佐伯啓思 『擬装された文明』

2020-05-05 12:20:32 | 現代社会

この本は、あまりの素晴らしさに、一気に読んでしまった本の1つですね。

これは、9時くらいに喫茶店に入って、パフェグラッセを頼んで、読み始めて、1杯だけでは足りずに、もう1つパフェグラッセを頼んで読み進め、1時過ぎに精神的にリフレッシュするために終えて、店を出ました。

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そして次の日に読むのを完了しました。

これは300ページ超の本です。

こんなに時間をかけて読むなんてすごいと思われる向きもあるかもしれませんが、私が凄いのではなく、これを書いた佐伯啓思氏が素晴らしいのです。

つまらない本ではこんなことは無理です。

壮大なる文明論、しかも人が考えないような視点でモノを考えそこに意義を見出す能力の凄さはやはり尋常でないのがわかります。

単なる奇をてらった議論であれば、わけのわからない本で終わってしまいますが、実際その意味付けには説得力があるから読み進んでしまうし、そこをチェックして書きとどめてしまいうのですね。

そういう文章であるからこそ、この佐伯氏の本は出版される告知がされたらすぐに書店で予約して買って、読んでしまうのですね。

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     佐伯啓思

この本は現代の大衆社会を歴史から見て、そして今のその深層を掘り下げて観察しているのです。

資本主義の成功は、ブルジョア―貴族という図式を覆したということですね。

これはまさしく政治構造の変化が起きたのです。

そして、知識人を多く輩出したのです。

ブルジョア―貴族という図式の時代には、貴族に対して言いたいことを我慢していましたが、その図式が崩れることで言いたいことが言えて職業に就くことができるようになったということですね。

まさしく文化や価値の変化が生まれたことにほかならないのです。

図式が崩れることで、いろんな職業が生まれ、大衆がその職業に対してお金を出してくれるようになったということは、職業の幅が広がり、非常に好ましい事態になったと私などは思ってしまうのですが、それには賛否の分かれる事態を招いたということです。

それは非常に興味深いですね。

大衆が主役になったということです。

その図式が崩れたことでブルジョアから大衆がうまれ、その文化の意味内容もかわったのは言うまでもないことです。

ブーアスティンはその当時の革命を複製技術革命と称していました。

新聞や雑誌のフォトジャーナリズムによって、大衆に多くの写真や文字を認識させることに成功したのです。

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これはこの時代においては多くの人に知らしめることが大目的であったのでしょうし、それだけで満足していたのではないでしょうか?

知らしめるだけなく、受け手はそこに意味づけをしたり、そこに書かれていることを吟味し、審議を見極めることが今では大事でしょう。

その作業を怠ることで、為政者の思惑にはまることもしばしばあるのはいうまでもないです。

その知的作業は、いくつものいろんな立場の著書をくまなくよむことで培われることは間違いありません。

それをしていきましょう。

この革命について「工業的狂気が芸術を貪り食う」あるいは「芸術は公衆の支持とお金に値するように複製することだった」と書いたのはボードレールです。

工業による大衆を文化的に訓育するという啓蒙的な理性が、まさにその目指したものとは正反対の文化的野蛮、卑俗なコマーシャリズムを生み出したということですね。

リシェイプ、パッケージ、デザイン、広告はブルジョアの地位表示記号になりました。 その装飾趣味が大衆の日用品の表面に表れたのですね。

これは、フランクフルト学派による文化的エリート主義と敵対する考え、立場だったのですね。

これは芸術という高尚な文化をどのように考えるかという問題ですが、私には即断できかねる問題です。

その文化的エリート主義の立場であった、アドルノホルクハイマーマルクーゼといった人たちの本も読んで、また逆の立場の人たちの本も読んで比較考量してから判断を下すほかないものです。

しかし晦渋を極める問題です。

資本主義化によって大衆的にひろまった芸術ですが、その芸術を作る際にも、資本主義下においては、時間的な制約があり、そのことで良い作品ができることは間違いないのです。

しかし、そう一般化しないで逆に時間的な制約がないことでいい作品ができることもあるのは間違いないです。

時間の制約がない中自由にさせることで、時間を大いに使って素晴らしい本を量産する教授がいる一方、逆にほとんど研究すらしない教授が出てきてしまうのも事実なのです。

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その部分も考えさせられることですし、大衆化とは平等化と軌を一にしているのです。

しかし貴族―ブルジョアの図式があったころは、不平等ゆえに芸術を嗜む階級が莫大なお金を所有することができたのです。

それゆえに後世に遺る芸術作品ができた部分も大きいのです。

ですから、一概のどちらの立場がいいかといった即断はできないのが現状です。

ここで大衆をどうとらえるかという問題ですが、ル.ボン「群衆とは巨大な集団催眠」と規定していますが、それをどう評価するかは人それぞれでしょう。

興奮している集団に身を置くと自分はそんなに興奮していないのに、なぜか興奮してしまうという覚醒作用はありますね。

それが間違った方向へいっているかどうかに関係なく、一気にその集団の方へ流れてしまう。

そこで一歩離れて、それが正しいのかどうか吟味する必要はありますね。

みんながいっているから自分もそうする、ではなくきちんと相対的に考える必要がありますね。

また、タルドはその大衆社会は、文化の衰弱であり、知的凡庸さによる社会生活の支配としているのです。

群衆の漂うままに自分の行動を規定してしまっている主体性の欠如ということでしょうか。

これも当たっている部分もありますし、当たってない部分もあることは間違いないでしょう。

全部が全部、群衆の漂うまま生きている人もいないですし、主体性が全くない人もいないでしょう。

しかし、この時代にそのように規定している人がいたということは、そういう人間があまりにも多いということを一般化してしまうほど多くいたということでしょうか。

もしそうならば、その原因を探る必要がありましょう。

やはりメディアの発達によって、それをみるだけで満足してしまっていたのでしょうか。

精神の発達段階の初期段階で終わてしまっていたのでしょうか。

ではそれを反面教師にして、そのような事態に自分もなっていると感じたら、その段階から脱することが大事でしょう。

やはりその歴史をみると、その状態から脱するには、そのことについて書いた本やメディアに接して吟味することが大事ですね。

そうでないことには、この本に書かれているように、今は世論を操作しうる者の専制を生みだすという危険性が存在しているからです。

そのようにメディアが発達した結果、事実伝達の正確さではなく、人々の信じ込んでしまうものの製造する能力が問われる時代なのです。

女性のダイエット、あるいは男性のダイエット、女性の薄毛、あるいは男性の薄毛、それぞれの製品って、次から次に発明されては発売されていますよね。

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しかし、共通するのは、一見もっともらしく効くような感じを与えますが、実際それだけ使えば叶うというものではありません。

ダイエットにしろ、薄毛にしろ、その他なににしろ、身体の内部と外部の両方のケアを、継続していって初めて成るものです。

それだけ付けていれば、飲んでいれば叶うというようなメカニズムには人間の身体はなっていないのです。

しかし次から次にそういう製品が出てきては、また次に新たな製品が出てきますが、それだけで叶うものではないのです。

その重要性について知るには、やはり多面的にメディアを利用するしかないのです。

メディアは一見もっともらしく見えるようにして買いたい衝動に駆らせる反面、非常に重要な情報を得る手段でもあるのです。

やはり二律背反なのです。

そのことをわかる必要があるでしょう。

こういった些細な問題点はあるにしても、現代は既に満たされた社会であって、取りたてて政治に参加する必要のない社会になってしまったことは間違いないでしょう。

普通に働いていれば普通に生活できる。 政治や行政において不正が行われても、それを別段糾弾せずとも生活に困るわけでもない。

歴史の進歩は、人を如何に幸福にしたかという尺度ではかるべきであると書いた著作家がいたことを記憶していますが、それは現代ででほとんど達成されてしまっているでしょう。

その現代社会について、佐伯氏は以下のように書いています。

「言い換えれば、物質的な進歩主義や民主主義とか平等とが相当程度達成されたとき、進歩主義は一種心地よい倦怠をはらんだニヒリズムに咳を譲り、価値の多様化という自由のイデーは面白主義というべき相対主義に転落したのが現代なのではないか。」

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この場合の進歩というものを、自由、平等、平和、人間性と置き換えています。

それは妥当性が高いでしよう。

その言葉そのものが、神聖視されるにつれ、その意味内容はほとんど検討されずに便利な標語として祭り上げられてしまった、佐伯氏は看過しているのです。

更に、啓蒙はほとんど自壊作用をおこしたのは、その原因をあまりに性急に社会問題の次元に引きづりだしたからである、ということを書いているのです。

しかし、私の敬愛する佐伯氏ですが、これはあまりに分析的過ぎているし、いにしえの哲学者の言を、無批判的でありすぎるとおもうのですね。

確かに進歩などということを現代で言おうものなら、あまりに古風な概念語のような観を与えるのは間違いないです。

しかし、どのような社会においても問題は発生するのであって、その問題点を良き方向に変えていくために、その現状を深く観察して、その方向を提示するのが知識人たるものの役目であって、その進歩という概念にあまりにとらわれすぎという観はぬぐえないですね。

その概念を中心概念にするのではなく、やはり問題点を中心にすべきであるということを批判としていたいです。

他の著書で佐伯氏は政治について「不満があることというふりをさせられる社会」と評していましたがこれも誤りでしょう(笑)。

こういった批判点はあるにしても、このような壮大な気分にさせてくれタ佐伯氏には感謝の意が尽きないのです。

これほど熱中して読んでしまったほどの本が、今では絶版なのは残念至極です。

まあ30年以上も前の本ゆえに、また昨今は毎日50冊以上の新刊が出ていますからしょうがないです。 でもこれほどの傑作が書けたのに…と私が佐伯氏の立場だったら思いますね。

先に書いたように、あまりの興味深さに4時間以上も集中して読んでしまったのですからそうそうそういう本はないです。

しかしそれならば、オンデマンド出版としても出せないかなとおもいます。

この本の原稿なりは残っているのは間違いないのですから、それを重要文化材として遺したらとすら思います。

前に紹介した桜井邦朋氏は、「大学教授たるもの本をいくつも出さなくてはならない」ということを書かれていましたが、それをしようとしても、それまで実績がなくては無理な話であって誰でもそれは可能ではないのです。

それまでにこれだけ売ったという実績がなくては、売れない人の本をもしも出して、売れなかったら出版会社は赤字になってしまいますから。

私が大学時代に履修した教授や助教授で、いま本を出しているかどうかをネットショップで探すもなかなかないんですね。

そうなるためには、桜井邦朋氏が暴露した本を出してもらえる方法として、皮肉を込めて紹介していたのは、講義を簡単にして、あるいは年末試験を簡単にすれば、履修者が増えて、その教授や助教授の書いた本をテキストにすれば多く売れた実績が出来て、本をまた出版してもらえるということですね。

私がお世話になった当時助教授だった某先生は、今は教授ですが、その先生は他の人が書いた本をテキストにしていました。

そうではなく、自分で書いた本をテキストにすればよかったのですね。 そうすれば実績ができて、自分が本を出すことも叶ったと思うのですが、そうはならなかったのが残念ですね、まじめに講義をする先生だっただけに。

もちろん、そのようにして出した本でも、実際に売れなかったら当然次はないですけれども。

何故、本を出さないのか、ということを考えるに、本を読むことに夢中で、書くことや整理するといった知的生産がおざなりになってしまっているということが言えるでしょう。

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考えることを忌避して、読書をすることでその忌避したことをごまかそうとするという知識人の生態をショーペン.ハウエルですが、そのような生態になっているパターンは散見されますね。

親しくさせていただいた教授に研究室に入れさせてもらいましたが、その蔵書の多さに押しつぶされそうでした(笑)。

部屋の4面はもちろん中間部分にも、床から天井まで本が積みあがっていたのです。

よくここまで集めたなと感心せざるを得なかったですね。

しかし、それほどの多くの本を買って読んできたにも関わらず、その教授がそれからどれだけ本を出したのかを今ネットで知らべるも、ほんの少しだけなんですね。

これでは、親御さんが大金を出して息子、娘を大学に行かせた意味がないと思ってしまうのは必至でしょう。

大学教授は、毎月研究費として10万円もらえるということでした。

しかし、そんなに読むほど月に買う必要があるのだろうか、と疑問に思わざるを得ないですね。

それだけ読んで、それを抜き書きしたり、引用したり、そこに書かれていることを吟味して自分の考えを加えるといったことをしている時間など、毎日講義があるわけでない教授であっても可能なはずはないですね。

しかも、そんなに多くの本が山積みになってしまっては、どの本にどのようなことが書いてあったかを記憶しておくのは不可能であるのは誰でも予測可能でしょう。

しかし、それだけ多額の研究費を毎月必ず付与されるのが可能なのは、多額のお金を出しても惜しみなく自分の子供を大学にいかせたいと思う父母さんが日本に多くいるからでしょう。

それでなければそんなことは可能なはずはないです。

私が大学に通っていた時代の授業料を、講義1コマに計算したら、およそ2500円くらいしたものです。

しかし、今やその当時よりも年間に直すと20万円くらい値上げしていますから、もっと上がっているのは当然です。

そんな高い授業料の価値はあるかと問われればそんな価値はない、と私はいうでしょう(笑)。

しかし何ら反発を思うことなく、惜しみなく自分の子供を大学に行かせようとする父母さんが多くいますから、それが改善されないのです。

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そこで、前にレビューした『大学なんて行っても意味はない?』という本を思い出しました。

※参考ページ

   ↓

『大学なんて行っても意味はない?』についてのレビュー

http://hair-up3times.seesaa.net/article/473106846.html?1588645597

 

授業料に見合った授業にはなっていないというのが趣旨ですね。

古本屋で買った100円で買った本の方が、1回の講義よりもはるかに有意義ということですね。

研究費を下げることは可能でしょうし、下げることを自ら申請することは可能でしょう。

そうでもしない限り、読書にばかり時間を取られ、自分の考えを練り上げる、あるいは有意義な文の書いてある箇所の引用や抜き書き、あるいは他の本との参照、あるいは自分の考えの高尚化といった知的生産をする時間が無くなってしまうのは明らかです。

自称.読書嫌いでかつ、実際ほとんど本を読まない佐伯氏が、素晴らしい本をこれまでいくつも量産してきたのですから、それは可能でしょう。

佐伯氏は著書を50冊出し、共編著は44冊出してきたのです。

自称.読書嫌いでかつ実際ほとんど本を読まない人がです。

ならば、あれだけ本を読んで研究室に本がある教授や助教授ならば本を出せるでしょう。

本を出すのが無理ならば論文くらいは出してもいいとは思いますがどうしてかそうはならないのが難しいところですね。

やはり知識に携わる人ならばそういった使命感を持ってほしいですね。

また資質的な部分もあるのでしょう。

論文などの知的な生産は、記憶力が大事ではない、とはよく言いますが、全部が当たっているわけではないことは明白です。

理論なりの文章を記憶しているかどうかでは、生産の時間に雲泥の差が出るのは当然です。

文章が書いてあるwordなりノートなりを開いて文を書くよりも、脳内だけの記憶だけで書けるのでは時間が違ってきます。

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佐伯氏東大を出たということで記憶力は半端ないのでしょう。

だから著書を50も出せたのでしょう。

またムツゴロウこと畑正憲さんも記憶力が半端なく紙に書いてあることは見るとすぐに記憶してしまうのだそうですね。

そんな脳だからこそ東大に現役で合格したのでしょう。

また畑正憲さんも多くの著書を50以上出していますね。

だからといって、記憶力に劣る教授や助教授が、何ら本を出さないといったことは法度に思わないといけないでしょう。

社会に現出する問題点を創造的に変えていくことが教授や助教授の使命なのですから。

それが科学の理念なのですから。

では、この本は以下よりどうぞ!

擬装された文明―大衆社会のパラドックス

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