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京に伝わる魔界伝説
崇徳天皇は何れ自分が院政を執るのだと野望を抱いていただけに、
隠居させられ崇徳院は歎きに嘆く、
然し近衛天皇の後には、
自分の子を皇位継承させようと、
その時が来るのをじっと耐えていた。
そして、久寿2年( 1155 )、近衛天皇が崩御。
しかしそれでも崇徳院にチャンスは訪れなかった。
新帝にはもう一人の弟、
後白河天皇が即位しました。
さらに後白河皇子が立太子したため、
崇徳院の我が子を皇位に就かせ自分が院政を執るという望みは断たれてしまった。
すべては父と子の愛憎が産み出した悲劇だったのです。
翌年、年号が保元とあらたまり、
鳥羽法皇は崩壊し、
父への遺恨は、
そのまま弟の後白河との対立となって益々深まっていく、
崇徳対後白河の二派の流れに、
摂関家、平氏、源氏が乗じて親子、兄と弟、叔父と甥といった肉親同士が敵と見方に別れて争うことになった。
これが「保元の乱」です。
この戦いでも、崇徳院は敗北しています。
都を追われ、讃岐に流されるが、
崇徳院は侘びしい配所で都への思いを募らせつつ、
「もしこの地で息絶えたならば、
自分の魂は鬼と化すかもしれない」と、
我ことながらわが身の行方が怖くなる。
それで、
罪業消滅のために五部の大乗経の写経に勤めた。
心を込めて写経した経巻を都へ送り、
せめてもの奉納を願った。
ところが、たとえ筆跡であっても、
都へ置くことはならないとつき返されてしまう。
崇徳院は憤懣やるかたない想いを胸に、
送り返されてきた経文を鬼門に捧げ、
都を呪ったそうです。
怨念の果てに、崇徳院は亡くなりました。
その後、都には災いが絶えず、
怨霊となった崇徳院が猛威を振るっているのだと、
都の人々は畏れました。
今回はここまで・・
続きは次回に・・
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