であることがわかります。

しかし、再投資はされず、企業内でため込まれる傾向にあるようです。

それはやはり成熟化社会になっていくにつれ、物が売れない、良いように景気が立ち行かない、だから賃上げもそんなにできない、ということでしょうね今の日本は。

しかも少子高齢化において、自分が将来年金をもらえなくなるのでは、という不安のもとではますます人は貯金に励むでしょう。

しかし、これまでいろんな叡智を生み出してきた人類ですから、これからどうすれば以下といったことは工夫次第で何とか切り抜けられるのではないかと期待しています。

あまりに抽象的で無責任なものいいかもしれませんが…。

そのために、自分はどうすればいいかを考え続け、勉強し続けることが大事でしょう。

かつて、アダム.スミス「経済の世界は合理的な計算、あと先の配慮、慎重な見通し」と書きました。

その時の行き当たりばったりの経営もどきではいけないのです。

かつて90年代半ばに東京で豚骨ラーメンを初めて出した『なんでんかんでん』川原ひろしさんは、開店当初お客さんがあまりこないときに、来てくれたお客さんにビールをただでごちそうして話しかけて友達になり、を繰り返した結果繁盛店になったようです。

しかし繁盛店になったらそのサービスはやめてしまったようです。

しかし、その後いろんな豚骨ラーメン店が林立するようになり、『なんでんかんでん』よりも安くサービスのいいパターンが多くなり、『なんでんかんでん』は窮地に立たされ、それでも方針を変えずにいたらついにどうにもこうにもならず、ついに『なんでんかんでん』は閉店の憂き目にあうのでした。

また川原氏と同じく、『マネーの虎』に出ていた安田久は、経営の基本方針は「お金を儲けること」という方針が先にありきでした。

先への見通しは殆どか全く考慮に入れていなかったのですね。

ゆえにか安田久氏のお店もあえなく閉店でした。

逆に、『マネーの虎』での出願者で、今も成功している茅ケ崎のイタリアンのお店は今でも繁盛し、3号店を出すまでになっているようです。

その出願者だった今の社長さんは、「自分がいくら儲けるかは考えてない」という事でした。

ただお客様が喜んでいただけることを常に考えて行動していくだけである、といっていたのは興味深いです。

やはりアダムスミスのいった「経済の世界は合理的な計算、あと先の配慮、慎重な見通し」ということは今も正当性を持つようですね。

『貧乏脱出大作戦』に出演していた儲かっていない飲食店の長は、皆おいしい食べ物を作ることだけに意識を集中していたようです。

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そういうものも必要不可欠ですが、それだけが経営には必要なのではないのです。

経営のためには、おいしい食べもの、接客、綺麗な外装、人を感動させるサービス、広告といったものが必要なのは間違いありません。

あの番組に出て、一時的に儲ったのはテレビに出た後のちょっとした期間だけで、あとは鳴かず飛ばずであえなく閉店という例は多くありましたが、それは最初の項のおいしい食べものを作るだけで後の項への意識はほとんどか全くないのですね。

逆にあの番組に出て今も成功しているお店は、上記の事項がすべてできているのですね。

その代表が『麵屋 翔』ですね、このお店にはもう感服せざるを得ないほどの見事な経営がなされています。

お参考までにどうぞ!

麵屋 翔

このような絶え間ない経営ひいては資本主義の精神を保ち、継続し、勉強していくことが資本主義を存続していくことになるのですが、その精神は社会の内容が変遷すれば当然薄くなったり濃くなったりするものであるのは当然でしょう。

そのことについて別段批判はしないですが、かといってその変遷したままの状態を無批判でいることには批判したいのです。

私は、宗教にだけこだわるのは批判したい、という立場でした。

宗教では、確かにいいことをいっているのは確かですから、そこから学べることは学んで、そこで満足はせず、更に他のところから学んでいきたいというのが私の立場です。

宗教だけにこだわっていては前に進むことはできないからです。

ですからこの本やマックス.ウェーバーの本を読んで感銘を受けたのは、やはりプロテスタンティズムの精神ですね。

これを今一度多くの人が思い起こし、更に科学を学んで、この閉塞した状況を突破するために何をすべきかを学び、考え続けることが重要であるなと感じた次第です。

そういう人が多ければ多いほどいいのです。

この著書名のような日本の崩壊などそうそうなるものではないのです。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は当然大冊ですから、読むのが大変な人は、このを要約した本あるいは、その意義について書いた本をまずを読むことをお勧めします。

その際にまずはこの本を読んでみてはとお勧めします。

以下よりどうぞ!

日本資本主義崩壊の論理―山本七平“日本学”の預言 (カッパ・ビジネス)


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関連図書

大塚久雄 『宗教社会と近代革命』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/413354481.html?1514964255


川端基夫 『アジア市場幻想論』

2018-01-02 16:21:01 | アジア経済

この著者の川端基夫氏の書く本は、非常にわかりやすく、しかも奥の深い論述がなされているので、新刊の告知がされるとつい買ってしまうのですね。

前にも、このブログで川端氏の本を紹介しました。

また買うでしょうし、またこの場で紹介するでしょう。

この本では、日本の企業がアジア諸国にいって事業を展開するも、日本でやっている通りにしても、上手くいかないで、試行錯誤しつつ、どのように事業を展開していったかをつまびらかに論述しています。

これは実際に事業に携わった人の生の声も収録されていますので、臨場感があり、集中して読むことができます。

アジアの主要都市では、いたるところに日本の百貨店に出くわすようです。

台北に三越、クアラルンプールに伊勢丹といった具合に。

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また、スーパーは、ヤオハン、ジャスコ、西友、ユニー、サミット、いなげやといった具合に一杯来ているようです。

百貨店やスーパーは、1999年1月の時点で、85%日本のものだそうです。

この本は1999年に書かれた本ですが、それほど事情は変わってはいないのではないでしょうか。

当地では、小売業と日本の問屋の協力によってなっているようです。

困難やリスクを伴うのでこうするのだそうです。

当地に日本の企業がビジネスをしにいくも、撤退の憂き目にあうことがよくあるのだそうです。

それは例えば香港では、短期的に事業戦略を考えるのに対し、日本では長期的な視野に立って商売を考えるようですね。

この地では、先に何か月分かの賃貸料をとってから貸すのだそうです。

しかし途中で撤退しても、そのお金は返されないのだそうです。

しかし日本では、毎月月ごとに貸すのが当たり前ですね。

そこに商習慣の違いが見て取れますね。

借りた土地の直営部分に関しては、品を仕入れて販売しますが、テナント部分に関しては、サブリースをして賃貸料を取るということをしていかないと、元が取れないのでそうするより仕方なかったようですね当時は。

今は変化しているのかもしれませんが…。

そしてマレーシアでは、所得分布や宗教的な差異によってビジネスを構築していかないとうまくいかないようですね。

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この地では、華人系が高い所得を得ているようです。

そして、イスラム系の人が多いですから、宗教的禁忌として、宗教的な方法にのっとってと殺したハラルとそうでないノンハラルと分けて鳥を売らないと売れないのだそうです。

ブミプトラ政策とは、華人系に搾取され続けたマレー系の人間の地位的向上を目ざして行われた政策で、その時以降、会社の割合は、ブミ3割、ブミ+マレーシア4割、外資系3割という比率になったようですが、華人はよく勉強するために、そういった政策にも関わらず、法律的な抜け穴を探し、それを合法的に自分のやりたいように適応させてビジネスを展開していったようです。

立地、製品、所得別にターゲットを変えながらビジネスを展開していく必要があるそうです。

こういった宗教的な差異、民族的な差異を考慮に入れながらビジネス展開をしていかなくてはならないゆえに、日本のように宗教的、民族的な差異がない国とは違って発展が遅れるということですね。

私は以前にタイに行ったことがありますが、首都バンコクでは大きな賑わいを見せていましたが、山奥の方では何か物を売る気がないような人が多くいたのを覚えています。

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何故働かないの?と疑問に思われるでしょうが、こういう人たちは、何も働かなくても、その辺に生えている野菜や果物を獲って食べればいいという人生観でいるために、あくせく働かずに寝ているのですね。

いい悪いは別として。

それに、バンコクではCD屋もありましたが、たいていはカセットテープでした。 CDは少数でした、今はどうかわかりませんが。 当時CDはお金持ちだけが買うもので、一般の人はカセットだったのです。

そういうお金持ちから付加価値税をとるのが当時の政策だったようです。

ですからCDを買うと付加価値税を取られました。

しかしカセットテープを買っても付加価値税は取られませんでした。 これも興味深いことでしたね。

今は、インド.ネパール料理屋が日本にたくさんできています。

私もそこで食べて店員さん(たいていネパール人かインド人)に何故ネパールやインドで商売をしないのですか、と問うたところ、ネパールでは金銭取引の習慣が国民全体にいきわたっていないから、商売してももうからないんだということです。

ですから彼らがネパールやインドに帰るかどうかはわからないといいます。

なるほど、日本のような金銭取引が当たり前の国は、世界を見渡しても少数派なのですね。

また台湾では、モノの流通経路の違いがあり、日本の流通の仕方でやろうとしてもいけないのだそうです。

また法律の違いもあるのです。

土地使用分区管制があり、商業区でないとビジネスはできないということです。

また国民性の違いもあり、台湾では半年か1年で利益でないと資本を引き揚げてしまうのだそうです。

また、日本で特売をするのは、その特売商品を出すことで他の製品を波及的に売れるという国民性を反映して商売をしていますが、上海では特売をしても特売商品だけが売れて他の製品の波及効果はないのだそうです。

これも興味深いですね。 また先にもマレーシアの民族間で所得格差があると書きましたが、中国でも事情は同じで、都市での所得は農村の3倍の開きがあるのだと思います。

こういった所得の分かれるところでは、やはり商品も差別化しないといけないようです。

やはり日本での均一的なビジネス展開ではうまくいかないのは明白ですね。

それを一度改めて、当地で展開できるように適応させていった方法をつまびらかに論述されているのです。

ですから、この本のタイトルを『幻想論』ではなく、『適応論』と変えたらいいなと思いました。

日本の企業が現地に行ってビジネス展開しているさまを見て、「アジアの人たちを搾取している」と書いてあるのを見たことがありますが、私はそうではないと感じました。

搾取しているというのは、やりたくないことを無理やりやらせる、という感じのニュアンスですが、当地の人たちは、自主的に仕事に従事しているのであって、いやいややらせているのではないと思いますし、現に行った私のもたところそう思いました。

都市と農村、また欧米からの観光客と接する人とそうでない人の格差はあるけれども、それが直ちに日本含む観光客ゆえにそうなってしまうのかどうかは、見地によって違ってくるでしょう。

それはにわかに断定できないと思いました。

その季節になると結婚を控えたカップル、または結婚したばかりの家族の人たちに合わせて、家族用品が売れるようになるのだといいます。

こういった事を見ても、搾取しているのではないのは明らかですね。

これまで書いてきたことの内容のように国民性の違いや商習慣の違いを学んでからビジネス展開をしていかないとうまくいかないということの例を書いてきましたし、これからそれらは不変ではないでしょうから、変わった部分について随時学んでいかないといけないでしょう。

そういったことに従事している人でなくとも、外国に行ったりしたときに、それらの違いを実際に目の当たりにして、そこで思ったことをこれからの人生に活かすこともできるはずです。

抽象的過ぎて分からないかもしれませんが(笑)、こういった知識を得ながら生きていくか、知らないで生きていくかで充実感が変わってくるということです。

ここに紹介したことはほんの少しだけであり、この本にはまだまだたくさん興味深いことが書いてあります。

ですからこういったことに興味ある人はそれらを全部読んでいただきたいです。

●この本は以下よりどうぞ!

アジア市場幻想論―市場のフィルター構造とは何か

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おススメのネット本スーパー 『honto』です!

書籍や電子書籍を買うごとに、100円につき1ポイントが貯まります!

そのポイントは、また書籍や電子書籍を買うときに使えます。

更に会員になると、毎月10%あるいは20%の割引きのクーポンが送られます。

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参考図書

川端基夫 『アジア市場のコンテキスト』

http://hair-up3times.seesaa.net/article/450418711.html?1514876219