オヤジのひとり言

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許波多神社の「秋祭り」子ども神輿

2010年11月04日 | Weblog
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http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/ae/e63b22a9b1837efdc11d63de97f8e35f.jpg宇治市木幡の許波多神社の秋祭り

昨日は事務所に出勤途中・子ども神輿のお通りです。

そうです今日は近くの許波多神社の秋祭りです。

こはた神社の社伝では、大化元年(645年)、

皇極天皇が夢で

「吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へ」とのお告げを受け、

中臣鎌足に命じ木幡荘に社殿を造営させたと伝えられる。

壬申の乱を前に大海人皇子が大津宮から吉野に向かう際、

社頭に柳の枝を挿して

「我に天位を践まば、この柳、芽を出すべし」と戦勝を祈願した。

大海人皇子が即位すると柳の枝が芽を出したことから、

天皇は霊験を賛えて「柳大明神」の名を贈り、社領を寄進したという。

明治41年(1908年)に旧河原村の田中神社を合祀したため、

同社の祭神であった天照大御神、天津日子根命も祭神としている。

境内には「狐塚」と呼ばれる宇治陵第36号墳墓があり、

藤原基経の墓と伝えられている。


もうひとつ許波多神社が隣村にもあります。

五ヶ庄の許波多神社は

天忍穂耳命のほか瓊々杵尊、神日本磐余彦尊(神武天皇)を祀る。

社伝では、

大化元年(645年)、蘇我倉山田石川麻呂の奏上により、

孝徳天皇が中臣鎌足に命じて

木幡荘に皇祖を祀る神殿を造営させたのに始まると伝えられる。

当時は柳山の地に社殿があったことから「柳大明神」と呼ばれるようになり、

江戸時代までは「柳神社」を正式の社名としていた。

明治時代、

陸軍宇治火薬製造所(現 陸上自衛隊宇治駐屯地)の建設のため

社地全体が官有地として召し上げられ、

当社は御旅所であった旧岡田村内の現在地に遷座し、

その際に社名を旧称の許波多神社に改称した。

平安時代後期の作とされる男女一対(馬頭天王・弁財天)の神像が伝わるが、

これは附属の寺で祀られていたものである。

本殿には、鎌倉時代の作とされる天忍穂耳命の神像が祀られている。

かつて、

社殿より続く東西2町の馬道で競馬(くらべうま)の神事が行われており、

「競馬発祥の神社」とされている。

当社に残る平安時代の鐙(あぶみ)は重要文化財に指定されている。

ほかにも、

馬頭天王の神像があることから、

「馬の神社」として競馬ファンや競馬関係者の信仰を集めている。

オヤジも重賞レースの時は願掛けにいっていたが??

そういえばここ10年ほどいっていないなぁ~・・

道理で・当らない訳だ・・

g)http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/d2/5e8268a4d2399a762bd555cac3e6b269.jpg