roadman帰ってきた! ディレイラー復活!
でも夜から雨の予報なので休業。
だいぶ目が慣れてきたので,片道1時間,往復40キロくらいは走ってみようかなと思って出てみた。
内側も外側もだめだー。片道1時間走れない。15キロくらいできつくなってしまったので,そのまま帰ってきた。
帰りは力の抜き方がわかってきて少し楽になったけど,のぼれないし続かないし,がっかりです。
これはもうちょっとずつ戻すしかないので,週末は最低1時間は乗るようにしよう……。
職場まではちょこちょこ行っていたけど,このルートは信号だのなんだので停まるから,割に頻繁に休む時間があって,それでなんとかなっていたのではないかと思う。
2時間続くようになったら,あとは大丈夫だと思うのよね。
補食のストックも復活させよう。
丸谷才一さんの『恋と日本文学と本居宣長』終了。単行本(タイトルが違うけどなかみはおなじ)も持っているはずなのに見つからないから,文庫版(単行本と同じくらいの値段だった!)を買ってしまっていたのが,読み終わったら見つかったよ……。
長めの評論が3つ入っていて,はじめのは,中国文学では私的な恋を扱わない(性愛小説はあっても恋愛小説はない)が,国文学ではそうではない,近代になって西洋文学が入ってくる前から,恋は文学の主題だった,超先進国中国に学んでいながら,どうしてそうなった?というのを,古代的な信仰の水脈という視点から論じたもの。その展開の絢爛といったらもう! わが朝の古典の豊穣がこれでもかと示される感じ。主に歌だけど。文芸評論ってこうじゃないといけないのかもね。つい,引用元を読みたくなるような。そしてとにかく華やか。華やかな評論なんて,めったにあるもんじゃないと思う。
アタシは稗史小説が好きなんで,中国文学に恋がない,えっ? と思うのだけど,あれは恋を主題としているというカテゴリには当てはまらないということなのだろうか。まあ,たしかに,『聊斎志異』の異類の美女と才子の恋が,時代のある相をうつすものかどうか,といわれたら,そうでもないのかなと思ったりはするけども。パターン化されているというかねえ。
ふたつめのは,この問題を早い時期に論じた研究者として,タイトルにある宣長をとりあげたもの。宣長はたいへん歌のへたくそなひと(敷島のやまとごころ……が有名だけど,ほかもひどいらしい)という認識でいたのだけど,なまじ理屈をこねるタイプだからヘタだったのかなと思ったりした。『チベット旅行記』の河口慧海の歌がこの人の路線に似ていると思う。慧海は,その下手な歌を無邪気に公開してるところがまたいい。嘱目のうたというのか,見たものをそのままよみましたみたいなコドモの歌をへただとは思わないけど,この人のはへた。何が違うんだろう。
この2つめのなかで,宣長は考えに考えて,でも最後のところでへんになってしまった,と書いているのだけど,そのへんになったところを解決しようとしているのが3つめ。重要な材料として『平家物語』のはなしが出てきて,読んでてよくわかんなかった『平家物語の読み方』をもういっぺん読もうかなと思ったりした。
わりと言いたいことを言っているな-というかんじがする本だけど,別に構わない。おもしろいし,よみやすいし。
古代的な信仰の残滓のようなものがわが朝の古典文学に底流していて,精神の軸がそれによって成立しているというのは,素直に理解できて,賛同もする。そのめがねで見ると,いろんなことがよくわかると思う。でもそれって,わが朝に限らず,ヒトという生きものの性質に強く関係してるんじゃないだろうか。丸谷さんもそれに気づいていたきらいがあるけど,つっこんではいない。存命の間に,長谷川眞理子さんあたりとの対談がみたかったなーって思った。
で,『コンパス・ローズ』は中断中。小説を読むのは疲れるよ。『食物の帝国』に手を出してしまった。
でも夜から雨の予報なので休業。
だいぶ目が慣れてきたので,片道1時間,往復40キロくらいは走ってみようかなと思って出てみた。
内側も外側もだめだー。片道1時間走れない。15キロくらいできつくなってしまったので,そのまま帰ってきた。
帰りは力の抜き方がわかってきて少し楽になったけど,のぼれないし続かないし,がっかりです。
これはもうちょっとずつ戻すしかないので,週末は最低1時間は乗るようにしよう……。
職場まではちょこちょこ行っていたけど,このルートは信号だのなんだので停まるから,割に頻繁に休む時間があって,それでなんとかなっていたのではないかと思う。
2時間続くようになったら,あとは大丈夫だと思うのよね。
補食のストックも復活させよう。
丸谷才一さんの『恋と日本文学と本居宣長』終了。単行本(タイトルが違うけどなかみはおなじ)も持っているはずなのに見つからないから,文庫版(単行本と同じくらいの値段だった!)を買ってしまっていたのが,読み終わったら見つかったよ……。
長めの評論が3つ入っていて,はじめのは,中国文学では私的な恋を扱わない(性愛小説はあっても恋愛小説はない)が,国文学ではそうではない,近代になって西洋文学が入ってくる前から,恋は文学の主題だった,超先進国中国に学んでいながら,どうしてそうなった?というのを,古代的な信仰の水脈という視点から論じたもの。その展開の絢爛といったらもう! わが朝の古典の豊穣がこれでもかと示される感じ。主に歌だけど。文芸評論ってこうじゃないといけないのかもね。つい,引用元を読みたくなるような。そしてとにかく華やか。華やかな評論なんて,めったにあるもんじゃないと思う。
アタシは稗史小説が好きなんで,中国文学に恋がない,えっ? と思うのだけど,あれは恋を主題としているというカテゴリには当てはまらないということなのだろうか。まあ,たしかに,『聊斎志異』の異類の美女と才子の恋が,時代のある相をうつすものかどうか,といわれたら,そうでもないのかなと思ったりはするけども。パターン化されているというかねえ。
ふたつめのは,この問題を早い時期に論じた研究者として,タイトルにある宣長をとりあげたもの。宣長はたいへん歌のへたくそなひと(敷島のやまとごころ……が有名だけど,ほかもひどいらしい)という認識でいたのだけど,なまじ理屈をこねるタイプだからヘタだったのかなと思ったりした。『チベット旅行記』の河口慧海の歌がこの人の路線に似ていると思う。慧海は,その下手な歌を無邪気に公開してるところがまたいい。嘱目のうたというのか,見たものをそのままよみましたみたいなコドモの歌をへただとは思わないけど,この人のはへた。何が違うんだろう。
この2つめのなかで,宣長は考えに考えて,でも最後のところでへんになってしまった,と書いているのだけど,そのへんになったところを解決しようとしているのが3つめ。重要な材料として『平家物語』のはなしが出てきて,読んでてよくわかんなかった『平家物語の読み方』をもういっぺん読もうかなと思ったりした。
わりと言いたいことを言っているな-というかんじがする本だけど,別に構わない。おもしろいし,よみやすいし。
古代的な信仰の残滓のようなものがわが朝の古典文学に底流していて,精神の軸がそれによって成立しているというのは,素直に理解できて,賛同もする。そのめがねで見ると,いろんなことがよくわかると思う。でもそれって,わが朝に限らず,ヒトという生きものの性質に強く関係してるんじゃないだろうか。丸谷さんもそれに気づいていたきらいがあるけど,つっこんではいない。存命の間に,長谷川眞理子さんあたりとの対談がみたかったなーって思った。
で,『コンパス・ローズ』は中断中。小説を読むのは疲れるよ。『食物の帝国』に手を出してしまった。
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